病気の前の私とは
ここで病気に倒れる前の私をご紹介します。
文武両道な人
勉強は良く出来ました。
小・中とランカーで、TOP10には常に入っていました。団塊ジュニアの年代ですから、クラス数も多い、1学級の人数も40人超えのマンモス学校でランカーであることは大変。
でも、目標を作り、そして達成する。達成することが爽快で爽快で仕方が無かった小・中時代を過ごしました。
また、スポーツは団体種目は苦手でしたが個人種目なら何でもできる人で、中学の同級生には「勉強もスポーツも、何をやっても絶対に敵わなかった。」と今でも言われるほどです。
高校で挫折を経験する。
高校は進学校に進みました。でも、勉学に関してはここで挫折するんですよね、超凡人に降格しました。
ただ、私にはスポーツの才はあったので、高校でも中学時代と同じスポーツをしていたのですが、1年生の夏に怪我をし、そのスポーツでは中学時代ほど成績も残せなかった我が母校の部を辞めました。
スポーツでも挫折したのですが、結局のところジュニア選手が上位を争うような大会には、ウンザリしていたこともあってセイセイしたというのが本音ですかね。
ダンスと出会う。
晴れて帰宅組となったのですが、時間もあるのでフラフラしていました。
そんな私をみかねて、一時お世話になったジュニア育成の先生からダンスを勧められます。そして紹介されたスタジオを見学をし、魅了された私は即通い出しました。毎日通いました。
「ダンスを子どもたちに教えなさい。ジュニア育成で幼児も預かっているから、準備運動がてらダンスを教えに来て。」
先生はそう私に伝えて来ることもあり、ボンヤリと目標が立ってきたというか。
今でこそダンスが学校教育の場で必須科目になっており、子ども達もこぞってダンスに明け暮れる毎日を過ごし、ダンサーを夢見る子どもたちも多く出て来ていますが、私が始めた頃は大所帯のスタジオに高校生は私だけで、高校生以下はゼロという、いわば「バブルを謳歌しているお姉さんたちの場所」で、子どもな私を可愛がってくれたものの、お姉さんたちと私の間には一定の見えないラインが敷かれていたことは物悲しく感じていました。
ただ、そのお陰でストイックな状況に自分を追い込んでいける環境が整ったので、プロを目指しやすかったと言えます。
むろん、当時はダンサーとしての収入源は今ほど確立されていなかったこともあり、水物の商売とされていた時代でもありました。そういった意味では、ダンサーとして仕事をこなすのではなく、振付師、スタジオの運営といった裏方に回ろうと、私は子供ながらに考えていました。
でも、始めた頃はダンスに夢中で、そんな先のことは考えませんでしたよ。
自分の人生のレールを敷く
上手くなるにつれ、将来は「ダンスでご飯を食べよう。」と。
けれど、その前に進学をするかどうかの選択に迫られていたのは事実で、どうすればいいか唸っていました。
最終的にダンスを続けることに支障がない学科である保健体育を選択し、そちらの系統の大学に入学することができました。親にも大学に進学して欲しいと泣き付かれたこともあったんです。(本人はダンスかスポーツの専門学校でよか。と考えていたんですけどねぇ。)
でまあ、入学すればこっちのもの、大学卒業後のレールを入学直後に練り上げていました。
1.大学4年間を単位を一切落とさずに、ストレートで卒業すること。(当然レッスンは毎日)
2.単位は出来るだけ速やかに1年、2年時により多く取得していること。
3.3年間という区切りで就職orフリーターでお金を貯める。
4.アメリカへGO!→ダンス留学というか武者修行ですね。
5.帰国→フリーの振付師で回るかスタジオ運営に携わる。
6.自分の城(スタジオ)を持つ。
(実際ありえないと言われるほどの単位を、病気になる直前までに優秀な成績で取得していました。そのおかげで中退せずに済みました。)
「そんなの順調にいくわけない。」と思われると思いますが、私は目標設定が明確にできていれば、どんなにハードルが高くとも乗り越えてクリアして達成する人だったので、上記のようなハードダンジョンモードに投げ込まれてもやり遂げる自信はありました。
病気になる前までは、私はそういう人でした。
完全にバリキャリ一直線の人間でした。
だから、昭和の雷親父の父が私を指して「男だったら。」とよく嘆いていたんです。
けれど、何も悪いことをしていないのに不可抗力の病気で一気に人生って狂わされるんですよね。
おー、怖い、怖い。
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