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私の過去:闘病生活とその中での気付き

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大病をしたころから現時点までのことを、ツラツラと書き起こしています。書き出すことで、今まで受け入れられなかった部分が受け入れられるかも…といった気持ちで書いています。
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2020年7月の記事一覧

31.2週間の教育実習

事前実習の後、てんかん発作が引き起こされたハプニングはありましたが、何とか無事に教育実習にこぎつけました。 ⁂ 流石は附属校の生徒、実習慣れしていることは想定内ですが、超進学校ということもあって、中学生の頃から東大・京大を目指す子が多くて、実習生の私たちがオドオドしてしまいました。 それでも私は体育の先生だったので、他の教科を教える学生に比べてプレッシャーは少なかったんですけどね。 ええ、当初通り、保健体育での卒業を目指しました。教養課程の単位は全て取得出来ていた、且

30.「がんばれ!」という言葉

この言葉はエールになる言葉だとは思います。 でも、時には残酷な言葉だとも思います。 頑張ることで達成可能なモノなら、いくらだって頑張れると思います。 でも、頑張っても達成不可能なモノの場合、これは無責任な言葉に変化します。 ⁂ 手術を行った病院にいた頃、大勢の人がお見舞いに来てくれました。 嬉しかったです。 でも、年配の方々が特に仰っていたのです「頑張ってね。」と。 あの頃は、リハビリをしても機能回復がどこまで出来るか未知数で、また、手足の重さに辛い思いをして

29.今思い出したこと

昨日のポストで救急車のことを書いていた部分を読み返していたら、ある出来事を思い出しました。それはリハビリ病院の退院時にさかのぼります。 ⁂ 退院した朝、両親が迎えに来てくれ父が運転する車に乗りました。 おもむろに父が「消防署に寄るから。」といい、自宅周辺を管轄している署に向かいました。 「何をするんだろう」と思ったのですが、消防署に到着後、父が署員のどなたかに声を掛け、署に残っていた方々が私たち家族の突然の訪問にも関わらず、快く受けてくださいました。 ⁂ 5,6人

28.事前実習とてんかん発作

大学3年生の後期は、復学したこともありバタバタしていました。 相変わらず早朝の電車に乗ってラッシュを避けて通学していました。 そうこうしている内に、4年生になりました。 そう、3年時に受けることができなかった教育実習分を、1つ下の子らとともに行くことに。 ただ、この身体だから、自宅から徒歩15分圏内の出身中学での実習を打診したのですが、「附属校にて実習を行う慣例」から適えられず。最終的に当時の学長まで直談判を行いという異例のことをやらかしたのですが「前例がない」という

27.卒論のテーマはどうしようかな

卒業の見込みでもないのに、卒論のテーマだけは決めていたものがありました。 「障害者スポーツ」 このテーマの考察をすごーくしたかったのです。でも、教授に大反対されました。理由は「客観的な視点で論文を書くことは出来ないだろう。」でした。 当時は教授の言葉は理解できませんでした。私は当事者だから、自分の身体を介した論述ができるだろう、なのに何故教授は反対するのだろう。。。 「先生、変人!!!」って思いましたよ。 泣く泣く別のテーマにするのですが、その構想自体時間がかかって

26.同期と一緒には卒業できない

病気になった初期のころから、私は「同期たちと一緒に卒業をする」と決めて入院中からゼミに通ったりしていました。 でも、不可能だったんですよね。 1年、2年生の段階で9割がたの講義単位を取り終えていたので、あと1年半で卒業しようとすれば単位的には問題がありませんでした。 教育実習がネックだったのです。 私の所属していた学部は教育学部の教員養成課程だったので、当然卒業には教育実習が不可欠になります。しかも、その数年前から4年生の時に実習に行く制度が3年生、4年生と2期に分け

25.怪我をしても元に戻るよね

大学に復学して数日後、ある男子学生、女子学生(それぞれ同期)に声を掛けられました。 男子学生「膝のボルトを今度抜くんだよ。」 女子学生「膝のじん帯を切ってしまって装具状態、松葉状態。不自由な気持ち分かる。」 みんなスポーツばかりしていたから、怪我は付きもの。 私も、かっては怪我ばかりしていました。 でも、この身体になってからは「怪我は治れば元の身体に戻るよね、良いよね。」と浅ましく考えるようになってしまって。 怪我で再起不能になる人もいるから、そんなことを思っては

24.大学に復学してみたら

大学は隣の県にあり、ずっと通学していました。 10月から復学ということなので、通学の際に使っていた電車の混み具合を考えると、早朝の普通に乗ることがベストだと考えたのですが、1人での通学はまだまだおぼつかないし、かといって母がついて行くこともどうかということもあって、同期の1人が通学していたので同伴通学を彼女にお願いしたところ、快諾してもらえました。 ⁂ 10月に入り、早朝の6時半前後の普通電車に乗り込みました。 始発じゃないので出発駅には人は多かったです。座って行ける

23.他人の視線は、時に無言の刃になる

病院にいる時には気づきませんでしたが、退院後、駅のホームに連れて行かれた時に感じたこと。。。 「他人の視線は時に無言の刃になる」 大都会のど真ん中で、若い子が装具を付けてスカート履いてエッチラ、オッチラと歩いていることが珍しかったのでしょう、老若男女、様々な人に頭のてっぺんから足先まで浴びせされた視線。 その視線は刃になって襲って来ました。 今は当時の私のような人も街でよく見かけるようになりましたが、あの頃は障害者の社会進出も今ほど進んでいなく、多くの障害者の方々は家

22.退院して先ず母が私を連れて行ったところ

退院した翌日、私は母に連れて行かれたところがあります。 私が住まいは、それなりに大きな都市で、交通網が発達しています。その都市のど真ん中にあるプラットホームに連れて行かれました。 お昼間でも沢山の人出でにぎわっているので、プラットホームも人・人・人。 そんな混雑したところに、私を連れて行った理由を母はこう言いました。 「これからラッシュの時間に電車に乗らないといけないから、昼間のここで慣れさせる。」 「都会に出ても自分を卑下しないで、お化粧してお洒落して歩こう。」

21.退院する朝

PTの訓練は順調に進み装具も納品され、装具を付けた病院外周のお散歩も平気になったころから、私は次のステップの「退院すること」を考え始めました。 大学も夏休みに入っていましたが、10月から始まる後期には完全復帰を願っていましたし、その前に家での日常生活に復帰をしないといけないので8月のお盆シーズン前に退院することを決めました。 もっとも、180日ルール(標準的算定日数)のリミットにも近づいていたこともあって、退院する方が良いとも判断していました。(2月発症だから、180日後

20.レクレーションにはカラオケを

私は参加したことはありませんが、患者が集まるラウンジ兼食堂で昼過ぎから毎週1回ほど「カラオケ大会」が開催されていました。 言語障害を持つ人にはカラオケで発声をうながし、喋くりの言葉は難しくても歌うことで、言葉の訓練になっている人もいました。 テンポの速い歌は流石に舌がもつれたりするので、ユックリ目の選曲はなされていました。 歌えるということは、言葉で不自由な生活を強いられている人には自信に繋がります。 ⁂ 今現在も私は時々カラオケに行きます。 発声練習にもなるし、

【不自由な身体を持つこと】19.歩くようになって装具を付けた

装具って知っていますか? 例えばスポーツで膝のじん帯を切ったり、アキレス腱を断裂したりする大けが等を負った場合、歩行をサポートするための器具です。 当然私のような病気になった人にも装具を付けて歩き、日常生活に戻れるよう訓練をしていきます。 多くの人は、上記のサイトにあるような大型の装具を付けています。また、装具に関しては上記サイトが詳しいので良ければお読みください。 私も作りました。でも、膝下までの長さではなく、足首までの、丁度足首のサポーター程度の長さのゴム製でした

18.障害者手帳を取得すること

病院のソーシャルワーカーから度々提案されていたこと。 「障害者手帳を取得した方が良い。」 病気になるまでの自分の印象が強くて、私自身は頭の中は「健常者」と思いこんでいました。 でも、世の中的には私は「障害者」なのですよ。 手帳を取るともれなく様々な恩恵が受けられます。 でも、障害者という烙印を背負うということ。 私の身体は徐々に機能回復傾向にはあるけれど、100%元の身体には戻りません。だから、この先の長い人生のことを考えれば手帳と取って、日本の福祉のお世話になる