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私の過去:闘病生活とその中での気付き

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大病をしたころから現時点までのことを、ツラツラと書き起こしています。書き出すことで、今まで受け入れられなかった部分が受け入れられるかも…といった気持ちで書いています。
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記事一覧

44.装具を外すとき

私は麻痺した足に装具を着けて歩いていました。 この記事にあるレベルの装具ではなかったにせよ、フラットな病院内の廊下ではなく凸凹、傾斜がある一般道では装具を装着しないと怪我をしてしまうため、外すことは叶いませんでした。 そうなると履く靴には限りがあります。 「装具 靴」で検索をすれば分かりますが、靴でのお洒落が出来なくなります。今現在は装具を装着していてもお洒落な靴を履けるように、当事者さんが開発して販売している靴はあります。けれど、当時は開発されてもいなく、私自身も当事

43.車いす生活から突然立ち上がって歩き出すと皆が驚く

翌日、車いす生活の人は病室で食事を取るのですが、歩行できる人はラウンジを兼ねた食堂に集まります。 昨日まで私は車いす生活をしていたことを入院患者の皆さんは知っているわけで、その私がスタスタと歩いて食堂に現れたことにドン引きされまして。 「あー、初めての入院じゃないことを知らない人が大半だった。」 この病院は、脳内出血等の脳障害を負った人が中心だから1日で車いす生活からの脱却は不可能なんですよね。 私も1度目の入院の時は、3か月かかって歩くことができ、食堂に1人で行くこ

42.ギプスが外れること

ギプスが外れるまでは、リハビリと言っても大したことは出来ず、相変わらずの体幹リハ。 1度目の入院よりは体幹がシッカリしていたので、指示されたことはスムーズにできるようになっていました。 手術から1ヶ月ほど経過した頃(転院後半月後)に、ギプスを取りに大学病院に行きました。 ⁂ 私の研修医が「執刀医が固定用の長い釘の場所を打ち間違えているから、2か所傷があるよ。」と術後にニヤニヤしながら言っていたことが気になってしまって。 これ、1回失敗して、2回目で成功したらしいです

41.大学病院を退院~そして転院

MRSAの検査結果が出て、ようやく転院することに。 研修医・看護師たちも若いスタッフが多くて楽しかった入院生活でした。 ギプスを膝下まではめられた状態で車いす生活だから、当然即元居たリハビリ病院に家の車で運ばれて午後には入院手続きをしていました。 午前中は、30歳までの医療スタッフばかりの環境・・・ 午後には、患者さん含めて医療スタッフも年配ばかりの環境(リハの人らは別) 20代前半の私にしてみれば、ちょっと残念な環境。。。 しかも、以前いた時より患者さんの平均年

40.大学病院は手術病院

特に整形外科で入院していたこともあって、手術が終わればベッド待ちの患者さんのために私たち術後の人間は転院をさせられる運命・・・そう、ある程度まで回復すれば”用済み”なので。 まー、仕方が無いんですけどね。普通の病院と違って臨床のデータを取って、且つ各症例の研究に充てると言う事が大学病院の使命ですから。 なので、私も転院先に打診されて、転院する準備をしていました。 ⁂ 大学病院は1つの街を再現しているようで、ショッピングモールじゃないけれど、コンビニ、郵便局、某ホテル系

39.手術前夜~手術後

手術の前夜に麻酔科の医師がやって来て、問診等を行いました。 が、その先生って私の同期にソックリ!宮川大輔みたいなフレームの眼鏡をかけていて、私の同期も同じような眼鏡をかけていて、背格好から顔の面影、すっごく似ていて、その同期に問診を受けていたように感じでゲラゲラ笑いが止まらなくて・・・ 笑いのツボに入ったら最後、止まらない、止まらないwww 先生、超困ってました。先生には罪はないんだけどー、ごめんね。 でも、全身麻酔は凄く辛いのを知っていたので、「下半身麻酔が良い!!

38.手術、再び。

今日も暑いですね。そして、また1日ぶっ飛ばしました・・・ 毎日更新が結構大変な事は知っていますが、いやぁ、ちょっと他の事をしていたら「あっ!」という間に24時過ぎちゃうんですよね。。。。 ⁂ 珍しいモーションキャプチャー検査の後は、普通の健康チェック。ああ、私に関しては脳波やMRI検査もあり、脳神経外科の診断もありました。 大抵の医師は横や縦の繋がりがあるので、私の脳の手術を執刀してくださった医師の名前を告げると「あ~、あの先生ね。」で話が通ったという感じ。 今は日

37.退院、そしてまた大学病院へ入院

東北での治療は一旦終了したので、退院し地元に戻りました。 けれど、治療の甲斐がなく装具を外して歩いていると足の捻挫が頻発することが発覚、古傷の影響をモロに受けており、その傷を治療するために地元の大学病院を訪れました。 ⁂ 私が東北で受けていた治療自体、日本では当たり前のように周知されていた方法ではなかったので、例え町医者で大きなクリニックを構えていても対応することは難しいだろうと考え、結局大学病院でないと太刀打ちできないと判断されました。 古傷の方は足首の剥離骨折とじ

36.同期の卒業式

話が前後しますが、その年の3月に私の同期が卒業しました。 私の退院は5月なので、外泊許可をもらい一旦東北から戻りました。 我がままを聞いてもらって、同期と同じ卒業アルバムに掲載してもらいました。 やっぱり、途中で死ぬかもしれない病気になったことは、私にとっても同期たちにとっても強烈な印象を残しましたから。 他学科の友達らとは卒業してしまうとナカナカ会えるチャンスがなくなるので、卒業式への出席は切望しました。 大学側も病院側も快諾してもらえ、保護者席に座り、式を見学す

35.手術

麻痺した手足の筋肉に電極を埋め込む手術を受けました。 現在でいえばシックスパッドに代表されるEMS(神経筋電気刺激療法)に近いものとなります。 今は皮膚表面からの電気刺激で麻痺した筋肉をコントロールするリハビリがあるようですが、当時は体内の筋肉に直接細いコイルというか針金を埋め込み、肩に近い腕と太腿の真ん中から電気信号を送る機械に接続するコネクターが体表に出ているという形のものでした。 最終段階では、そのコネクターも体内に埋め込み、無線でコントロールを行う形を目指してい

34.東北に出発

当時、私は東京にすら行ったことがなかったので、遥か遠い場所に行くのだなと感じていました。 当然飛行機に乗ることも初めてで、地に足が着いていない状況は嫌だな~とも感じていました。 親子3名で某大学病院に到着。時期は真冬だったので一面真っ白。 私の地元とは真反対の景色でした。顔が冷たい空気に触れ、痛かったです。 ⁂ 電極を埋め込む手術を行うのですが、一旦検査のため数日間は何もせずに過ごしている間に両親は、ここぞとばかりに東北周遊旅行に行ってしまいました。。。 まあ、住

33.休学を宣言すること

先端医療に携わる方々の診察を受診し、その治療を受けることにしました。 今はその治療法はFES(Functional Electrical Stimulation 機能的電気刺激法)と呼ばれる方法で、当時は電極を埋め込む形でしたが、今現在は皮膚の上から電気刺激を行うことが主流になっています。 いま検索してみると、埋め込みの方は色々と問題提起のされている方法だったようで、でも、患者・患者家族としては藁にもすがる思いでしたから、埋め込みの手術を受けることに。 ⁂ 入院は最低

31.2週間の教育実習

事前実習の後、てんかん発作が引き起こされたハプニングはありましたが、何とか無事に教育実習にこぎつけました。 ⁂ 流石は附属校の生徒、実習慣れしていることは想定内ですが、超進学校ということもあって、中学生の頃から東大・京大を目指す子が多くて、実習生の私たちがオドオドしてしまいました。 それでも私は体育の先生だったので、他の教科を教える学生に比べてプレッシャーは少なかったんですけどね。 ええ、当初通り、保健体育での卒業を目指しました。教養課程の単位は全て取得出来ていた、且

30.「がんばれ!」という言葉

この言葉はエールになる言葉だとは思います。 でも、時には残酷な言葉だとも思います。 頑張ることで達成可能なモノなら、いくらだって頑張れると思います。 でも、頑張っても達成不可能なモノの場合、これは無責任な言葉に変化します。 ⁂ 手術を行った病院にいた頃、大勢の人がお見舞いに来てくれました。 嬉しかったです。 でも、年配の方々が特に仰っていたのです「頑張ってね。」と。 あの頃は、リハビリをしても機能回復がどこまで出来るか未知数で、また、手足の重さに辛い思いをして