『人間の教科書』不安とサヨナラする方法【ワンネスの見つけ方】
さっきお昼ごはんに僕を食べました。あ、もとい、チャーハンを食べました。はい、というわけで。
今日もあらかじめ伏線を張ったところで今日の気づきを紹介します。
昔の人は「お米には一粒一粒に神様が宿っている」と言いました。
でも今の人は、あまりそういうことを言いません。
なぜでしょう?
エビデンスがないから?
そうかもしれません。今は科学という名の宗教が信仰されている時代です。
科学は客観性が重視されます。
客観性は人をめったに裏切りません。
だから神の名を騙って主観的な自分勝手を押し通してきた宗教に愛想を尽かした人類は科学という名の客観性を選び取ったのでしょう。
正しい判断だと思います。
(しかし科学という神の名を借りて、恣意的なデータをニセの客観性として提示する人間は今もきっといますから、そこに注視しなければならないのは今も昔も同じです)
今日の話に科学的なエビデンスはありません。
強いて言うなら僕が感じていること、それが唯一のエビデンスです。
でも、それって大きなことじゃないでしょうか。
なぜなら「本当かなー」と思うようだったら、これを読むあなた自身の身でもって検証することが可能だからです。
どこかの高名な学者が発表したデータよりも、あなた自身が身を持って検証できたことの方が大きなエビデンスと言えるのではないでしょうか。
さて前置きが長くなりましたが、結論を述べます。
不安から逃れる方法。
第1ステップは自分軸を持つことですが、先にも述べたように自分軸を持つことは言うほど簡単なことじゃない。
すぐに他人軸の世界、価値観に意識は引きずられてしまいます。
そんな他人軸の意識と仲良くしていく方法は先日の記事でも紹介しました。
今日あらたにご紹介したいのは
自分軸の意識を強力に自分の主体意識として固定化する方法。
どうしたら自分軸の意識を自分の主体としていけるのか?
結論としては
「お米には神様が宿っているんやなー」と思うことです。
お米だけじゃなく今、目に見えているものすべてが神様だと思ってみましょう。
「神様」という言葉に抵抗があるなら「意識」と置き換えてもよいです。
「調和の意識」くらいの意味合いでとらえてもらえれば大丈夫です。
これは古代の人が信仰したというアニミズム、汎神論を受け入れるということでもあります。
(素粒子=意識だとするなら、昔の汎神論と区別するためにハイパーアニミズムという言い方をしてもいいかもしれません)
では次に汎神論を持つことの効用です。
これをとりこむと様々な不安が消えていきます。
そして、あたたかな気持ちで生きていけます。
そして、あなたはこれを思う限り強靭な自分軸を持つことができます。
僕は2月2日以来、この汎神論こそ世の中の本当の姿だったと今や信じるようになりました。
それまでは、ありふれた価値観を持って生きるただの現代人でしたが、バチーンとスイッチが切り替わるように意識が変わってしまったのです。
(正直に言うと、たまに忘れてしまうのですが、その都度思い出すようにしています)
はい、今日もヤバいこと言ってますよね?
それは分かってます。
でも気づいちゃったからにはシェアしたいのです。
「この人、ヤバいこと言うてるな〜」と思いながらでもよいので、最後まで是非読んでみてください。
科学的に本当かどうかは問題じゃありません。
ただ現実の生活の中で有用かどうか、そんなまなざしで結構です。
なぜ汎神論が放棄されてしまったのでしょう?
なぜ「お米には神様が宿っている」と言われなくなったのでしょう?
なぜ八百万の神々がいる、森羅万象にはすべて神が宿っている、という考え方が人類から放棄されてしまったのでしょうか?
それは人類の自立と旅立ちのためでした。
古代、人間はずっと神様の庇護のもと平安な心で生きていました。
しかしあるとき、人類は自我を持ちました。
思春期を迎えた子供が親の庇護から逃れたいと願う心境と同じです。
人類は神のもとを離れて、独り立ちしたいと思ったのです。
では思春期を経た子供は、なぜ独り立ちしたいのでしょうか?
それは親には知られたくない事柄をするためです。
親に知られると後ろめたいような事柄をするためです。
それは自分のあらゆる欲求を思う存分叶えることでした。
そのためには親の管理下を離れる必要があったのです。
だから人類は汎神論を捨てました。
そして神のもとを離れて思う存分、自分たちのやりたいことをやり始めたのです。
自分たちが新たに信奉する神のもと人を殺し、略奪し、支配し、
自分たちで掟を決めました。
そして地球の資源を根こそぎ支配して物を大量に生産し、
それらが売れ残れば何の罪悪感もなく廃棄していきます。
そして序列を決めて誰が神に最も近づけるのか、誰が最も力が強くて偉いのか、そんな客観ゲームを始めたのです。
そして、そういったことを心置きなく実行するために汎神論は邪魔だったのです。
物を廃棄するとき、廃棄を見込んで物を生産しようというとき、それらが全て神様だなんて思うことは出来ません。
人を虐げようとするとき、物を破壊しようというとき、それらが全て神様であり、調和の意識だなどと思うことは出来ません。
だから人類は汎神論を捨てました。
神を遠くの世界へ押し込めて、目の前にちらつかないようにしたのです。
人間は汎神論を破棄することで完全なる奉仕を意識の外に追いやって、自我を全開にしていきました。
そして新しいものが出れば目移りし、買い換えたり、新たな刺激を求めたりします。
ときには人を傷つけます。
人を見下して勝ち誇ったりもします。
自分はあの人たちとは違うんだと考えて安心したりもします。
でもいつしかそんなことにも飽き始め、違和感を抱き、こんなのは何か違う、自分たちが求めていたのはこんなことじゃなかったはずだと今、多くの人が気づき始めているのではないでしょうか。
そう、おそらく人類は思春期から青年期を経て、今度は自分たちが親になる番を迎えようとしています。
そして遠く離れた親のことを思い出し始めているのです。
神とは何だったのか? この世界とはそもそも何だったのか?
この世界とは最初から客観的な厳しい世界だったのか?
私とは、この広大な宇宙にぽつんと生きる70億分の1の存在だったのか?
――違う。
――私たちの知っている世界とは、そんなちっぽけなものではない。
私たちは徐々に思い出し始めています。
自分たちが生まれてからずっと神様とともに生きてきたことを。
忙しい日常を送る私たちは今「いただきます」とご飯を食べる前に手を合わせることも忘れがちです。
何のためにそんなことをするのかもよく分からなくなっています。
作ってくれた人のため? 生産してくれた農家のため?
それも間違いではありません。
でも本当にそれだけだったでしょうか?
人参にはβカロチンが含まれている?
だから食べると健康に良い。
だから食べる。そうなのか? そういう物理現象だから食べるのか?
じゃあ、そのβカロチンと人間が勝手に名付けたそれの正体はなんですか?
どうしてそんな働きがあるのでしょう?
なぜ人参はいつでも人参の働きがあるのでしょう?
そもそもなぜこの世のあらゆることは人間に都合よくできているのでしょう?
どうしてこの世に人参や大根や魚や肉やお花やお水があるのでしょう?
まるで、あらかじめ準備されたゲームのアイテムのようではありませんか。
人参は食べられるために存在しているのか?
たまたまそこに存在した人参をたまたま生き物が食べているだけなのか?
花はなぜ美しいのか?
たまたま咲いた花の色を人間が勝手にたまたま美しいと思っただけなのか?
世の中あたりを見回せばこんなことばかりです。
人参は食べられる前は人参です。
しかし食べられて消化されたら、それは私となります。
では食べられる前の人参を「私」と呼んでも構わないのではないですか?
人間は死ねば分解されて自然に戻っていきます。
人間は死ぬ前は人間ですが、死んで分解されたら自然となります。
では死ぬ前の人間を「自然」と呼んでも構わないのではないですか?
人参は私で、私は自然で、自然はすべてです。
すべてとは神のことです。
つまり、すべてが私でした。そして、すべてが神でした。
俗にワンネスと呼ばれるものは、どこか遠い世界に在るのではありません。
死後にようやく到達する桃源郷ではありません。
今、目の前に在るもの、それがワンネスです。
必要なのは、あなたが、私が、世界へのまなざしを変えることだけでした。
誰が神とそれ以外のものを区別していますか?
人間です。
勝手にそれらを区別しているのは不完全な存在である人間です。
勝手にそれらを区別して「神なんていない」と訳知り顔で言っているのは、自分は何でも分かっていると思い込んでいる人間の方ではないですか?
これらは何か似ています。
子供です。親の庇護に気づかない子供の姿に似ています。
神は今すでにあなたの目の前のあらゆる場所に存在していました。
むしろ、この世には神しかいなかったのです。
すべてが神からできていたのです。
あなたの身体の細胞すらも、黙ってあなたを四六時中支えぬいている神でした。
でも子供は親の庇護のもとに生きていることが最初のうちは分かりません。
感謝などしません。
自分はただ一人で立派に生きていると思っています。
むしろ誰の助けも得られないくらいに思っている場合すらあります。
だからといって親も子供に感謝してくれだなんて言いません。
ただ黙って子供が困らないように世話するだけです。
親の勝手で世話するのです。
子供はいつか親を超えて、世界の頂点に立ってやるくらいに思っています。
親はそんな子供を黙って見守っています。
いつか自分たちを越えてくれることを願って、ただ子供が成長していく姿を陰から見守っています。
子供が間違えてもひどい過ちを犯しても親にひどい暴言を吐こうとも、いつか成長することを信じて黙って見守り続けています。
だから人参は残されても捨てられても大量廃棄されても僕たちに何もいいません。
黙って身勝手でわがままな僕らの力になってくれているだけです。
完璧なる奉仕。
それが神です。
親は、いつか子供が成長すれば、これらのことが分かる日が来ると黙って待っているのです。
それが親の愛です。
それこそが神です。
人はたとえ朽ちても、神としての働きに戻っていくだけなのです。
人参が人体の源になるように宇宙の源に帰っていくだけです。
やがて変化して別の形に生まれ変わるだけなのです。
と、そんなことを。
今日、家族みんなでチャーハンを食べて人参を見つめたときにうっかり思ってしまい、久々に気分が昂揚しちゃいましたのでシェアしてみました。
「いただきます」とは神様への感謝です。
必ずしも天の神様にのみ向けられたものではありません。
僕らの力になってくれるべく目の前にいる人参さん、お米さん、ネギさん、お肉さん、それらを盛り付けたお皿さんやスプーンさんに対する感謝です。
それらが実る力となった全ての存在に対する感謝です。
なぜこの世の中に不安があるのか?
なぜ戦争が起こるのか?
なぜ暴力がはびこるのか?
なぜ思いやりが欠けるのか?
神がどこにいるのか分からなくなってしまったからでしょう。
それはデパートで親とはぐれて泣いている子供と同じです。
あるいは親に愛されていないと思ってグレた子供と同じです。
親への復讐心で成り上がって天下を取った気になっている子供と同じです。
だから暴れて、自分勝手を働きます。
神なんていらない。神は死んだ。
俺は俺の人生を生きていくだけだ。
いくらそう思ってみても、あなたの身体が勝手に止まることはありません。
あなたを生かそうとする力が今すでにあらゆるところに在るのです。
それが神の正体です。
それが神によるあなたへの祝福です。
チャーハンの中にも神は数えきれないほどにいるのです(蛇足w)
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