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『人間の教科書』 やっかいな他者とは何か? 【降りてきた答え】

ずっと分からなかった「他者」の意識について発見があったので紹介します。

※この記事を読むと「自己と他者」について新たな視点が得られます。生きやすくなるかも?

うちの子、登校拒否をしてたんです。

といっても学校で誰かにいじめられたとか、分かりやすいトラブルがあったわけじゃなさそうなんです。

ただ、なんとなく行きたくない、という状況。
で、しばらく休んでいました。

僕自身、不登校になったことはないんですけど(大人になってからプラプラしてた時期は長いw)
でも学校に行きたくないって気持ちは分かるので「まぁいっか」と思ってお休みさせていました。

でも、あまりに長く続きはじめ、さすがにちょっと焦った。

目覚めと同時に大泣きするんですよ。
しかも毎日。毎朝。
で、休めるとなると、スッと泣きやむ。

落ち着いてるときに「学校なんでいやなの?いやなことでもあったの?」と尋ねると「別にない」という。
周りに聞いても、どうやらそれは本当みたい。
親に言いたくなくて何かを隠してるってわけでもない。

でも翌朝になると、また本気で嫌がる。
別に苦手な物が出るわけでもないのに「給食がコワイ。いやだ」とか言い出して「絶対行かない」と泣きわめく。

これは、、、困ったぞ。
と思いました。

ぼくは学校なんて行かなくてもどうにでもなると思ってるタイプです。エジソンも学校行ってなかった。僕も高校辞めかけたことがあります。ましてうちの子はまだ小学校低学年ですし。ズル休みですら別にしたっていいと思ってます。

でも、なんかこれは違うぞ、と。。。

自分でありもしないオバケを作り出して、
大騒ぎして萎縮して、家にこもってしまう。

学校に行けば、新しい友達が出来たり、楽しいことだってあるはずなのに、そういうチャンスを自らふいにしてしまう。

これを「いいよいいよ」で許容するのもどうなんだ。。。

不登校の本など読むと「そのうち行くって言い出すから大丈夫」って書いてある。まぁそうかもしれない。
でも「うーん、本当にこれでいいんだっけ」となったり。

それで色々考えた。

よく夕方のニュース番組とかで「ひきこもりを叩き直すプロ」みたいな人が出てくるじゃないですか。

で、「あんた、そんなんじゃダメ人間になるよ!社会で通用しないよ!シャキッとするんだよ!ふざけるな!!!」

などとどやしつけて高圧的に叩き直す場面、見たことないでしょうか。
ぼくは昔からああいうのが一番キライ。
ああいう無駄な根性論みたいのが一番キライ。

ああいうことだけはすまいと思っていたんです。
自分のキャラ的にも「あれだけはしないな」とも。
実際にそういうふるまいを他人にしたことも一度もない。
(自分で言うのもなんですけどソフトで寛容な人間です)

にもかからずですよ。
1学期始まって間もないその日、
うちの子は「休みたい!絶対行かない!!」
って、また泣いて騒いでゴネはじめたんですね。

新学年のこのタイミングで復帰できなかったら、もうかなりの長期戦になるだろうことが見えました。

それで色々あったんですけど結論、僕はめちゃくちゃ強硬手段に出たんですよね、自分でもホント意外なことに!!!

泣きわめくはだしの子どもを肩に抱きかかえて、

「おらー!!!お前行くんだよ!!!ふざけるな!!!きょう行かなかったら一生行けね−ぞ!!!逃げるんじゃねぇ!!!」

ってな感じで強制的に家から担ぎ出し、エレベーターの中に放り込んだんですよね。で、裸足だから靴もぶっこんで。
子どもはギャーギャー泣きわめくし、もう修羅場も修羅場。

エレベーターで下まで降りてもまた上がってきたり、それを追い払ったり、家の鍵を閉めて入れなくしたり、もう大変。

で、けっきょく子ども、最後は腹くくって行った。
おかあさんに付き添われて遅刻して登校してった。

で、その日を堺にけっきょく行けるようになったんです。

しかも学校行って何かいやなことがあるわけでもない。
帰宅時はケロッとしてるんです。楽しかった〜とか言ってる。新しい友達もできて喜んでいたり。

それでも、やっぱり朝になると同じように泣き出すんです。
学校がある日は一日も欠かさずに。目覚めと同時にです。
それがもう一ヶ月以上、続いてる。

ただ変わったのは、目覚めと同時に泣くけど、けっきょく泣き止んで登校するようにはなった。
で、やっぱり帰ってくるとケロッとしてる。
普通に楽しかったらしい。
なのに翌朝になると、すべてがリセットされたかのように、やっぱり大泣きする。

お前は二重人格なのかと言いたくなるくらい人が変わる。

僕は自分が行ったことがよかったのか今もわからない。
家庭内では「よかった」ということにはなってるけど。

人生には嫌でも何でもやらなきゃいけないことがある。
という後ろ向きな信念
を誤った方法で植え付けてしまった気もして、モヤモヤしている。それで泣くのかなとか。

うちの子はどうして目覚めと同時に泣くのだろうと考えてたら、こんなふうに思った。

もしやこれ、神さまからの試練だろうかと。
しかも、子ども自身の試練というより、僕自身への試練として、このようなイベントがセットされたのではないかと。

僕自身「嫌でも何でもしなきゃいけない」という発想が心にしみついていて、この観念に苦しみがちだった。

これは、かつて僕が田舎に居た頃の母の口ぐせで、僕はこれがとってもいやだった。
で、やっぱり知らない間にこの思考回路を引き継いでしまったのか、そういう呪縛に引きずられることが多かった。
今でもゼロになったわけではない。
このところだいぶ調子が良いが、時としてそういう思考になってしまうときもある。

しかし、だ。
人生に「嫌でも何でもしなきゃいけない」なんてものは何ひとつない。
すべては自由だ。

世間の目とか気にしなければ、どんな選択でもできる。

にもかからず
「ああ、今日はあれをしなきゃ。これをしなきゃ」
と考えてしまう。
そう考えてしまうことをまた否定的に受け止めたり。
とにかく心がズーンと重くてスッキリしなかったり。
「今日はこれができる。あれもできる。楽しいな」
と思ってもいいのに、その思考の癖に引きずられがちだ。

自由選択として捉えていいことを
義務や苦労として考えてしまいがちな自分がいる。

世間体や人の目を気にしてるわけではないので
どうやら僕の自分軸自体がそんな風に毒されているようだ。

と、おそらく僕の他人軸が教えてくれた。
(他人軸、ありがとう!)

これらのことを改めて僕に気づかせるために
うちの子は訳もなく朝になると泣き出す】
というシナリオが神様によって強制発動されたのでは!?
としか思えないほど毎朝懲りずに泣く理由は謎だった。

で、僕が変われば、この呪縛をうまく手放せれば
子どもは泣かなくなるんじゃないか、と思ったり。

そんなとき、ふと考えた。
もしこれが僕の試練のために起こっているのだとしたら
「他者とは自分だと考えてよいのではないか」と。

僕自身の中にも他人軸、自分軸という、それぞれ別々の思考癖をもったパーソナリティが同居している。
だからこそ僕は自問自答が出来る。自省もできる。
内観をしたり、気づきを得たり、葛藤が出来る。
(サザエさん風に例えるなら、天使のカツオと悪魔のカツオがカツオ自身の両肩で議論している状態があるってこと)

では、この自分自身の中の働きは外側には在るだろうか?

実はある。
それが他者だ。

他者は自分とは異なるパーソナリティの持ち主だ。
これは自身の自分軸と他人軸くらいに異なる。
あるいは、それ以上に明確に異なる。
だからこそ見解の相違が生まれ、議論ができ、その結果、自分ひとりでは得られなかった気づきを獲得できたりする。
もちろん不和が生じ、決裂し、互いになにかを学ぶことも。

実はこれと自己内観がやってることは同じだ。

自分軸と他人軸の議論をビジュアライズした様態が、
自分と他人の議論の様態だと言ってもいいくらいだ。

とするならば、他者とは自己なのです。
自己に気づくための自己ならざる自己なのです。

僕らは神という巨人の中に住んでいると考えてみましょう。
するとまさに僕らは神にとっての細胞であり、
あるいは多重人格のうちの一人でしょう。

神は神としてベストな選択をするために
あっちの自己とこっちの自己をぶつけて、
よりよい道へといざなおうとしています。
「いやだ、いやだ。何もしたくない」と叫ぶ自己と
「そんなこと言うなよ」とその自己に翻弄される自己、
そんな内的葛藤って僕らの中にも日ごろありますよね?

この観点で見ていくと、
うちの子の問題がまさに僕の気付きのために起こるということが充分起こりうる、ということが理解できてきます。

つまり、この状況の発生は偶然ではないのです。
まさに高みから僕らを臨む神性意識のもと、そのように采配されて起きていると考えられます。

ぼくは、うちの子を登校させるべくエレベーターへぶっ込んだとき、自分が自分ではなくなっている感覚がありました。
もう何かに憑かれて、言わばキャラブレを起こして、それをしたのです。
でもその結果、こどもは学校に行けるようになりました。

そしてまた、子どももキャラブレを起こして毎朝、泣きます。それは僕に気づきを与えるためのようにしか思えないのです。
僕は泣いてばかりの子どもにこう言いました。

「お前な、別に何も嫌なことないだろ? てことは、その嫌だって感情はお前が自分で作り出しちゃってるだけじゃん」

で、子どもが学校に行った後、こう思ったのです。

「いや、今のことば、そのまま自分に当てはまるやん」

まさに神なる意識が、この言葉を僕が発することで、僕が自身に対して気づきを得ることを仕組んだように思えてならないのです。

以前、満員電車でサラリーマンが小競り合いしてた記事を書きましたが、
このやり取り自体が「他者ってなんだろう」という疑問を大きく持つきっかけだったのですが)

足を踏まれた男は大声で、困惑する相手にこう言いました。

「お前、なんだ喧嘩売ってんのか!? あぁ、なんだその態度! 周りの迷惑を考えろ、周りの迷惑を!! お前みたいなやつがいるとみんなが迷惑なんだよ!!!

これ、奇妙な言葉だと思いませんか?
だって満員電車で、そんな剣幕起こして一番迷惑なのは、どう考えても、その男自身じゃないですか。
その男は、その男自体が廻りから言われるべき言葉を、あろうことか自ら発して相手にぶつけていたのです。

これは、ものすごく強い違和感として僕の中に残りました。
あの男は、なぜあんなことを言ったのか?

そして今日その謎が解けました。
これらのことはうちの子に対する僕と同じだったからです。

つまり人が相手に発する言葉は、時として自身に対するメッセージになっている、ということです。
しかもそれは偶然ではなく神性意識によって意図されていると考えられます。そうみなした方が辻褄が合うのです。

僕は以前、自動書記みたいな状態になったことが一度だけあります(その記事は一度公開しつつ、自分の中であまりにも整理がつかず未公開に戻してしまったのですが)。

そのとき自動書記の声はこう言いました。

「あなたはいません。あなたはわたしです。あなたの意思というものはそもそもないのです。すべては大いなる意識の流れです」と。

この言葉の意味が、僕はようやく分かった気がします。

僕らの意思は、確かに個別化されていながら、でもゆるやかにつながっているのではないでしょうか。
人ひとりの中の細胞同士のように。

そして、あるとき僕らの上位にある神性意識とでも呼ぶべきものに憑依されると言っていいのか、もともと繋がっていることの必然としてというのか、とにかく上位視点からの意思によって動かされてしまうことがあるのです。

そう考えると様々なことに辻褄が合ってくるのです。

電車の男は、きっと日頃から自身の在り方に惑っていました。
だから神性意識は男に憑依し、男が自身に向けるべき言葉を相手に向けて発させました。

その言葉によって男が気づきを得て自省し、会心するかどうかは男自身にかかっています。
しかし神は気づきのチャンスを与えたのです。
同時に僕にもその場面を目撃させ「他者とは何か」という疑問を抱かせ、気づきに到達させるための種を撒いたのです。

このように全ては、まさに神業めいた神性意識によって(時として?)上位からの操作を受けて精妙に組み合わされているのではないでしょうか。
僕にはそのように思えてなりません。

ぼくはワンネスの意識を体感する経験を持ってから
他者とは何か、しばらく考えていたのですが、
これが今ひとまず到達できた答えです。

この考えを皆さんは、ご自身の経験に照らし合わせてみて、どうお感じになるでしょう。

この視点で解釈し直してみると、ものすごく腑に落ちてくる出来事ってなかったでしょうか?
(僕は他にも色々あるんです)

※本日記事公開直前に追記
この記事は2日前に書いて寝かせておいたものなのですが、
今日うちの子は今学期になって初めて泣かずに目覚めて楽しく学校へ行きました。明日もきっとそうなるでしょう。

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