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中田敦彦による松本人志批判を詳しく読み解く➂:もっと背景を見よ!

今回で、中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITYの動画「【松本人志氏への提言】審査員という権力」の分析も3回目となります。
 
回を重ねるごとに、動画をぼんやり視聴していると見過ごしがちな中田敦彦という人物の悲喜こもごもがわかってきて、私にとっては新しい発見となりました。
 
ただ、何度も書くのですが、中田さんの分析に深みがないというかね…。ただ松本人志に権力が集中しているという、「現状はこうです」を言うだけです。なんでそうなったかという過去の経緯が全然語られていないので、議論が不十分な印象です。
 
「ねぇねぇ、わかるでしょ!?」みたいな感じで、ちょっと動画の視聴者に哀願するようにも見えます。それはオリエンタルラジオというマージナルな漫才師の哀愁にも思えるなぁ。

まあ、動画の続きを見てみましょう。(以下の「…」は中田さんの発言、時間は発言があった動画の箇所を指し示しています

テレビの演出という問題

『M-1』は漫才が格式が高いっていうふうに見せた流れがあることと、キャリアが10年って限定してたんだけど、それを延ばしたっていうことがある、っていうことがまずあるんですよ。(12:40)

中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY
「【松本人志氏への提言】審査員という権力」

うーん、ここはどうなんでしょうか。まあ確かにおっしゃる通りです。『M-1』は年1回の賞レースで、漫才の最高峰みたいなイメージ作りに成功したので、格式が上がったのは事実でしょう。それから、出場資格が結成10年以下から15年以下に延びた。
 
くわえて、『THE SECOND』ができたことで、結成16年以上の漫才師も賞レース出れることになり、漫才師は賞レース地獄から抜けられなくなった、というのもそういうことなんでしょう。けっして間違いではない。
 
そういうわけで、中田さんの言う「漫才至上主義」ができあがったわけです。その反面、お笑いダイバーシティというべき漫才以外のさまざまな演芸の格が下がり、その生存が危ぶまれる状況に追い込まれた、というのが中田さんの議論です。
 
それはどうなんかなぁ。そうなんだけれども、そこにはテレビの演出という問題がある。つまり、テレビ番組を制作するうえで、漫才の扱いが変わってきた。かつてはたんなる娯楽番組だった。若手~中堅~ベテランとそれぞれ出演するけれど、そこには競争はなかった。
 
しかし、『M-1』には採点制にすることで競争という面が押し出された。さらに、サンドウィッチマンの登場とともに、漫才師のロマンチックなサクセスストーリー性が強調されるようになった
 
この2つの性質が加わることで、番組にスポーツドキュメンタリーのような迫真性・白熱性が生まれた。それで、結果的に漫才の格が上がった(観客の側が漫才って素晴らしいと(再)認識したから、地位が向上したのかもね)。
 
そして、テレビ局的には、この『M-1』フォーマットの拡張で実利を得ていこうとする流れができあがった。視聴率が稼げるなら、この傾向も仕方がない。それは松本人志の権力のせいなのかどうか…。中田さんの議論は、そこが問題である。

若者はなぜ漫才師を目指すのか?

そんななかで、僕がもう1個問題だと思ってるのが、実はその若手がすごくその『M-1』に集中しすぎちゃって、逆にチャンスが減ってんじゃないかなと思ったが時期あったのね。他の出方いっぱいできるのに、『M-1』に向けてだけやる人すごい多くて、減ってる? チャンス、もしかして?って思うこととか。(12:57)

中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY
「【松本人志氏への提言】審査員という権力」

これはそうだともいえるし、そうではないともいえる。個々の漫才師が『M-1』を目指すのか、それ以外を目指すのか、ということだよね。
 
それもわかるんだが、『M-1』を目指すのが芸人にとってわかりやすかったということもあるんじゃないか。もし、その流れがいけないことだとすれば、代替案として何があり得るのか。結局、そこにしか成功の道がないなら、そりゃみんな集中するよね。
 
昔はそんな道、なかったんだよ。いまはその道ができているんだ。いうなれば、昔の芸人にはひたすら道なき道を進まないといけなかった。芸人って悪路でもがき続ける、地位がけっして向上しない存在だった。

でもまあそれはそれでシンプルな世界だった。しかし、現代社会はきわめて混沌としている。また、どの分野も新たに参入する余地の少ない社会でもある。そこに『M-1』という高速道路が開通した。一気にスターになる道が開けた。そして、みんなそこに殺到したってことで。
 
それってもう漫才界を超えて、日本社会全体の問題じゃないかという気がする。それは、エリートコースを外れた若者にとって、成功する道が漫才ぐらいしか残されていない、というディストピア的状況を示してはいないか。
 
だから、中田さんに考えてもらいたいのは、漫才界を超えたもっと大きな社会的問題なんだ。でも、漫才界だけで議論を展開しようとするから、その実直な批判精神が松本人志にしか向かっていかない。それでおかしなことになってしまう。
 
漫才も社会現象のひとつなんだから、事態をもっと俯瞰的に見てほしい。社会的背景をきちっと分析しないから、たんなる個人批判に陥ってしまい、「それってあなたの感想でしょ」的に反発を食らうんだと思う。そこはとても残念に思う。

『M-1』の審査員とは?

あとね、他の賞レースとの大きな違い、これ功罪両方あるんですけど、『M-1』って圧倒的に審査員に光がめっちゃ当たるんですよ。で、審査員が何て言うかっていうのは超重要なんですよね。とくに松本さんだよね。松本さんがもっと点数入っても良かったと思いますけどねって言ったら、順位が低くても、ものすごいフォーカスされたりしますよね。あれがもう圧倒的な特徴なんですよ。この『M-1』の。(13:24)

中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY
「【松本人志氏への提言】審査員という権力」

これもね、その通りなんです。おっしゃる通り。なるほど、それが『M-1』の特徴だ。で、それがどうだというのか。良いのか、悪いのか。中田さん的には、それが良くないと言いたいのだと推測します。
 
ただ、私が思うにこれは芸人以外の人、たとえば作家だったり文化人だったりが採点するとブレが大きいので、専門家である漫才師ないし芸人が審査をしましょうということではないのかしら。その苦汁をなめさせられてきた漫才師が、実はダウンタウンなわけです。それはのちに藤本義一批判につながりますけどね。
 
また、審査員にフォーカスするのも、それもまた番組の演出の仕方の問題じゃないかと思うんですけどね。別に審査員の人たちが目立ちたいわけじゃないと思います。むしろ黒子に徹したいでしょう。でも、漫才を見て笑っている姿を不意にカメラで抜かれたりして、予期せぬ影響を与えてしまう。本当はネタ以外の部分で笑っているかもしれないのにね。クレショフ効果だな、こりゃ。
 
それに、番組の進行上コメントは求められるんだから、なにか言わないといけないですよね。みんな沈黙するわけにもいかない。審査員は権威を振りかざそうなんて思っていないはずで。コメントがどう受け取られるかは、もう受け手側の問題ではないかな?
 
んー、言いたいことがいっぱいで、全然先に進めない。でも、長いので今回はここまで。ではでは、また次回。(梅)

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