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お手洗い 第3話 ~赤と青~(エッセイ)

電子部品の納品が終わり、応接室のテーブルでノートを開いて浅野さんと打ち合わせをしていた。
専務から預かった現金5万円の入った封筒を浅野さんに渡すのがきょうの仕事だったが、テーブルに着席するや否や、紙コップのコーヒー一杯ですら業者から受け取れないと浅野さんにくぎを刺されてしまった。
―― どうしよう
左手でスーツの上から右の内ポケットのあたりに手を置いてみた。
「その5万円は絶対浅野さんに渡してくるのよ、わかった。そんなこともできない営業ならクビにするからね」
専務の声が頭をよぎる。
中途入社したばかりなのにまたあの地獄の転職活動をするのかと思うと、ゾッとした。
―― おカネを受け取ってくれるはずもないが、渡そうとして断られたらその事実をありのままを専務に報告すれば良いんだ。それで良いんだ。
浅野さんがボールペンのノック部分をカチッと押した。
「はい、こんなところでしょうか。では次回の納品よろしくお願いします」
浅野さんはボールペンをグレーの作業着の胸ポケットにしまい、バインダークリップをポケットに挟んでノートを閉じた。
私はマズいと思い、おカネの話を切り出そうとした。
「あっ、浅野さん。あのー・・・」
「はい、なにか」
「・・・次回の納品には道を間違えないようにします」
浅野さんは眉毛をハの字にしながら立ち上がった。
「ハハハ、そのうち覚えますから大丈夫ですよ。事故を起こされるよりよっぽど良い」
私も立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それじゃあ」
浅野さんは右手を挙げて応接室を出ていった。
最後の最後までおカネの話を切り出すことができなかった。
テーブルを見ると、紙コップのコーヒーと紅茶から湯気が消えていた。
私はそれらを自動販売機の脇の洗面台に流して捨てた。
ノートをカバンにしまうと、右の内ポケットだけが重く感じた。

エントランスから外に出て振り返ると、この会社の建物だけが異様に大きく感じた。
車に乗り込み、今度は栃木県にある別の会社の打ち合わせに向かう。
渋滞する一車線の旧街道を走る。
昼食をとっている暇がなく、途中のコンビニでおにぎりを買って車を走らせながら食べた。
わずかに下ろした車のウインドウから焦げ臭い匂いが漂ってきた。
道路の脇のずっと先の畑から煙がモクモク上がっていた。
―― 火事か? 野焼きか?
どうやら、野焼きのようだ。
―― 営業を諦めて運び屋になろうと決心したのに、運び屋にもなれなかった。帰ったらクビを言い渡されるのだろうか・・・
ウインドウをぴしゃりと閉めた。
―― だが、浅野さんとの関係が崩れたら元も子もなくなる。これで良いんだ。これしかなかったんだ。
畑の周りにマスクをした人が数人立っていた。どうやらここで野焼きを行っているようだ。
のろのろと走る車から野焼きで上がる煙を眺めた。


日が傾き始めたころ、栃木県の企業に着いた。
駐車場がだだっ広い。門の入口から向こうに見える建物の正面玄関まで200mくらいありそうだ。
しかし、端にある従業員専用の駐車場所には車が数十台駐車してあるものの、中央の駐車場所に車はほとんど見当たらない。私は車を正面玄関に近いところに駐車させ、受付で打ち合わせ予定の訪問先である清田(せいだ)さんの名前を記入し、会議室へ向かった。
中に入ると、四人ずつ対面できる大きな茶色のテーブルが置いてあった。私はその手前で立って待っていた。
ノックがした。
薄緑色の作業着を着た白髪交じりで背の高い清田(せいだ)さんが手ぶらで会議室へ入ってきた。
「車で来たの?」
「こんにちは。はい、車です」
「道の駅に寄ってきた?」
「いいえ、時間があまりなかったもので」
「どうぞおかけください」
二人は席に着いた。
清田さんが会議室奥の窓に映る山のほうを見ながらあごに手を当てて言った。
「先日、社長からいただいたお饅頭おいしかったよ」
私は1か月前に社長とともにこちらに訪問し、引継ぎの挨拶に来ていた。その際、社長は道の駅で買ったお饅頭を手土産として清田さんに渡していた。
「さようでございますか。ありがとうございます。社長もきっと喜ぶと思います」
「趣味は?」
「サッカー観戦です」
「釣りはやらないの?」
「釣りはやったことがないですね。清田さんは釣りがご趣味なんですか」
「うん」
清田さんはようやく私の目を食い入るように見て続ける。
「あのさあ、あんたんとこの目の細い女の事務員、まだ会社にいるの?」
「あっ、後藤ですね。はい、おりますが」
「ふーん」
清田さんは口を尖らせる。
「あっ、きょうは忙しいからこのへんにしよう。次に来るときまでに他社がどんな材料をどんな寸法で使っているのか調べてきて。私に教えてくれる?」
「あっ、はい・・・」
清田さんはそそくさと出て行ってしまった。
―― どんな材料って・・・
私は何が何だかわからないうちに終わった打ち合わせに困惑し、まったく見当もつかない宿題だけが大きく心に残った。

車に乗り込み、スーツの左側内ポケットから携帯を取り出し、これから帰社する旨を会社に電話する。たまたま、社内にいた社長が電話を取った。
「おっ、ごくろうさん。清田さんどうだった?」
「きょうは特に重要な打ち合わせはなかったです。次回までに他社の情報を調査する宿題をいただきました。あっ、それから前回社長がお渡しした手土産のお饅頭がおいしかったとおっしゃってました」
「おお、そうか。わかった。じゃあ、そこから帰ってくるのに2時間半かかるから7時ごろだな。俺ここで待ってるから、帰ってきたら二人で飲みにいこう!」
「はい、ありがとうございます。急いで帰ります。それと、あのー」
「ツー・ツー・ツー」
電話が切れた。専務から預かったおカネの件を伝えそびれてしまった。
―― 帰ってから報告するか

夜7時、ようやく会社に着いた。車の中から会社の玄関の窓を覗くと、社内は真っ暗だった。

(つづく)


お手洗い 第1話(エッセイ)
https://note.com/umaveg/n/n908a35bbfc68

お手洗い 第2話 ~ナビゲーター~(エッセイ)
https://note.com/umaveg/n/n62bcef113617

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