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お手洗い(エッセイ)

十二年前、私は東京にある小さな電子部品製造会社に転職した。
その会社は福島県には小さな、中国の深圳にはやや大きな工場を持っていたが、私が勤務する本社には社員がたったの4人しかいなかった。
本社の2階が住居となっており、50歳代の社長とその父である会長とその母である専務が住んでいた。
会長が社長をやっていた昭和の時代は隆盛を極めていたこの会社も、会長の痴呆症が進むとともに廃れていった。

本社はワンルーム2つ分ほどの間取りでタイル貼り。奥に社長室があり、社長室の脇の廊下沿いにトイレと階段下に専務の机があり、廊下の奥は小さな作業場兼在庫置き場になっていた。

シャー。カランカラン。ジャン、ジョー。
用を足す音が静かな夕方の社内に響き渡る。
お手洗いの扉があき、40歳代後半の事務員の女性が出てきた。事務員は目が細く、眉が薄いうえ化粧のケの字もなく、毛布のようなロングの巻きスカートをはいていた。
私は明日午前中に千葉県にある大手電機メーカーの子会社に納品した後、栃木県にある別の会社に打ち合わせに行く予定だった。
納品用の電子部品3ケースを車のトランクに準備して、私は社内で納品伝票を書いていた。
2階から専務が下りてくるスリッパの音がした。
―― こんな時間にどうしたんだろう
専務は高齢でもあるので昼過ぎに事務処理を片付けると午後は2階の自宅で過ごすことが多かった。
えんじのジャケットを着た専務の顔は化粧が崩れておらず、愛用のメガネには両側のフレームから赤いチェーンが垂れ下がっていた。
歩くのはゆっくりだが、レンズの奥に光る目玉はギロギロしていた。
専務が私の机の横に座った。
「あなた、明日〇〇行くでしょ」
「はい、納品に行ってきます」
「行くの初めて?」
「いえ、引継ぎのときに一度伺ってます」
「あ、そう。それなら、あそこの担当の浅野さんには挨拶したのね」
「はい」
専務はおもむろにジャケットの内ポケットから封筒を取り出し、私に指し出した。
「浅野さんに『よろしく』ってこれ渡してきて」
私は受け取った手を体から離したままにした。
封筒の中身をなんとなく察することができた。
斜め前に座る会長時代の参謀であった古参の社員も私の戸惑った姿と専務が渡した封筒に気づいたようで、手でバツを作ってわれわれの会話を遮った。
「専務、それお金ですか? 今はもうそういうものは受け取らないですよ」
専務は古参の社員のほうに顔を向けた。
「あら、やだ。今だって持ちつ持たれつなのよ、この世界。あなたわかってないわね」
「去年、『もうこういうことはしないでくれ』って言われたんですよ」
「そう言うけど、渡して来るのよ。それが営業ってもんじゃないの! 何言ってんのよ」
私は時代錯誤もいい加減にしてくれと思ったが、それ以上に、これで商売が成り立つなら、営業をバカにしているとさえ思った。
専務のメガネの赤いチェーンが静かに揺れていた。
「世の中、お金よね」
古参の社員が苦笑いするだけで言い返せない。もちろん、中途社員の私も手に持った封筒を見ているだけだった。

(つづく)

#いま私にできること
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