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お手洗い 第2話 ~ナビゲーター~(エッセイ)

専務から渡されたおカネの入っている封筒を手に、私は返して良いものか、しまって良いものかわからずに固まっていた。
専務のかけているメガネの赤いチェーンが小刻みに震えていた。
「世の中、おカネよね」
中途社員の私はもちろん、斜め前に座る古参の社員でさえ二の句が継げなかった。
会社の前を下校する高校生たちが連なって歩いている。
若いころ、ほのかに思いを寄せていた女性の口から「わたし、男性の好みは性格より顔で判断するの」と聞いてしまった時のことを思い出した。
専務の目がメガネの奥で座っている。
「小さな会社が生き残ってやっていくって、ものすごくたいへんな事なのよ。あんたたちにはわからないだろうけどね。その5万円は絶対浅野さんに渡してくるのよ、わかった。そんなこともできない営業ならクビにするからね」
私は返事もできずに、ただ封筒の中身だけを確認した。
福沢諭吉はあさっての方向に目を向けながら薄らとぼけた表情をしていた。
―― この会社では営業は要らないんだな
納品伝票に明日の日付と製品名、納入金額を書き込み、最後に社判を押印した。

翌朝車で会社を出発した。
東京から千葉県茂原にある大手電機メーカーの子会社に到着するのに3時間かかる。
その間、否応なしにひとり車中で物思いにふける。
いままで経験したことのない営業に不安いっぱいだった。
―― こんな会社でやっていけるのだろうか。それよりなにより、きょう浅野さんはおカネを受け取ってくれるのだろうか。
つけっぱなしのAMラジオから乾いた笑い声が聞こえた。
気づかないうちに高速を走る車の数が少なくなった。
あっ!
高速の出口を通り過ぎてしまったようだ。
車のナビゲーターに次の出口で降りるよう指示される。
ハンドルの上のほうを握り、私はアクセルを踏み込んだ。
高速を降りて一般道に出る。焦る気持ちとは裏腹に遠くに青々とした田んぼや畑が一面に広がっている。目の前には昔の家屋が軒を連ねていた。
―― 道を間違えたが、目的地はカーナビにセットしてある。どう転んでも目的地につれていってくれるはず。カーナビは便利。道を外しても結局修正してくれるんだから・・・

この会社で営業しようと思ったが、営業ではなく単なる運び屋だ、と思うようにした。
私はハンドルを上のほうから下のほうへ握り直した。

茂原駅からほど近い旧街道沿いの商店街はそのほとんどの店がシャッターを降ろしていた。
旧街道を抜け、大手電機メーカーの子会社に到着したのは予定より30分遅れのお昼前だった。
裏の検品所で納品と検品を済ませ、表玄関からスリッパを履いて建物に入る。正面に会社の歴史を示した写真がずらりと並んでいるが、人は誰もいない。玄関に置いてある社内用電話で浅野さんに納品したことを告げ、応接室で待っていることを伝えた。ロビーと廊下を隔てた応接室へ向かう。
電気の消えた廊下は自分のスリッパの音のみが響き渡り、昼間だというのに不気味に薄暗かった。廊下のずっと向こうを見ると、100mの陸上競走が余裕でできるくらい長かった。応接室の隣の部屋は真っ暗で静まり返っている。
応接室に入ると、だれも座っていない白い4人掛けテーブルが2列に渡って10台並んでいる。私は中央付近のテーブルの手前の椅子にカバンを置き、中からノートとペンを取り出しテーブルの上に置いた。うしろを振り返り、入り口付近を見渡すと、紙コップ用のコーヒーやジュースの自動販売機が置いてある。
私は自動販売機で80円のホットコーヒーと紅茶を購入し、両手で二つの紙コップをテーブルに運んだ。私は以前、別の会社に勤務していた際、大手電機メーカーへ営業に出かけ、担当のお客様と応接室で打ち合わせするときに、かならずお客様の好きな飲み物をテーブルに用意して待っているのが営業のたしなみだと先輩から教えられた。それ以降、私は飲み物を用意して、お客様を立って待っているのが一連のルーチンワークとなっていた。
ノートとペンを確認し、スーツの右の内ポケットに左手を入れ、専務から預かったおカネの入った封筒を確認して、テーブルの前で立ち上がった。
深呼吸する。応接室の奥の窓から車の往来を眺める。
背後からスリッパの音がした。
振り返ると、ボタンを開けた上半身グレーの作業着の真ん中に赤いネクタイを身につけ、頭の毛がボサボサの浅野さんがノートを胸に抱えてやってきた。
「こんにちは」
私は両手を前にして深くお辞儀をした。
「ごくろうさまでした。遠かったでしょ」
「いえ、少し道を間違えてしまったようで、予定より遅くなってしまい申し訳ございません」
「ああ、そう。ひとりで来るのは初めてだもんね。そりゃ、無理ないよ」
前回は引継ぎのため前任とやってきたのだが、納品もなく浅野さんもお忙しいとのことで玄関での名刺交換にとどまっていた。
浅野さんは握手をするにはピンと張った片手を下に差し出し、私に座るよう促しながらテーブルの正面に座った。
私も遅れて着席し、まずはホットコーヒーと紅茶の入った紙コップを両手に持った。
「浅野さん、コーヒーと紅茶はどちらがお好みですか。もし両方お好みでなければ、ご希望の飲み物を用意いたしますが」
浅野さんが掌をこちらに向けた、
「あっ、あのね。こういうことされると困るんですよ。会社の規定で業者さんからは一切の物や金品を受け取ってはいけないことになっているので。たとえ飲み物一杯でもいただくことはできないんですよ。会社のほうも厳しくなってね」
「そ、そうでしたか、すみません。気が回らずに・・・」
浅野さんはノートを開いた。
「それじゃあ、今度の納品は・・・じつは今暇なんですよね。えっと、2か月後の12月・・・」
私は紙コップを脇に追いやり、ノートを開いてスケジュール表に書き込んだ。
しかし、浅野さんの話す内容は上の空だった。
自分の目が泳いでいるのを悟られぬよう私は伏し目がちにする。
―― どうしよう
左手でスーツの上から右の内ポケットのあたりに手を置いてみた。

(つづく)


お手洗い(エッセイ)第一話
https://note.com/umaveg/n/n908a35bbfc68

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