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海を越えて

人は集まれば集まるほど、”社会的属性”みたいなもので人を判断しがちだと思う。

私も生まれた瞬間にはそんなものはなかったはずなのに、いつの間にか社会的属性で括られたり、括ったりする環境に育ち、それがいつの間にか自分の中に染み付いていた。

例えば、”偏差値”いくつ以上の学校を目指しているとか、そういった学校に入ったとか、卒業したとか。

いわゆる”学歴”は分かり易い指標ではあるけれど、それぞれ違う個々人を盲目的に一括りにしてしまうものでもある。

私はそれが何を意味するかも分からないまま、気づいたら中学受験をすることになっていて、親の希望する学校に入った。

それからずっと〇〇生、〇〇卒業生、そして大学に入ってからも△△生、社会人になってからも△△卒みたいなものがずっとついて回って、いつも歯がゆい思いをしてきた。

それを嬉しいと思う人もいるかもしれないが、私はそれだけで一括りにされ、ステレオタイプとして扱われるのがとてつもなく嫌だった。

そうは言いつつ、人を学歴で判断している自分も存在していた。

完全なる矛盾なのは頭では分かっているのだが、そういった環境に身を置いているうちにいつしかそんな自分になってしまっていた。

それが一度、日本の社会を飛び出してみたら、もちろん誰も〇〇は知らないし、△△でも大学関係者くらいにしか知られていないだろう。

私を簡単に説明してくれていたものがなくなった。そうなって初めて、いかに今まで私が学歴や社会的属性に守られてきたかを痛感した。

レジュメを送っても送ってもどこからも返事が来なかった。日本でなら面接に進めないことはなかった。

ところがある日突然、そういったものを抜きに私のことを見てくれる人、会社に出会えた。

本当にピンポイントでこれしかないというパスが神様から送られたのだ。

面接に初めて呼ばれて、初めて一次面接を通り、初めて二次面接も通った。

確率100%だね、と私の苦しい時を知っていた友人に笑って言われた。確かにその通りである。

一次面接と二次面接の間は数日しかなかったけれど、二次面接で社長に15分のプレゼンしてほしいと言われ、お題を出された。

寝る間も惜しんで準備をして説明した。このチャンスがいかに貴重なもので、もう二度とやってこないでものであろうことが直感的に分かっていた。

社長と話をした時、そこには学歴はもちろん、私が日本人であるという属性すらなかった。

ただ一個人としての私に向き合ってもらえた。私が何をしてきて、何をしたいのか、それを感じ取ってもらえた。それはとても満たされた感覚だった。

一人一人のBeingを大事にしてもらえるってなんて素晴らしいことなんだろう、とその時思った。

働いて一年経った今もそれを毎日のように感じている。私を私として見てもらえる。そして私も周りの人にそのように対峙している。

それだけで本当に幸せなのだ。

井の中の蛙ではないけれど、海を越えて良かった。

学歴や社会的属性がいかにちっぽけなものかを真の意味で理解できたから。

私がいかに縮こまった世界と価値観に自分を閉じ込めていたかが分かったから。

この解放感が堪らない。




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