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如心(nyoshin)の悟り

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はい!!っと言うことで、早速、、『太陽の法 概論(テキスト)』を進めていきます。

前回は「阿羅漢の悟り」とは何かについて、ご説明しました。

これは、天国の上にいる世界に行くための条件であり、心を磨きサビ落とししないと、この世界に行くことは厳しい世界である。これが「天上界」のなかの菩薩界に行くための条件である!っということをご紹介しました。

「阿羅漢の心を持つ人」ってどんな人かというと、6次元にいる、それはそれは芸術作品や大豪邸にあるような、この世のものとは思えないほどの、まぶしい世界であります。そしてこの地上で魂修行をして人びとを導いたリーダーが集う世界です。そこにいる人たちは目には見えませんが、特定の職業や専門知識を持っており、この3次元世界よりも平和に暮らしています。


今回は、阿羅漢の段階の次であるところの、如来(nyorai)のような心を持つための「菩薩の段階」について、どのようなものなのかに関してご紹介していきたいと思います!!

かなり短い文章なので、的確に述べておきますので、よろしくお願いしますヽ(*´∀`*)ノ

では、Let's GO 💑 ❣️



如心の悟り

👉  阿羅漢の段階の上には、高級霊界の指導を受けられる段階、不退転の境地がある。この境地を「如心」という。🤜

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阿羅漢より、さらに高い悟りの境地を「如心」といいます。如心とは、自らの守護霊以上の霊格をもつ高級霊界の指導を受けられる段階、すなわち、指導霊と霊的交流ができる段階です。この指導霊とは、7次元菩薩界以上の高級霊たちであります。この境地は、ほぼ不退転の心境です。ですから、よほどのことでもない限り、魔界の者たちに蹂躙(juurin)されることはありません。なぜならば、諸如来、諸菩薩の指導を受けるようになってくると、光が強くなり、魔がよりつけなくなってくるからです。

この如心の段階になってくると、心はいつも謙虚で、高ぶることなく、他人に対する奉仕、すなわち、どうすれば世の中の役に立てるか、どうすれば迷える人々を救えるかといったことが、日々、心に去来することの中心となってきます。阿羅漢の境地からの転落の原因のほとんどは増上慢ですが、この不退転の如心の段階にいたると、利己主義、自己中心ということは姿を消すので、心は、つねに平静です。正しく念じる、正しく定(jou)に入るということがほんとうにできるようになるのも、この如心の段階からだといえます。

如心には、もうひとつの面があります。つまり、観自在に近づいてくると居ながらにして、何百キロも離れている人のことが手にとるように分かるということです。たとえば、ある人の名前を見ただけで、たとえ地球の裏側にいる人であったとしても、その人の現在の心境、悩み、憑依霊(hyoui-rei)、前世、前々世、前々前世、未来世までが、一瞬にして分かるようになります。しかし、仙人的千里眼に陥らないよう、常に、愛を深め、知を磨くことを怠ってはなりません。

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一つ一つ解説していきましょう!!

まず「高級霊界」とは、高級霊がいる霊界(あの世)のことであり、高級霊とは高い次元のご存在のことを言います。あの世はこの世と別の存在で、関係ないのだと思うかたも何人かはいるでしょう。

しかし、あの世はいま我々が生きている3次元世界(この世)にも密接に関わっており、そして、それは現代では地獄と密着していて、そこに「幽霊」という名でウロたたずんでいるのです。しかし、空に向けて「天にまします、我らが父よ…」とお祈りしたり、その願い事はなんでもよいのですが、すると心が暖かくなるような気持ちになります。これは天使か守護霊の導きであることが多いと言われております。このように、目には見えないが、下に行けば幽霊の仲間である悪魔の声が聞こえ、上に行けば守護霊からのメッセージがふつふつと降りてくるような天使たちの声が聞こえてくる。この2つの世界があることを押さえておきましょう!

6次元世界とは6次元光明界のことですが、この上にある世界が愛に満ちた世界である7次元菩薩界というところです。「如来」は8次元如来界、「菩薩」は7次元ということだけは知っておきましょう!

霊格」とは、霊的覚醒のことであり、これは人格を超えたもののことであり、悟りが高いことを意味します。「悟り」は「愛」に比例するもので、利己ではなく利自の強さが悟りであり、利他の面の強さが愛であります。しかし、その強弱は愛の力の強さだったりとかではなく、いかに主(地球神)の御心に適った報恩の心が多くの人びとに持てたか、その信仰(信じる力)のレベルによってどの心の境地を獲得しているかで決まります。

霊的交流」とは、高級霊と話せるかどうかということです。しかし、スピリチュアル系統を学ぶ人にとっては、「交流する」という言い方をよくしますので、ある意味で正しいですが、仏様は信じていない人も半面いると思います。また、「霊的交流」と聞いて、物理学の「直流と交流」の関係に近い表現形式であるとも考えられます。

しかし、この「交流」は、実際に、人びとと交流する上で、普通の人と雑談するためのコミュニケーションとどう違うかと言いますと、口や耳を使って言葉のやり取りをするコミュニケーションなのか、あるいは、五感(目や耳や口や匂いや触感)を使わないで、潜在意識という心の深いところから会話をする霊的交流なのかで、違いははっきりと現れます。この霊的交流を応用すれば、宇宙人とのコンタクトをする方法も垣間見えるに違いないと僕は思います。

「魔界」は悪魔のような存在たちが作った闇の世界のことを意味します。

「諸如来」「諸菩薩」の「諸」(sho)とは、通称「諸々」(moromoro)のことを言いまして、これは「諸々の比丘・比丘尼たち」という仏典にある釈迦の言葉からきています。まず「比丘」(biku)は「男たち」という意味で、「比丘尼」(bikuni)は「女たち」という意味です。そして「諸々」は「全ての人びとよ」という意味になります。すると「諸々の比丘・比丘尼たちよ」とは、「全ての人びとのなかの男たち・女たちよ」という意味になるんです!つまり、「諸」はその意味が込められた言葉ですから、「諸如来」「諸菩薩」とは何かというと、「全ての如来」「全ての菩薩」ということになります!

「不退転」とは、七転び八起きの精神(七転八倒)のことでありますし、「心の平静」は、「平静心」つまり、何が起きても揺れない心、真っ直ぐで透明な心のことを言います。これは、湖面に映った穏やかな心のことです。逆に平静でない心の場合はグラグラと波立つので、そういうかたの場合、利己主義的な面もあると思います。利己主義だと欲が強くなり、心の波立ちがおさまることを知らないので非常に危険であることを意味します。ですので、現代社会はこの平静心が求められる社会にならなくてはいけないと僕は思います!ちなみに、僕も欲深いところがあるので毎日の反省日記で日々正しております。

「正しく念じる」「正しく定(jou)に入る」とは、「真説・八正道」(八正道とは、人間が間違いのないように正しく生きるための心の指針のこと。正しく定に入るためには、この8つの正見〜正定の反省ができていて、これにしたがって人間として正しく精進しているかどうかを指す)に則って、仕事しながら仏道修行を実践しているかどうかが大事です。

「観自在」は、「如心」の次にくる悟りの段階のことです。これは次回述べます。

「憑依霊」は、人間の身体に取り付く悪魔や浮遊霊のことであり、こうした悪魔的存在にやられてはなりません!そうならないためには、結界をハルことも大事な悪霊撃退基本作法ではありますが、やはり、悪霊(悪魔や幽霊の総称)がやってくる理由はただ一つです。それは「心の悩み」を持っていると悪霊がやってくるからです。自分が何かに悩んでいると、その何かが自分にとっての執着になるので、自分の心の波長がマイナスになると、マイナスの霊がやって来て、憑依してしまう。これが、この世で起きている見えない壁のようなものです。自殺者が多い原因は、憑依霊を呼び込む隙(suki)をつくる人たちが多いからだと言えます。ですので、心に悩みがなく穏やかであり光り輝いていること、屈託のない人生観であると、阿羅漢の心になっていると言えます!!

そして「転生輪廻」についても「過去世」「現世(今世)」「未来世」があって、いま現在の私たちがいます!!これが一瞬にして分かる人とは、悪霊にいつもうなされている人ではなく、守護霊の心が手にとるように分かり、しかも、相手の心までコンピューターのように分かってしまう。これができる人が菩薩の心を持っている人であり、悟りが高く、偉人でない限り難しい境地だと言えます。

そして「千里眼」は、この霊能力を持った人のことであり、千里眼を得るために修行をすると唯物論的になり大変なことになります。これが「仙人」の特殊能力の実態です。なぜ、仙人の心になってはならないかというと、まず、サイキック(超能力)だけを求めると、その力に執着するようになり、心の修行が進まないからであります。

「仙人」は天国の裏側の住人なので、妖怪と同じ部類にいる存在でありますし、妖怪は地獄にもいます。天国の表側に、天使や菩薩、如来がいるので、本仏は天国の裏側ではなく表側にいて、そこに心を合わせなければならないということだけを述べておきます!

続いて、「如心」のもう一つの解説です!!


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如心というのは、霊界の秘義に通じた菩薩の心境だといってもいいでしょう。それは如来界へも通じるものがあります。如心にも、やはり段階があるのですが、通常、阿羅漢(arakan)の上の如心というと、菩薩の境地を意味します。

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👉  不退転の境地と到ったならば、心は常に謙虚で奉仕に満ち、平静なのである。🤜



「奉仕」とは、与え続ける愛のことです!それは相手にプレゼントを渡す以上の深い価値を持っており、愛情表現を超えた「感謝の心」と言ってもよいのではないかと思います。



いかがでしたでしょうか??!!

ご精読ありがとうございました〜ヾ(*゚∀゚*)ノキャッキャッ♪

次回は「観自在の悟り」について、ご紹介します!

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