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「海辺に揺蕩う言葉たち」への長い導入文、およびこれまでのukiyojinguについて

(約9,400字)

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はじめに

降り立った広島駅にて(著者撮影)

17時半過ぎに新大阪駅を発車した新幹線は瞬く間に加速し、いつの間にか通路側に座る私からはほとんど視認できないほどのスピードになっている。東京ばななの紙袋を携えた老夫婦が隣に座り、事前に駅で買った弁当を私の隣で食べている。そう言えば、今年は全国中を駆け巡ってきたにも関わらず、いつもケチって高級駅弁は買わなかったなと、ふと思い出した。車内販売で弁当を買って食べるという経験はしたことがないが、もう買うこともないかもしれない。ちょうどこの間、東海道新幹線ののぞみ号での車内販売が中止されたという話を聞いたばかりだ。そんなことを思いながら、老夫婦の隣でひっそり文章を書いている。

今年は全国を駆け回っていたこともあり、あまり音楽的な側面での活動を十分にはしてこなかった。最後に公開した動画は2月のボカコレだったし、新曲に至っては昨年12月になる。就活が完全に終わったら再開しようと思っていたのだが、事前にお話をいただいていたこともあり、忙しくても文章だけは書き続けてきた。就活中でも本は読めるし、何より声をかけてくださったことが嬉しいので、できる限り期待に応えたいと考えてきたからだ。採用試験に備え始めたのは4月くらいだったが、それから現在に至るまでにおよそ3冊の本に寄稿をさせていただいた。そして明後日、今年で4冊目の寄稿が『ボーカロイド音楽の現在地』(highand氏編)にて発表されることになる。

「海辺に揺蕩う言葉たち」という何とも内容がわからないタイトルが掲げられた文章は、自身がこれまで書いてきたデジタル空間における言葉の意味に対する凋落という、私がずっと抱えてきた問題意識を継承したものとなっている。もちろん、一つの完結したものとして読めるように意識して執筆はしたが、一方でこれまで執筆してきた内容とも重複するところも多く、ある程度の省略もなされている。そういう意味では、氏の言うように当文章はこれまでの蓄積の上で成立している。とはいえ、今回の文学フリマ東京はどうやら過去最大規模であるという話を聞く手前、自分のことを一切知らない方が自分の文章を読んでどう思うかには配慮すべきだと思う。私の文章を初めて読んだ方々が自分に興味を持っていただいたうえで、この記事に到着できるかは不明だが、とはいえここに「これまでのukiyojingu」をまとめたものを記しておくのは記録としてもいいことだと思うのだ。

デジタルなものへの注視

「海辺で揺蕩う言葉たち」は(おそらく)アーカイヴ論であり、デジタル空間における言語への倫理学である。そこにはニコニコ動画という動画ファイルのアーカイヴ組織が内包するデジタル空間特有のディストピア的空気感と、それに抵抗するように展開される脱意味的(表層的)コミュニケーションが大きな主題だ。その内容を紐解くにあたって、まずは「デジタル空間とは何か」に関心を向けてみたい。

ちょうどこの記事の一つ前に書いたnote記事「魔法と情動に抵抗する——デジタル時代における文学=ソースコードの必要性」で、私は今日のデジタル空間を構成するソースコードに対し無関心であったとしても、私たちが過不足なく暮らしていけるようになっていることについて論じた。とはいえ、その議論の内容は決して新規性のあるものでもなく、ゼロ年代批評と称されるムーブメントが長年問題にした情報社会への問題意識と、多くの面で共通するものだ。およそ20年前、情報化社会という言葉が登場する状況において、人々は一方でインターネットの全世界同時的なコミュニケーションが世界規模で新しい時代を作り上げることに対する大きな希望を語り、他方ではインターネットというシステムが世界で標準化されたことによる、前世界規模で実行されるプログラムによる支配への危機感が提唱された。とりわけ、情報社会学者の濱野智史によって「アーキテクチャ」と称された後者の問題は今日においても依然として存在しているだけでなく[1]、20年前にはまだ存在しなかったスマートフォンの登場が、状況をさらに複雑化もしてきた。私たちは今や手元のデバイスが何をしているのか、どういうシステムとプログラムによって動いているのかを知らないし、知らなくても何も困らない程度には端末を操作することができる。メディアアーティストの落合陽一はこうした状況を「魔法の世紀」の到来と呼び、それ以前にあった「映像の世紀」に続く時代の到来を示した[2]。

新時代の特徴に水面下で動くプログラムに対する無関心=アーキテクチャによる無意識的支配があるのなら、私たちはもはや支配を受けていることさえも感じなくなってしまったということだろうか。無自覚的なシステムが社会を支配するその構造はまさに、あらゆるメディアが描写してきたディストピアそのものである——とはいえ、そのディストピアで暮らす人々はシステムの支配に対し無自覚であるため、それをディストピアとは感じないが。落合は『魔法の世紀』に続く『デジタルネイチャー』にて、落合は新時代における倫理がそれ以前ともはや全く異なるものであるというエクスキューズを立てつつも、AIとその開発者が支配層にたつことで成立する、事実上の全体主義的思想を提示した[3]。その思想に対する倫理的問題についてここで立ち入ることはしないが、これまでの文法上ではディストピアと称されるべきであろうデジタルネイチャーの到来がシステムへの無関心と大きく関係するのならば、私たちが用いているデジタル空間への関心はきっと、ディストピアの到来への予防線となるだろう。これを読むあなたはPythonなどのプログラム言語を触れていないかもしれないし、もしかしたらExcelのマクロも触れたことがないかもしれない。実際、私もウェブサイトを作りながらもソースコードのすべてを知っているわけではないが、かといってすべてを知っている必要もないと思う。大事なのは、ソースコードが何をもたらしているかに関する最低限の知識を獲得することによって、到来するデジタルネイチャーから自身を守ることなのだから。

意味と非意味との中間地点としてのアーカイヴ

だからこそ、私たちはデジタルなものを理解しなければならないし、その理解はまた、デジタル空間上で形成されるニコニコ動画への理解にも大きく貢献するものだろう。この問題については、今年5月に執筆した『ボカロマゾ』にて展開した内容と関係する。「合成音声音楽の動画説明文における『意味ありげな文章』が抱えるアーカイヴへの震えについて」という文章で、私はニコニコ動画における動画説明欄に存在する「意味ありげな言葉(それ自体で何かしらの意味を提示しているようでしていない、一遍の詩のようなもの)」がなぜそこにあるかを検討することで、ニコニコ動画という空間の特異性を検討してきた。前節で述べたように、ニコニコ動画がインターネット上で展開されている以上、投稿サイト上に投げられるすべての動画は多くのシステム的制約を受けている。TCP/IPと称される通信規格でやりとりがなされるインターネットはその通信規格に則った形式で情報をやり取りしなければならず、それ以外のあらゆるデータはノイズとして処理されてしまう。通信規格の順守、すなわち最も基本的レベルでのアーキテクチャによる支配の上で展開される動画投稿という行為は、投稿者IDや動画IDといった無数ものシステム管理上の番号が付与されることで、さらに多重に被支配が実行されていくことになる。かくして、私たちは知らず知らずの間にアーキテクチャから無数もの制御を受けると同時に、その過程でプログラムが識別可能なランダムな番号を付与されている。言い換えれば、私たちは固有化された番号を通して——哲学者ドゥルーズが「エレクトロニクスの首輪」といったものを通して[4]——必ず「何者かにされる」のだ。

これらの議論はあらゆる「デジタルなもの」に対し普遍的に主張できる内容だろう。そこで、次にデジタルアーカイヴたるニコニコ動画の「アーカイヴ」の側面に目を向けねばならない。『ボカロマゾ』での文章——およびそれを継承した『ボーカロイド文化の現在地』ではその点を踏まえ、フランスの哲学者であるジャック・デリダのアーカイヴ論を補助線に加えながら議論を展開してきた[5]。「フロイトとエクリチュールの病」や『アーカイヴの病』を通して、彼はアーカイヴを「機械」と称し、それらは記憶の消去と同時に発生するという点から「死」を帯びているという。あらゆる内面(記憶)をアウトプット(記録)し保管しているアーカイヴのシステムは、それ自体が自身の内面上の思想を不完全に表出させたものであり、ゆえにそれらは永遠に不完全な要素を含む、いわば欠落した機械である=記憶を不完全な形で記録する。記憶が記録になることで発生するそんな欠落たちの集合体たちは、発生した欠落たちを埋めようとする私たちの欲望を生み出し、そんな完全体への希求が結果的に個別具体的なものへの関心をそぎ落としてしまうというのだ。そうして固有性を承認することなく、あらゆる固有性を内面から破壊する=「死」が内包されたシステムが、あらゆるアーカイヴにこめらっれているのだ。

すべてに必ず固有性を付与しようとする「デジタル」に対し、デリダが「アーカイヴの病」と称したこのシステムはあらゆる固有性を否定し、その消去を実行する。一方でエレクトロニクスの首輪が固有性を無理やり与え、他方でアーカイヴの病が固有性を消去する。一方で固有化=意味を強制的に付与されながら(何者かにさせられながら)、同時に脱意味化=曖昧化する(何者でもなくなる)。こうした対立関係の上でこそ「デジタルアーカイヴ」が存在し、そしてニコニコ動画は存在している。それでは、こうした文化の上でどのようなものが形成されてきたのだろうか。その理解にはニコニコ動画だけでなく、その前史として存在する1990年代以降の国内ネット文化への注目が必要だ。

ニコニコ動画上でのコミュニケーションとその変遷

約3年前に書いた文章「『合成音声音楽』の時代に向けて――私を探す『可不』の自己探索」で、私はCeVIO AI「可不」の登場をはじめとした新たな合成音声エンジンが従来のVOCALOIDエンジンをすげ替えることで到来する「合成音声音楽」の時代とはどのようなものかを記述した。2010年代にかけてエンジンとして「VOCALOID」を使用しない合成音声音楽ソフトが数多く登場したことによって「ボーカロイド」=「VOCALOIDエンジン」でなくなった今日、この「合成音声音楽」という言葉はかつての「ボーカロイド」という言葉にとって代わるように出現してきた。一見すると合成音声音エンジンが多様化したことによって従来の言葉が適切でなくなったことが、この変化の背景にあるように見えるに過ぎない。だが、2010年代にかけて「合成音声音楽」という表現が徐々に「ボーカロイド」にとってかわったという状況には、それ以上の大きな意味があるのではないかと筆者は考えた。かつての「ボーカロイド」という言葉が内包してきた文化的営為——ここでは「接続」という表現を用いている——は、2020年代以降に到来する「合成音声音楽」には到来していないのではないか。そうした前提において、私は国内ネット文化がどのようなアーキテクチャ上でどのような文化を形成し、それがニコニコ動画上で展開されるボーカロイド文化にいかに継承されたか、そして「合成音声音楽」の時代でそれらがいかに棄却されたかを検討した。

ひろゆきがニコニコ動画の創設に関与していることからもわかるように、ニコニコ動画は1990年代末から徐々に形成されてきた国内特有のネット文化、そしてその後継者であった匿名ネット掲示板「2ちゃんねる」の正統な後継者であるだろう。1999年に「あめぞう2ちゃんねる」として登場した2ちゃんねるは、黎明期のインターネットにはあった西海岸思想を取り入れた空間とは大きく異なった、独自のネット空間上で登場した。その特徴は、上述した濱野によって「フロー」と「コピペ」という二つの概念で解説されている。前者はいわば「常連」を決してつくらないようにするという、ウェブの設計思想的側面に大きく関係する概念だ。2ちゃんねるの各掲示板は書き込みが断続的に続くことで、トップページのより目に着きやすい箇所に直接リンクが表示される設計になっている。多くのユーザーが注目している話題が最も表示されやすく、一方で注目が集まらない情報が淘汰されていくという設計は、今日だと人気ツイートが常に目につきやすいという点でTwitterのタイムラインのようなものを想像すると理解しやすいだろう。しかしながら、テキスト主体で構成される2ちゃんねるは、Twitterが画像や映像をアップロード可能である点と比較して「個人」を表明する手段は少ない。完全なテキストサイトとして登場した当時の2ちゃんねるは画像を掲載する際に外部リンクを経由させる必要性があるなど、今日の各種SNSと比較し明らかに表現の幅が狭かった。そうした匿名性は結果として、掲示板上で「個人」を消失させると同時に、同時に誰が掲示板上の中心人物かを明らかにさせないことで、話題や情報を流動的に動かすためのシステムを構成してきた。

しかしながら、ユーザーたちは個人の消失に対し、濱野がいうもう一つの特徴たる「コピペ」を通したコミュニケーションにより、個人の消失を逆説的に利用した形で独自文化を形成した。2ちゃんねるには「モナー」という独自のAA(アスキー・アート)で作成されたキャラクターや、「kwsk(「詳しく」の略語表現)」や「イッテヨシ(「死ね」の間接的表現)」といった、ユーザーがコミュニティ内で限定的に使用した言語がある。それらは先述の設計思想を巧妙に利用し、ユーザーたちが「2ちゃんねらー」という巨大なキャラクターとして協働するための信頼財(社会関係資本)として作用した。こうした行動はいわば、情報環境上で失われてしまったユーザー個人のステータスを補完するように作用している。フローという設計思想により個人を提示する方法を剥奪されたユーザーは、生み出された「余白」に信頼材を埋め込む——信頼材を「代入」する——ことで、「接続」され共同体になっていた。

プログラムを通して強制的に固有性を消失する匿名ネット掲示板は、その固有性の消失こそが「エレクトロニクスの首輪」としての機能を担っている。これに対し、ユーザーは透明な首輪を逆説的に利用し、匿名ゆえに責任を担う必要のないような非意味的な言葉=コピペによって連帯し、自由になろうとする。そんな2ちゃんねるのコミュニケーション様式はまさに、プログラム的厳格さを曖昧に打破し、明確に提供される意味を曖昧にすることであらゆる余白を形成するアーカイヴの自己消失的「病」とも、どこか共鳴している。いうまでもなく、コメントログをひたすら蓄積する2ちゃんねるはその性質上、デジタルアーカイヴの二面性を強く有している。そしてその性質は、2006年以降に登場する動画のデジタルアーカイヴたるニコニコ動画にも明確に継承された。

曖昧かされた要素によってユーザー同士がつながる思想について、私はこれまでいくつかの文章で書き残してきたが、その思想が一番よく反映されているものとして、筆者はよく『Tell Your World』と『カゲロウプロジェクト』を参照してきた。とはいえ、一見すると両者の描かれ方は対に見える。前者は「グローバル理想主義」といわれるような全世界同時的なコミュニケーションであり、そして後者は少年少女の団結によって大人を打破するという、小さな規模での接続である。とはいえ、これらはいずれも「接続」の思想という共通の軸によって支えられていた。一方では、先述した初音ミクの「余白」に、他方では『カゲロウプロジェクト』の楽曲間に設けられた「余白」——楽曲間に展開されつつも明確に語られないいくつものストーリーや、明確にされなかったキャラクターの側面など——によって、ユーザーたちは無限に接続していったのがこの時期だったといえよう。余白に信頼材を代入し、無限に接続していくこと。この姿勢はある意味、2ちゃんねるから継承された国内ネット文化の大きな一側面であるといえよう。

それゆえに、私にとって『うっせぇわ』の印象は非常に大きいものであった。「一切合切凡庸なあなたじゃわからないかもね」という歌詞はまるで、かつての接続を通して皆が一つになろうとしていた文化とは全く異なる様相を私に見せているように思える。まぎれもなくボーカロイドの文化的土壌から形成された本楽曲を前に、かつての接続によって形成されたボーカロイド文化が維持されていると考えるのはやはり難しいのではないか。それゆえ、私は本楽曲に代表されるような非接続、あるいは反接続=切断的楽曲の台頭を一つの起点として「合成音声音楽」の時代と称した。「簡単なこともわからないわ あたしってなんだっけ」と『フォニィ』で歌った可不はまさに、そんな新時代の未来を決定する代表的キャラクターであるだろう。『合成音声音楽の世界2021』に寄稿した当時はまだ生まれたばかりの彼女だったが、2023年の現在ではまさに新しいボーカロイド文化圏をけん引するかの如く、あらゆる場面で活躍しているのは、もはや自明のことに思える。

言葉の繊細さに向けて

ここまでの議論において、接続の終焉とはすなわち固有化されたプログラムの世界への再回帰であり、そしてディストピア的な世界=デジタルネイチャーへの回帰、エレクトロニクスの首輪に対する無抵抗だ。だからと言って、私は安直な接続に対し賛成することもできないと思う。ここから先の議論は『ボーカロイド文化の現在地』で記載した内容となるが、その内容はまた『合成音声音楽の世界2022』に寄稿したPOEMLOID論にも関係してくる。

デジタルアーカイヴとは「意味」と「非意味」(あるいは「何者かにさせられる」と「何者でもなくなる」)との引っ張り合いの中で形成される空間であり、私たちはそんな2ちゃんねる、そしてニコニコ動画の地平上でなんとか非意味的な要素を見つけ出し=曖昧さを発見し、そのうえでの曖昧なコミュニケーションによって接続をなしてきた。私たちは本質的には厳格な意味が与えられてしまう(何者かにさせられる)ような、がんじがらめにされる空間で、何とか与えられた意味から脱却しようとしてきたのだった。それこそ「接続」の本質であり、その文化的営為の中枢は非意味化された記号の羅列たるコピペである。いわば、接続を肯定することとは意味のない記号の羅列によるコミュニケーションを肯定することだ。それらは一方で国内ネット文化を進化させる原動力であっただろう。

しかしながら、意味のない言葉によるコミュニケーションは今日、あらゆるところで氾濫し、過剰な意味の生成を行っているように思える。2ちゃんねるの流行していた当時、インターネットはごく限られた人々の遊び場だったし、カゲプロが流行った当時のニコニコ動画はログイン必須の会員制だった。「合成音声音楽」の時代たる現在、こうした閉鎖性は失われ、誰でも簡単にSNS上で文字を刻んでいる——現に私が新幹線車内でこれを書いているように、だ。140字で気軽に投稿されるTwitterの文字列は非閉鎖的な空間で誰に対しても届いてしまい、それらの蓄積が今日のデジタル空間で無数ものサイバーカスケードを生み出していることはもはや説明不要だろう。そうした状況で、もはや気軽な言葉を通して接続せよとは、口が裂けても言えない。だからこそ、私の今回の文章は「死」や「自殺」という言葉を対象に、その言葉の重みを今一度真剣に考えることを行ったのだ。現代社会において、誰に向けて送信されているかが曖昧な言葉の集積が(比喩ではなく実際に)誰かに自殺を促すのならば、この曖昧さを私たちは今一度考え直す必要があると私は思う。

デジタル空間で私たちはあらゆるプログラムによってがんじがらめにされ、あらゆる方面から意味=「何者か」を与えられてきた。そんな状況に対し、ニコニコ動画をはじめとした国内ネット文化はあらゆる方法で脱意味的なコミュニケーションを行い、そしてその結果として様々な文化を生み出してきた。今日、その文化が一方で消失し=プログラムへの回帰を行い、他方で文化が暴走している。だからこそ、私たちは両極化する状況に対し、繊細な位置づけを行う必要があるのではないか。言葉の繊細さに細心の注意を向け、正確かつ曖昧な「意味ありげ」な方法を考えること。それこそ、私たちが今向けるべき言葉の姿勢かもしれない。「海辺に揺蕩う言葉たち」というタイトルは一見してよくわからない。だがその実、読んでみると意味は分かるかもしれない…この「かもしれない」こそ、私たちに必要かもしれないし、そうでないかもしれないのだ。

おわりに

一回書き始めたら最後までとりあえず書き上げたい性分で、気づいたら21時半を回っていた。広島の宿のロビーで最後の文章を書いている。今年はとても忙しかったし、何なら10日に広島を出てから、11日に東京、12日に静岡、13日に京都に戻り、15日にはなんと千葉だ。自分でも正気に思えないスケジュールを過ごしてきたと思うが、そんな中でもこうして文章を書くことができたのはひとえに、皆さんが誘ってくれたおかげだと思っている。一番最初に私に声をかけてくださったのは「LOCAST+」での北出栞さんだったが、あれ以来本当にいろんな出会いもあったと思う。改めて、今回お声がけくださったhighlandさんにお礼を申し上げると同時に、これまでお声がけくださったぺシミさんと舞風つむじさん、senさん、そしてしまさんにもお礼を申し上げたい。ありがとうございます。

そして最後に、ボカロ界隈でこうした評論文化が今後も発展していけばいいなと、いつも図書館の片隅で思っています。自分も頑張りますので、皆さん今後とも何卒、よろしくお願いします。


[1]濱野智史『アーキテクチャの生態系——情報環境はいかに設計されてきたか』NTT出版、2008年。
[2]落合陽一『魔法の世紀』PLANETS、2015年。
[3]落合陽一『デジタルネイチャー――生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PNALETS、2018年。
[4]ジル・ドゥルーズ『記号と事件——1972-1990年の対話』宮林寛訳、河出書房新社、2010年。
[5]ジャック・デリダ『アーカイヴの病——フロイトの印象』福本修訳、法政大学出版会、2017年など。

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