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魔法と情動に抵抗する——デジタル時代における文学=ソースコードの必要性

(約5,400字)

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情報学と情報科学の交点へ

最後にここで文章を書いて公開してから半年くらいは経過しているだろうか。そう思いサイトを開いてみると、最後の更新は5月ごろの写真美術館の感想で止まっている。この間に行なっていた就職活動では散々な目にも合ってきたが、なんだかんだで来年以降の行き先が少なくとも一つは決定したことは安堵したほうがいいのかもしれないとこの時期になって徐々に思うようになってきた。未決定ではあるものの、このまま行くと来年からはメディア芸術関連のキュレーターだ。表象文化論や人文社会情報学、アート・ドキュメンテーションという領域を研究内容にしてきた自分からしてみると、それに類するこの仕事は結果的にはよかったかもしれない。しかしながら、キュレーター=学芸員の仕事は図書館司書として働いてきた自身の敬意からすれば僅かではあるものの異職種であり、今後もまだまだ修行が必要だと感じてやまないところだ。丁度、自分の教えている大学の講義には学芸員の通信課程が有名なので、全てが終わったらそこでも通ってもいいかもしれない。

 そんな大学で昨年度から継続して担当してきた人文社会情報学に関する講義も二年目に突入し、経験を積んだということもあってかHTMLなどより専門的な科目の担当も今はしている。講義は春と秋の両タイミングで開講されるが、一般的な情報リテラシー入門と図書館情報学入門のような性質を帯びた春学期に比べ、秋学期のそれはHTMLやCSS、JavaScriptといった一般的な文系向け学生が学ぶ内容とは少し離れたプログラミングに関するものだ。図書館情報学や社会情報学に由来する人文社会情報学(Information Science)の領域と計算機科学に由来するとコンピュータサイエンス、或いは情報科学(Informatics)はもとより別個の学問であり、歴史的にはそれぞれ文系の学問と理系の学問として成立してきた。そんな情報学の複雑な歴史と文理の混合、及び混濁は日本十進分類法での表記が「情報学Information science.Informatics」と両者の英訳が一つの単語に収れんされているにもかかわらず、実際の分類記号上では「007」と「547」の両方が採用されている点にも見て取れる[1]。国内における図書館情報学の世界から見ても異様な認識のされ方をされてきたこの「情報学」という言葉は一方で、この混濁さゆえに文理の領域を横断することを可能にするようなポテンシャルをも秘めていると解釈する余白は残されてもいるだろう。とはいえ、情報哲学や社会情報学といったInformation Scienceに関する知識と、コンピュータやインターネットといったInformaticsに関する知識を同時に深めることの難しさは少なからず問題であるように思う。人文社会情報学と称される領域である程度学修をしてきた私だって、所詮自作PCを作ったり、WordPressでホームページを作ったりする程度の存在であって、決してコンピュータの専門家ではない。そもそも、現代のデジタル空間上において、私たちは情報科学的な専門知識を知らずとも、WordPress.comやGoogleサイト、Jimdo等各種サービスを利用することでウェブサイトは作れてしまう。そんな状況であるがゆえ、私たちはある意味で情報科学の専門的な知識を深く知らなくても自分の作りたいウェブサイトをある程度の水準で作ることが可能になっている。であれば、もはや情報科学の専門知識など必要に野ではないか。それは半分で妥当かもしれないが、しかしもう半分では決して妥当ではないだろう。なぜなら、もはや誰もが避けられないほどに依存したデジタル空間のメカニズムを理解することこそ情報科学の重要な点であり、情報科学が操るメカニズム、つまりはソースコードの群れを十分に理解して使用しなければ、私たちはたちまちソースコードに自らを縛られてしまうからだ。

デジタル空間における無意識的侵略

「情報科学的な専門知識を知らずともウェブサイトは作れてしまう」というこの容易さこそが、私たちのデジタル空間に対する視点にバイアスを生み出し、それらが結果的に本質に対するまなざしを鈍らせてしまうのではないだろうか。こうした問題はある意味、いろいろな哲学の議論でも話題になってきたことだ。デジタル空間の台頭に伴う諸問題を扱った哲学的転回としてはジル・ドゥルーズの「追伸——管理社会について」を補助線に展開されるアレクサンダー・ギャロウェイの『プロトコル』が最も有名であるかもしれないが[2]、ここでは先の「容易さ」に関連付けた形で、別の回路をたどってみたい。著名なメディアアーティストの落合陽一は『魔法の世紀』にて、20世紀をその象徴的メディアに由来する形で「映像の世紀」と称し、その次に来る21世紀を「魔法の世紀」と称した[3]。映像の次に位置づけられる魔法とはデジタル空間のことであり、またそのメカニズムを十分に理解しないまま使用している私たちのことだ。アーサー・C・クラークの「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」という言葉に基づいて展開される本概念は、私たちはスマートフォンを使用する際、或いはコンピュータやインターネットを使用する際、その情報通信やインターフェイスの全てを理解することはできないまま、何となくで技術を利用することに抵抗感を持たなくなっていることをある意味、肯定的に語っている(その肯定的な語り口こそ、次の研究書ともいえる『デジタルネイチャー』でのある意味での階級社会を肯定する姿勢へと結実している)[4]。手元にある小さな端末で何だってできる私たちは実際、まるで魔法のような世の中を生きているのかもしれない。しかしその実、魔法はただのソースコードと通信規格の群れであり、そのメカニズムの全てを「魔法」と称してしまうことは、そこに内在する複雑系の全てから目を背け、蓋をしてしまう行為であるだろう。

 「魔法」と称されて避けられたものの背景にはすべて、ソースコードの群れによって構成されたものたちが内在されている。デジタルなもので埋め尽くされたこの時代において、私たちはその無数もの複雑なソースコードの蠢きに対してただ「魔法」と称して蓋をするだけでいいのだろうか。『魔法の世紀』が登場したほぼ同時期に流行した「フィルターバブル」という言葉は、こうした状況へのアンチテーゼとしてまさに位置づけることが可能だ[5]。イーライ・パリサーが提示した本概念は、グローバル資本主義における大企業の世界的支配と、それらが提供するサービスがユーザー個人たちを究極なまでにパーソナライズすることによって発生する閉鎖性を主張している。私たちは各種サービスをインターネット上で利用するたびに個人の利用記録をログとして企業のサーバ上に管理され、そうして蓄積されたサーバ上のデータから「あなたへのおすすめ」が提供されているというシステムは一見して、自身のまだ見ぬ新しい商品や知識にたいする欲望を効率よく満たしてくれるシステムとして肯定的に捉えられるべきかもしれない。しかしながら、その一方で「あなたへのおすすめ」は私たちが「魔法」と称して蓋をしてしまったプログラムによって知らず知らずのうちに「あなた」を外部から決定することになり、それが起因してユーザー個人の自己同一性すらも奪うようことをも為しているだろう。それはいわば、デジタル空間において発生する無意識的な侵略に対し誰しもが無自覚的になってしまった結果、いつの間にか自分自身という存在を乗っ取られているような感覚であるといえるかもしれない。デジタル空間上における主体への侵食運動に対し、「魔法」という言葉に麻薬のように浸っている私たちの感覚はもはや気づくこともないのかもしれない。

脱落する言葉の意味と、文学への着目による抵抗運動

埼玉県幸手市で撮影した田園風景の写真。元の風景がどれだけ自然に溢れた風景であったとしても、それをデジタル空間に放り投げることですべてを0と1で翻訳可能なものとしてしまった点で、私たちは翻訳、或いは代補的なソースコードの文学的空間に紛れているのではないだろうか。
(著者撮影)

 外部から決定され、もはや自我の輪郭を維持できなくなったデジタル空間上で、ユーザーたちは喪失した自我による抑圧機能を失ったかのように欲望に従ったコミュニケーションを遂行し続ける。そうした姿は、2010年代ごろから頻繁に注目されるようになってきた「情動」という言葉とも大きく共鳴するかもしれない。社会学者の伊藤守は『情動の社会学』にて、あらゆるコミュニケーションが横滑り的に流れていく状況が新たな創造行為を生む反面、言葉に対する意味を剥奪した結果として思考無き愚衆のようなものが政治的なムーブメントを起こしていることを指摘している[6]。誹謗中傷の嵐に代表されるインターネットユーザーの衆愚的側面が強調されるようになったことを指摘する彼のそんな言葉と、2000年代ごろから長く続いてきた国内ネット文化における言葉に対する独自の姿勢とを結び合わせてみることはいささか無理筋なような気もするが、とはいえ決して無関係ではないように思える。匿名ネット掲示板2ちゃんねるに代表される国内ネット文化はまさに匿名性によって固有性が出現することを一方で否定しながら、他方で否定された固有性達が自身の自己同一性を確かめるかのように非意味的なコミュニケーションによって連帯し、一つのコミュニティ意識を形成してきた(2ちゃんねるにおける「コピペ」や「AA」はまさにその例だ)[7]。非意味的な記号としての言葉を濫用することで連帯感を生み繋がろうとする2000年代のネット文化において、言葉の意味とはそもそも重いものとして認識はされていなかったが、同時にそれは2ちゃんねるの狭い掲示板の中でネタとして共有されていたからこそ許されていた面も少なからずあった。そうした閉鎖的なコミュニケーションの様式を一つの国内ネット文化の特徴と解釈するのであれば、ログイン制によって閉鎖性を維持し続けたニコニコ動画は間違いなくその正当後継者であっただろう。しかしながら、そのログイン制さえも失われた2010年代、私たちの閉鎖的であったから許されていた情動的でネタ的なコミュニケーション様式があらゆる社会に氾濫し、その氾濫が結果的に人と自殺にまで追い込んでいるのであれば、私たちは無意味化することによって滑り落ちてゆく言葉の意味をどこかで救い上げる作業を為す必要があるのではないだろうか。情動的で閉鎖的なコミュニケーションから、情動的で開放的な、そして「魔法」によって歯止めさえ聞かなくなった言葉の時代に私たちが到来したのであれば、私たちが今一度目を向けるべきなのは情動に抵抗する言葉の意味への再注目であり、これはいわば「文学」と言いうるものだろう。

 本来、デジタル空間で作成されるあらゆるコンテンツはすべてがソースコードで構築され、そして二進数のデータとしてエンコードされている点においてすべては文字列で表現可能な文学的存在であり、そしてそのうえで創作をするすべての人間は須くソースコードの表現技法に、つまりは文学や詩学に従事している。しかしながら、言葉への軽視が全面化されきったこの時代において、私たちのブラウザ上では表示されないソースコードたちはその存在の全てをなかったことにされるだけでなく、それらへの意識さえも向けられなくなっているのではないだろうか。文学と詩学が提供する意味の複雑さと、表面化しないソースコードの複雑な世界。これらの複雑さはともに共鳴することで、どこか簡素的にすべてを理解し処理しようとする今日のコミュニケーションに、或いは「魔法」に抵抗する能力を提示してくれるだろう。そしてこれは、ソースコードへの複雑な世界への入門を促す情報科学の助力を持ってこそ、可能ではないだろうか。


[1] 上田修一・倉田敬子『図書館情報学 第二版』勁草書房、2017年。
[2] アレクサンダー・ギャロウェイ『プロトコル——脱中心化以後のコントロールはいかに作動するのか』北野圭介訳、人文書院、2017年。
[3] 落合陽一『魔法の世紀』PLANETS、2015年。
[4] ————『デジタルネイチャー——生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』PLANETS、2018年。
[5] イーライ・パリサー『フィルターバブル──インターネットが隠していること』井口耕二訳、早川書房、2016年。
[6] 伊藤守『情動の社会学――ポストメディア時代における”ミクロ知覚”の探求』青土社、2017年。
[7] 国内ネット文化における閉鎖的空間性と「偶然の出会い」を求めて|ukiyojingu @ukiyojingu #note https://note.com/ukiyojingu/n/n406adcd40b67?sub_rt=share_sb

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