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余白と消失――『合成音声音楽の世界2021』寄稿文の補足

(約8,800字)

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はじめに

 2022年5月16日に『合成音声音楽の世界2021』が発表されました。私はちょうど1年前に『合成音声音楽の世界2020』が発表された際、それ以前の「ボーカロイド音楽の世界」から「合成音声音楽の世界」へとタイトルが変わったことが大きな印象であり、それについて短い文章もnoteで書いていた。『ボカロクリティーク』が休刊して以降、ボーカロイドシーンをまとめる役目をまさに担ってきた雑誌のタイトルが「合成音声音楽」に変わったことは、2017年から購読し続けていた私にとっては大きな印象があった。それから1年後、『合成音声音楽の世界2021』に今度は自分自身が記事を掲載させていただけることになるとは、それほど考えられていなかった。

私はずっと文章の執筆方法を教育され続けてきたこともあり(とはいえまだまだ未熟だが…)、硬い文章ばかりだったので、読者の皆さんが読みにくく思ってないだろうか、変な誤解を与えてないだろうかと毎日心配になりながら、最終稿まで20回くらいは読み直していた日々だった。若干文章に対して神経質すぎる気もするのだが、とはいえ自信をもって送り出した文章ではあるので、もし興味を持たれたらぜひ手に取っていただきたく思う。

 書き終わってから数日たって、自分の中で「やっぱりこうしておくべきだったかな」という感情や「ここの説明が足りてなかったかな」などの不安をいたるところで感じることも多かった。そこで本記事では本書の宣伝もかねて、少しだけ自分の寄稿文の概要紹介と、本文のなかで若干説明不足になってしまった箇所の補足をしていく。もしここでご興味を持たれた方がおられましたら、ぜひBOOTHや即売会などで手に取ってもらえれば、書いた人としてもとても幸いである。

概要紹介

 今回「『合成音声音楽』の時代に向けて――私を探す『可不』の自己探索」というタイトルにさせていただいたきっかけは、先述した雑誌タイトルの変化をはじめとして、2020年代以後のボカロシーンが文化的にどう変容してくるのかを考えてみたかったからだった。NHKをはじめ各種マスメディア上では「ボーカロイド」という表現を使用していることが多いものの、2010年代中盤以降に「合成音声音楽」という表現がユーザー=需要者であるニコニコ動画の創作者界隈の間で急激に増加してきたのは、まだまだ記憶に新しいところだ。その背景はいたって単純であり、ソフトウェアの心臓たるエンジンの違いが背景にある。カタカナの「ボーカロイド」という表記はこれまで、「初音ミク」やそれらに付随して作られている広範な文化全体をも射程に含めていることが多かった。ここ数か月間でかなり増えた地上波でのボカロ楽曲特集などを見ると、「ボカロ」という表現が決して音楽だけを指していないことも分かる。楽曲創作を基本としつつ、初音ミクのイラストを描くことやMMDを使用して初音ミクを動かすこと、そして「歌ってみた」や「踊ってみた」というN次創作的な活動も、広義では「ボーカロイド」の有する文化的射程だろう――実際、NHKの番組を見てると「ボカロ特集」という名前で歌い手が出演し、歌唱するなどの場面も組み込まれている。

 しかしながら、アルファベットで「VOCALOID」と表記すると、それはたちまちYAMAHAが作成した合成音声音楽ソフトウェアのエンジンの一つとして意識されることのほうが多いということは、ユーザーの多くが共感することだと思う。YAMAHAによって作られた合成音声音楽エンジンであるVOCALOIDは、2000年代にかけてボカロ文化を形成するにあたってなくてならない中核的存在——まさに「エンジン」だった。

 とはいえ、2010年代にかけてエンジンとして「VOCALOID」を使用しない合成音声音楽ソフトが数多く登場してきて来たのも事実だ。CeVio AiやV-SynthesizerといったエンジンがかつてVOCALOIDによって作成されていた空間に参入し、いまや「ボーカロイド」=「VOCALOID」という空間ではなくなっている。そうした前提を踏まえたうえで、2010年代以降に出現したのが「合成音声音楽」だ。

 それは表面上は「エンジン」の違いに過ぎない。VOCALOIDエンジンがやがて使用されなくなっても、私たちは「ボーカロイド」という言葉をもしかしたら使用するのかもしれない。しかしながら、「合成音声音楽」という表現が徐々に「ボーカロイド」を侵食している状況は、やはり見捨てることはできないだろう。繰り返すが、それは表面上は「エンジン」の違いに過ぎない。しかしながら、2010年代から徐々に登場し、そして2020年代において表面化してきた「合成音声音楽」という表現は、もしかすると従来に使用してきた「ボーカロイド」という言葉の背景にあるような文化的営為、それ自体さえも変化させるような力学も持っているのではないだろうか。

 2021年に登場したCeVio AI「可不」は、VOCALOIDエンジンを使用していないこと、そして「合成音声音楽」という言葉の台頭以後に登場している点を鑑みると、「合成音声音楽」という言葉を背負わせるに値する存在だろう。そんな彼女は「フォニィ」にて「あたしってなんだっけ」と歌っている。「合成音声音楽」世代である彼女は彼女自身のこともまだ、何もわかっていないのかもしれない。だからこそ、彼女の「あたし」を探求するとともに、「合成音声音楽」という新しい言葉の意味も探求する必要がある。

 以上から、「文化圏としての『ボーカロイド』とは何だったのか」という点からはじめ、そのうえで展開される「合成音声音楽」という世界、そしてその代表格たる可不の「あたし」を探す試みを、今回の機会でさせていただいた。

本文の補足

 議論は2000年代の国内ネット文化から2021年までを俯瞰的に見ていくことを主軸にしたため、どうしても長くなってしまうのだが、それでもなお、かなりの箇所を省略させていただいてもいる。また、表記の問題上、どうしてもうまく読み手に伝わるかが不安な点もいくつか存在している。以下ではそれらについて若干ながらの補足を加え、少しでも理解の助けになれればと思っている。3つの補足はそれぞれ独立した話なので、気になったところだけ読んでもらえればと思う。

補足①――2ちゃんねるにおける余白のメカニズムについて

 一つ目として、「余白」「代入」「接続」という三つの言葉を通した連帯のメカニズムの話についてだ。記事の中で、私は「ボーカロイド」の文化的営為のルーツを2ちゃんねるを起点とした1990年代最晩年の文化に見出し、その特徴を「余白」と「代入」、そして「接続」という三つのキーワードでまとめている。その中で「余白」が形成される背景には「名前が失われること」が関係していると主張しているのだが、これについての説明を本文中ではもう少し付け加えたほうがよかったのではないかと、今になって考えている。そこで、一つ目の補足として、このことについて書いておきたい。

これについて、寄稿した本文と並行しながら、昨日に書いたnoteも引用しながら整理したい。もはや手垢のついたパターンの気もするが、国内のネット文化と2ちゃんねるを分析として、情報社会学者の濱野智史による「フロー」と「コピペ」という二つの概念は今でも有用だろう。SNSが群雄割拠するこの時代において、2ちゃんねるをはじめとした最初期のネット掲示板はそれ自体がもはや過去の遺産であり、今日取り上げられることもだいぶ少なくなった印象はある。しかしながら、2000年代前半の動画投稿サイトが登場する以前において、これらの各種ネット掲示板やブログは社会的にも注目を集め、また今日のSNSほどではないものの、多くのユーザーが参画していた。そんななか、2008年に執筆された『アーキテクチャの生態系』は、当時の情報空間がどのようなものであったかを総合的に評論していると同時に、評論を通し当時の空気感を文章として保存している。そうした空気感の残し方は、2010年代以後の文化しか経験していない自分のような存在、さらに言えば自分よりも下の世代から見た際に、重要な歴史の教科書としての参照点にもなっている。

 著作の中で彼は、2ちゃんねるを「フロー」と「コピペ」という2つの概念によって論じている。前者はいわば2ちゃんねる以前より存在したブログ文化における「常連」をつくらないようにするという、ウェブの設計思想の側面に大きく関係する。2ちゃんねるの各掲示板は書き込みが断続的に続くことで、トップページのより目に着きやすい箇所に直接リンクが表示される設計になっている。多くのユーザーが注目している話題が最も表示されやすく、一方で注目が集まらない情報が淘汰されていくという設計なのだが、これは今日だと人気ツイートが常に目につきやすいという点で各種SNSのタイムラインにも近い要素だ。だが、もっぱらテキスト主体で構成される2ちゃんねるは、Twitterが画像や映像をアップロード可能である点と比較して「個人」を表明する手段にも乏しい——テキストサイトとして登場した2ちゃんねるは画像を掲載する際には、外部リンクを経由させる必要性がある。そうした匿名性は本来、2ちゃんねる以前に存在したブログ文化における「常連」の排除——常連がずっとコメントをし続けることによって新規参入者が参入しにくくなる問題へ対処するため、全員を匿名とすることで「常連」を作れなくした——を目的に作成されたのだが、一方で、掲示板上で(今日の発展したSNSと比べると)「個人」を消失させてもいる。隠して、掲示板のユーザー全員を平等に扱うためのシステムを構成してきた。

 しかしながら、ユーザーたちは個人の消失というメカニズムを逆説的に利用することで、独自文化を形成した。これを支えるのが濱野が指摘するもう一つの特徴たる「コピペ」だ。2ちゃんねるには「モナー」という独自のAA(アスキー・アート)で作成されたキャラクターや、「kwsk(「詳しく」の略語表現)」や「イッテヨシ(「死ね」の間接的表現)」といった、ユーザーがコミュニティ内で限定的に使用した言語がある。それらは先述の設計思想を巧妙に利用し、ユーザーたちが「2ちゃんねらー」という巨大なキャラクターとして協働するための「信頼財(社会関係資本)」として作用した。この信頼材はいわば、情報環境上で失われてしまったユーザー個人のステータスを補完するように作用している。フローによって「常連」になれなくなってしまった——まさに匿名性によって名前を奪われてしまった私たちは、奪われたことによって生じた余白に対し、モナーをはじめとしたコンテンツを埋めていった。こうして、モナーは2ちゃんねらーの信頼材となったのだ。言い換えれば、コピペは匿名で議論を行う2ちゃんねらー全員の「名前」なのだ。

 かくして、2ちゃんねるユーザーたちは名前を失いながら、本来的には名前を有していたはずの「余白」に対し、自身の「名前」を埋め込んでいる。そうすることによって「接続」し、巨大な2ちゃんねらーに変身する。

補足②――「可不」の自律性について

 もう一点、「可不」に関する記述についての補足をしておきたい。本文にて私は可不について、彼女自身が暗い過去を抱えている――彼女自身がいわゆる「ボカロ踏み台論」として批判されるべきバックグラウンドから生まれ落ちたことと、それでもなお、彼女自身を2021年の私たちユーザーは受容してきていることを指摘した。可不が作られた背景には自身の同位体たる「花譜」はもちろん、いわゆるボカロ出身アーティストであるカンザキイオリが関係している。ボカロPがメジャーデビューに際してボカロを捨てていく行為は俗に「ボカロを(デビューのための)踏み台にしている」という意味で2007年のsupercellのデビューからずっとなされてきたような、いわば手垢のついた批判ではあるが、とはいえ、そうした議論は2010年代においてもたびたび登場はしてきた。そうした背景を鑑みるとカンザキイオリは紛れもなく批判されるべき存在であり、そしてそんな彼が生み出した存在こそ、可不である。論理的に考えるのであれば、可不は批判されるべき存在にもとれるだろう。しかしながら、私たちはそうはしなかった。2021年の代表曲に「フォニィ」が入っただけでなく、2021年において数多くのユーザーが可不を用いて楽曲を作った点は、私たちが彼女にたいし下した判断をわかりやすく示している。以下のnote記事はニコニコ動画ではなくYouTubeを参照しているものの、2021年の合成音声音楽シーンにおいて可不の存在がいかに大きかったかを統計的調査の面からも明らかにしている。

 しかしながら、カンザキイオリが批判されるべき存在であることを理由に、可不が批判されるべき存在であると主張してもよいのかという問題については、本文では検討しなかった。この問題は換言すれば、作品と作者を同一水準で考えるべきかという問題だろう。

 これは現代アートの問題として盛んに議論される「作品の自律性」という問題にも大きく関係している。2010年代以降、多様に展開されていく現代アートに対し、その価値判断基準に対する哲学的問いがこれまで何度もなされてきている。従来「芸術」と称されたものは原則として「美しいか否か」が中心命題であり、その判断の上において価値が決定していた。しかしながら、現代アートは現代にいたるにあたって社会批評的な側面を強め、次第に「現代社会、あるいはアートシーンにたいして批評的か否か」という側面を強めている傾向があるといえる。2019年8月1日から約2か月に渡り開催された「あいちトリエンナーレ2019 『情の時代』」にて、その一企画である「表現の不自由展・その後(以下、「不自由展」と表現)」が多くの議論を巻き起こしたことは、まだまだ記憶に新しいのではないだろうか。日韓問題の象徴ともいえる《平和の少女像》や、昭和天皇の肖像を燃やすという《遠近を抱えてPartⅡ》などの作品が展示された本展覧会は、その内容が日本国民の感情を傷つけるものであるという批判や、また国家に対して批判的な作品を公的資金で運営されるあいちトリエンナーレで展示することは許されないという批判が生じてきた。その一方、これらの「不自由展」に内包されたコンセプトという視点から見れば、本展覧会は芸術が社会の中でどのような役割を担うべきなのか、或いは芸術は社会から独立して存在するべきであるのかをめぐる倫理的な問いかけを広く大衆にアピールした。この問題は「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」という名前にて、多くの議論がなされている理論体系の一つだ。

 話をボーカロイドに戻そう。筆者が主張してきた「ボーカロイド」というものは、基本的にVOCALOIDを用いて作られた楽曲を中心にした文化的営為のそのすべてを射程に含んできた。換言すれば、楽曲は単体で価値を持つのではなく、数多くのN次創作の無数の連関をもってして価値を持つものなのだ。数多くのN次創作を射程に含めなければ、私たちはそもそも初音ミクの「ネギ」にどうして価値があるのかを考えることができない。それだけでなく、ボーカロイドを中心とした創作の輪を広く射程としてとらえなければ、「歌ってみた」や「MMD」をはじめとした各種コンテンツさえ、対象に含める射程を失ってしまう。そもそも、国内ネット文化における「接続」のメカニズムは、コンテンツを集団で所有することによって成立してきたのだから、そこには少なからずコンテンツをそれ自体として評価するのでなく、集団でその価値観を判断し、そして価値を生成してきたのでなかっただろうか。それこそ、2000年代前半に数多く作成されたモナーのフラッシュ動画であり、あるいは昨今話題の「ゆっくり」に関する話だ。初音ミクはその創作性を「ネギ」として継承した。

 こういった文脈を継承しているとするならば、可不という存在とその背景に存在するあらゆるものの存在を無視することは、私たちはできないはずだ。そもそも、彼女が人気になった最も大きな要因は何かを考えた際、そこにあるのは紛れもなくバーチャルシンガーたる、自身の同位体だ。だからこそ、可不の需要と人気は消してその背景にいる社会的な要素を無視して検討することはできない。換言すれば、可不を「自律的」に検討すること、可不の人気をバックグラウンドにある社会的背景を排除して評価することはおそらくできない、と言えるだろう。

補足③――分析心理学について

 三つ目の補足として、本論最後に用いた精神科医であるカール・グスタフ・ユングの分析心理学の補足もしておきたい。1879年にドイツのライプツィヒ大学にてヴントが心理学実験室を設置して以降、心理学は今日まで多様な形で花開いてきた。なかでも、20世紀にかけて登場した心理学の三大潮流である「精神分析」「行動分析」「ゲシュタルト心理学」という三つの学派は、今日の心理学や心理療法だけでなく、哲学的な領域にも大きな影響を与えてきた。中でも最前者は今日「現代思想」と称されることの多いフランス語圏の哲学へ、そして残りは科学的実験を盛り込みながら、20世紀後半に認知心理学へと進化し、そして今日では医学と交差しながら脳科学へと発展してきた経緯がある。

 ユングは精神分析の創始者であるフロイトの実質的な一番弟子として彼と親しい関係を築きながらも、後に思想の違いから道をたがえ、分析心理学という独自の学問体系の構築を目指した人物だ。彼はフロイトの精神分析のあらゆる要素を性的欲動に還元する姿勢を批判し、離反後は精神分析を中心にすえながらも、「集合的無意識」などの独自の概念を数多く提示してきた。その議論の多くは今日ではやや疑似科学的と批判されることも多かったが——とはいえ、ユングは研究者としてのデビュー論文ともいえる博士論文からすでにオカルトに興味を持っていた点を踏まえると、最初から彼自身が疑似科学であることをある程度自覚していたを考えるべきだ——、実際の心理臨床や哲学の場面でも取り上げられることも多く、特に1960年代から1980年代頃までの間に国内でも人気を博してきた。その影響を受けてか、特に1990年代にルーツを置く日本のサブカルチャーコンテンツの多くには、ユングの思想が見えていることが多い——代表的なのが「Fateシリーズ」に始まる那須きのこ作品がある。特に「空の境界」では、明らかにユングのことを指しているセリフが登場していたりする。

 彼は数多くの神話と精神病患者の妄想の類縁性をもとに、人類には共通したイメージやパターンが内包されていることを生涯で指摘してきた。これらの蓄積は1917年にはすでに「集合的無意識」という言葉によって表現はされているのだが、それらがより詳細に分析されるのは更に後年になった時のことである。1920年代にユングは集合的無意識には様々なパターンが内包されており、中でも「父」と「母」、そして「道化師」などのイメージは有名だ。神話から得ている多くのイメージにはまた両義性があることも主張され、例えば「母」というイメージにおいても「子どもを産み育てる側面」と「子どもを自身の胎内から延々に離そうとしない側面」という、まさに肯定的な面と否定的な面の両方が合わさっていると述べてもいる。

 私たちはインターネット上で、多くの場合は自身の名前を明かさずにコミュニケーションを交わしつつ、初音ミクを用いた。彼女はそのすべてを受容し、その中で数多くの楽曲を生み出すといったことをしてきた——まるで、初音ミクという巨大な「母」が、楽曲を生み出しているように。しかしながら、これから先の時代において私たちはそのような空間を今後も維持し続けることができるのだろうか。これについては、本文の方でも自分なりの意見を提示した。

謝辞

 スペースで聞いたことがある人もいるかもしれないが、ボカロで文章を書き始めた最初期から「(旧題)ボーカロイド音楽の世界」に掲載することが自分の目標でした。 そういう意味で、今回掲載させていただけたのは本当にうれしい限りです。最終校正で原稿の微修正を何度もお願いしてしまいながらも、最後まで付き合ってくださった編集担当のしまさんには頭が上がりません。 新年度で生活環境が変わり、連絡も滞ってしまいがちで申し訳ありませんでしたが、本当にありがとうございました。

 さらに、今回こうして機会を頂けた背景には、昨年冬にLOCUST+にてカゲプロ論を寄稿させていただいたことの大きかったと思います。 若手レコメンドとして寄稿させてもらい、しっかり次につなげられたのはとてもうれしい限りです。 声をかけてくださった北出栞さんにも、改めてお礼を申し上げます。

 そしてもちろん、私の作ってるもろもろを読んだり聞いたりしてくださっている皆さんがいるからこそ、自分はいろいろやれてるなぁと毎日思うばかりです。 自分の好きな思想家にジェイムズ・ヒルマンが「貴方(読者)がいなければ、すべてが虚しい」と本に書いてるのですが、本当にそうだと思います。皆さんに感謝を!

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