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サンパウロの雨

ブラジルのサンパウロで泊まった安宿は、玄関の扉が二重になっていた。

普通の扉と、鉄格子の扉。

僕は鉄格子の扉の存在に、どこかこの街の治安の悪さを感じていた。

*****

大学生のとき、南米を1人で旅した。

夜行バスの長距離移動を終え、サンパウロのこの宿に辿りついたときには、既に正午になっていた。

僕にあてがわれた部屋は、カーテンがボロボロの薄暗い簡素な小部屋だった。それでも値段を考えれば充分すぎた。

長旅の気だるさを拭おうと、シャワーを浴びた。僕はいつもそうするように、自分の体を石けんで洗うついでに、裸のまま、溜まった洗濯物を粉洗剤で洗った。

なぜかこの宿は、時間がゆっくり流れた。ラテンのリズムとは、程遠い。

皆、どこかへ行っているのだろうか。宿には人の気配が感じられなかった。

シャワーの水を止めると、時折、遠くを走る車のエンジン音だけが聞こえた。

*****

薄暗い宿には、中庭があった。

中庭といっても、地面はコンクリートで、単に屋根のない殺風景な空間だった。

ただ、その空間だけ、サンパウロの日差しが燦々と降り注いでいた。

隅の方に、物干しスペースがあった。僕はそこに自分の洗濯物を干すことにした。

*****

洗濯物を干していると、人の気配を感じた。振り返ると、中庭を挟んで反対側に、1人の男が立っていた。

(日本人だ・・・)

僕にはわかる。間違いない。日本人だ。

(しかも、長期滞在者・・・)

男が醸しだすヤバいオーラは半端じゃなかった。年齢は30代から40代だろうか。どうみても、短期滞在者ではないだろう。数ヶ月、もしかしたら、年単位でこの宿に巣くっているのではないか。

僕は、軽く会釈をしたが、その男に関わるのはやめようと思った。

*****

あの目をしている。

これまで旅をしてきて、何度か、あの目をしている旅人に出会った。

怒り、悲しみ、あきらめ・・・、すべての負の感情が込められた目。

人を切り裂くような鋭い眼光で迫ってくるものの、その瞳の奥は、この世を絶望しているようでエネルギーが全くない。

すべてが信じられなくなって、すべてを疑わざるを得ない旅人。

自分を見下す人間に対しては怒り狂い、自分が見下すことのできる弱い人間を探している。

直感的にその目を感じた。

*****

洗濯物を干し終えた僕は、散歩に出かけることにした。

ちょうど、お腹も空いていた。

サンパウロの街は、人々でごった返し、雑音が轟いていた。治安の悪さはさほど感じない。むしろ、にぎやかでラテンの熱量がみなぎるこの街に、どこか安心感すらあった。

帰り道。空が陰り、雲行きが怪しいと思ったときには、既に遅かった。

突如、雨が降り出した。

スコールだった。

宿まではまだ少し距離があった。

見知らぬ建物の軒先で、雨宿りをすることにした。

*****

あの男・・・。

いったいどれくらい、あの宿に巣くっているのだろうか。

毎日、何をしているのだろうか。

お金はどうしているのだろうか。

なぜ、あのようになってしまったのだろうか。

何かを失ったのだろうか。

彼の中には、もう希望も何も残っていないのだろうか。

僕には、理解ができない。

地面を激しく叩きつける大粒の雨を眺めながら、そう思った。

*****

雨はすぐに止み、ウソのように晴れた。僕は宿に戻った。

(あっ、やべっ・・・)

すっかり、洗濯物のことを忘れていた。

急いで中庭に向かった。

(んっ??)

状況がすぐにつかめなかった。

僕の洗濯物が無くなっていた。

(盗まれたか?)

*****

とりあえず、部屋へ戻ることにした。

そのときだった。

洗濯物を見つけた。

共有スペースの低い棚の上に、僕の洗濯物があった。

雨に濡れずに取り込まれていた。

きれいに畳んであった。やわらかに繊細に畳んであった。

(いったい誰が・・・)

(ああ、あの人か・・・)

*****

人を信じず、人を疑い、見下していたのは、僕の方だった。

僕は彼の1番大事な部分を見誤っていた。だからこそ、彼はこの世に絶望してしまったのかもしれない。

日本の裏側まで来て、いつまで鉄格子の中にいるんだろう。

鉄格子の外の世界は僕にとっては悪くなかった。その世界はとてつもなく広く、どこかでつながっていて、きっと日の当たる場所は他にもある。

そんなことはわかっていると言うだろう。

もちろん、地球は丸いのか、歪んでいるのか。僕にはわからない。

ただ、たしかなことが1つだけある。

サンパウロの雨は、絶望的に激しく降る。

だけど、その分、すぐに止む。

何度も何度も降る。

だけど、絶対に止む。







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