サンパウロの雨
ブラジルのサンパウロで泊まった安宿は、玄関の扉が二重になっていた。
普通の扉と、鉄格子の扉。
僕は鉄格子の扉の存在に、どこかこの街の治安の悪さを感じていた。
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大学生のとき、南米を1人で旅した。
夜行バスの長距離移動を終え、サンパウロのこの宿に辿りついたときには、既に正午になっていた。
僕にあてがわれた部屋は、カーテンがボロボロの薄暗い簡素な小部屋だった。それでも値段を考えれば充分すぎた。
長旅の気だるさを拭おうと、シャワーを浴びた。僕はいつもそうするように、自分の体を石けんで洗うついでに、裸のまま、溜まった洗濯物を粉洗剤で洗った。
なぜかこの宿は、時間がゆっくり流れた。ラテンのリズムとは、程遠い。
皆、どこかへ行っているのだろうか。宿には人の気配が感じられなかった。
シャワーの水を止めると、時折、遠くを走る車のエンジン音だけが聞こえた。
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薄暗い宿には、中庭があった。
中庭といっても、地面はコンクリートで、単に屋根のない殺風景な空間だった。
ただ、その空間だけ、サンパウロの日差しが燦々と降り注いでいた。
隅の方に、物干しスペースがあった。僕はそこに自分の洗濯物を干すことにした。
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洗濯物を干していると、人の気配を感じた。振り返ると、中庭を挟んで反対側に、1人の男が立っていた。
(日本人だ・・・)
僕にはわかる。間違いない。日本人だ。
(しかも、長期滞在者・・・)
男が醸しだすヤバいオーラは半端じゃなかった。年齢は30代から40代だろうか。どうみても、短期滞在者ではないだろう。数ヶ月、もしかしたら、年単位でこの宿に巣くっているのではないか。
僕は、軽く会釈をしたが、その男に関わるのはやめようと思った。
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あの目をしている。
これまで旅をしてきて、何度か、あの目をしている旅人に出会った。
怒り、悲しみ、あきらめ・・・、すべての負の感情が込められた目。
人を切り裂くような鋭い眼光で迫ってくるものの、その瞳の奥は、この世を絶望しているようでエネルギーが全くない。
すべてが信じられなくなって、すべてを疑わざるを得ない旅人。
自分を見下す人間に対しては怒り狂い、自分が見下すことのできる弱い人間を探している。
直感的にその目を感じた。
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洗濯物を干し終えた僕は、散歩に出かけることにした。
ちょうど、お腹も空いていた。
サンパウロの街は、人々でごった返し、雑音が轟いていた。治安の悪さはさほど感じない。むしろ、にぎやかでラテンの熱量がみなぎるこの街に、どこか安心感すらあった。
帰り道。空が陰り、雲行きが怪しいと思ったときには、既に遅かった。
突如、雨が降り出した。
スコールだった。
宿まではまだ少し距離があった。
見知らぬ建物の軒先で、雨宿りをすることにした。
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あの男・・・。
いったいどれくらい、あの宿に巣くっているのだろうか。
毎日、何をしているのだろうか。
お金はどうしているのだろうか。
なぜ、あのようになってしまったのだろうか。
何かを失ったのだろうか。
彼の中には、もう希望も何も残っていないのだろうか。
僕には、理解ができない。
地面を激しく叩きつける大粒の雨を眺めながら、そう思った。
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雨はすぐに止み、ウソのように晴れた。僕は宿に戻った。
(あっ、やべっ・・・)
すっかり、洗濯物のことを忘れていた。
急いで中庭に向かった。
(んっ??)
状況がすぐにつかめなかった。
僕の洗濯物が無くなっていた。
(盗まれたか?)
*****
とりあえず、部屋へ戻ることにした。
そのときだった。
洗濯物を見つけた。
共有スペースの低い棚の上に、僕の洗濯物があった。
雨に濡れずに取り込まれていた。
きれいに畳んであった。やわらかに繊細に畳んであった。
(いったい誰が・・・)
(ああ、あの人か・・・)
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人を信じず、人を疑い、見下していたのは、僕の方だった。
僕は彼の1番大事な部分を見誤っていた。だからこそ、彼はこの世に絶望してしまったのかもしれない。
日本の裏側まで来て、いつまで鉄格子の中にいるんだろう。
鉄格子の外の世界は僕にとっては悪くなかった。その世界はとてつもなく広く、どこかでつながっていて、きっと日の当たる場所は他にもある。
そんなことはわかっていると言うだろう。
もちろん、地球は丸いのか、歪んでいるのか。僕にはわからない。
ただ、たしかなことが1つだけある。
サンパウロの雨は、絶望的に激しく降る。
だけど、その分、すぐに止む。
何度も何度も降る。
だけど、絶対に止む。
お気持ちは誰かのサポートに使います。