【完結編】『星の王子さま』で読むクムク語(4)
どうもみなさま、Салам!(こんにちは!)
誰得覚悟で始めたクムク語解説シリーズも、ついに最終回になりました。このエントリーでは最終回を記念して、あとがきのようなものを最後に書き足してみました。言語の実例そのものにご関心のない方は、クムク語訳の部分は読み飛ばしてくださってもよいかと存じます。
あらためて、クムク語について
え?「そもそもクムク語ってどこで話されている言語ですか?」とお尋ねになりましたか。そうさな、詳しくはWikipediaを…というのもアレ(←時流に乗ってみました)なので、以下リンクの「『星の王子さま』(以下、"LPP")で読むクムク語(1)の冒頭部分をご参照いただければと思います。
ものすごくざっくりここでも書いておくと、クムク語(Kumyk; クムク語では)コーカサス北部にあるダゲスタン共和国というロシア連邦内の共和国で主に話されているテュルク系の言語のひとつです。
このテュルク系の言語は「チュルク諸語/テュルク諸語」とも呼ばれることがあります。私個人は普段はトルコ語やアゼルバイジャン語に主な関心がありますが、より広い意味でのテュルク諸語の勉強の一環という意味もかねてここ最近暇を見つけてはクムク語に訳されたLPPを読んでいたという経緯です。
あとは文字と発音の関係もおさらいしておきましょう。以下の対応表をご参照いただければと思います。ただし、この記事でのラテン文字への転写はまた下の表とは別に設定していることをご了承ください。
以上、ざっくりとですがクムク語についての基本情報のおさらいでした。ではそろそろ本題に…
クムク語の分析(LPP第2章;最終回)
LPPクムク語訳版の第2章。最終第4回の今回は、前回からの続きを見ていきましょう。最初に、本エントリー記事の公開に際して改めてクムク語訳版の出典を以下に記しておきます。
以下、具体的に例文を引用しながら、グロスを充てつつ和訳してみます。例文番号は(41)からということで、前回の続きから再開いたします。
分析が間違っていなければなのですが、上記(41)では代名詞bu(近称「これ」)に限定語尾の-suがついていることになります。すでに代名詞で指示されているものが特定されているのに、限定語尾がつくというのが正しい分析であれば非常に興味深い現象なのですが。今のところ手元の資料では、busuのほかの解釈の可能性が見当たらないのですが、これについては今後要調査ということで。それ以外の部分については特に難解な部分はなく、文全体の大意はとれるように思います。
未来形が終止形だけでなく、いわゆる連体形としても使われることがわかりました。なるほど。あと細かいところですが、uzaqはクムク語でも「遠い」というのが第一義的な意味(なお、トルコ語では"uzak")だと思うのですが、ここでは「長い」という意味で使われているようです(手元のクムク語辞書ではそちらの意味も記載されています)。トルコ語だとどういう形容詞になるでしょうね…手元のトルコ語訳本の多くでは当該箇所で"uzun"(長い)という形容詞が選択されています。
まだ指示詞の区別が筆者には今一つピンときていないことを正直に告白しつつ、場面はついに羊を描いてはダメだしされ続けた「ぼく」がキレるところを迎えました。さあどうなる…
(44)の例では、文頭の代名詞menに付属語=čiがついています。これは前回のエントリーでも言及した、表記上は分かち書きしつつも前の語の最後の母音に合わせて=či/=čü/=čï/=čuのいずれかに変化するというタイプの付属語のようです。文法書の解説ではいくつか機能があるのですが、ここでは前の語を焦点化する機能をもっている(別の言い方をするなら、聞き手に対して話し手が最も伝えたい部分であることを表示する)と解釈するのがよさそうです。
文頭の"Bolmag'anda"は私の意訳です。直訳すると「だめな時に」のようになるのでしょうが、それでは意味が通じないので、子羊の絵を何度かいてもだめなので、という意味になるように訳をあててみた次第です。グロスのほうはまあ問題ないかなとは思うのですが。あとは指示詞的な"muna"という語が注意を引きます。ウズベク語に似たような意味の語で"mana"というのがあったと思うのですが、このあたりの語は周辺言語ではどう分布しているのかちょっと気になります。あとでカラチャイ・バルカル語も見返しておきましょう。
"bek tamaša boldum"はもう何回か出てきたフレーズ。私、覚えました。「とても驚きました」という表現、いつかダゲスタンに行くことがあったらぜひ使ってみよう…(いつ使うんだ)
そろそろ私も、補助動詞としてのyiber-「突然~しだす」を覚えてきたような気がします。そういえばウズベク語を勉強していた時期、これらの補助動詞がほんとうに苦手でした(ウズベク語だとyubor-という対応の補助動詞がありますよね)。どの補助動詞がどんな意味だっけ、というのをなかなか覚えられずにいたのです。
しかしてクムク語のテキストをしばらく眺めているだけで頭に入りつつあるというのは…ウズベク語、単に勉強量が足りていなかっただけということなんでしょうね…
…と脱線はさておき。クムク語に戻りましょう。
個人的に興味をもっている諾否疑問文がここにきて登場しました。クムク語の疑問の付属語は=mi/=mü/=mï/=muの4種で、例によって母音調和の規則に合わせて適切なものが選ばれるということになります。それにしても、クムク語では「食べる」はaša-という動詞を使うのですねえ。このあたりも自分には新鮮に映ります。
クムク語訳テキストでは、王子さまの星のことを指して"üy"という語がチョイスされていますね。このあたりは訳者の方の好みが左右するような部分なのかもしれません。
あとは文末詞に現れている"dag'ï."という語が興味深いところで、(i)疑問文で現れると話し手の驚きを表す、(ii)話し手の命題内容にたいする不満や不平などの感情を表す、(iii)話し手の相手の発したことへの同意を表す、といった機能をもっている…というのが、辞書を参照して得た情報です。
その直前の=čïとともにざっくりと「強調を表す」と俗に説明される要素ですね。このあたりを実際に興味をもって記述・研究する場合は掘り下げていくことになるのでしょう…が、それは今後の課題とさせていただくことにしまして。
(51)冒頭のBu-g'arは近称の指示詞buの方向格形式。子音末の/r/がとても引っ掛かります。トルコ語にもアゼルバイジャン語にもないですからね…この子音… クムク語オモシレー、と筆者が感じる要素の小さいひとかけらの典型例です。
さああと少し。もう少し読み進めましょう。
この例の最後の"turup"の部分はしばらく解釈に時間がかかりました。というのは、-up (-ip/-üp/-ïp/-up)は連用形なのですが、テュルク諸語によってはこの形式が間接過去的意味を伴う終止形として用いられることがあるのです。しかしクムク語は今まで見てきた限りそんな用法はなさそうだし、文法解説の文献にもそんなことは書いていないよな…と思ったのですが、よく見たらこの文は倒置の構造になっているのですね。「注意深く見続けながら…と彼は言った」という意味が、語順上は「…と言った、彼は、…注意深く見続けながら」となっていると。
ああよかった。解決しました。
さあ、いよいよ第2章最後の文になりました。やりきった感…!
物語はもちろんここから壮大に展開していくわけですが、クムク語で残りがどのように表現されていくのかは、今後じっくり読み進めていくということにいたしましょう。ここまでお付き合いいただきまして、心より御礼申し上げます。
あとがき:けっして安泰ではないクムク語
さて、入手経緯という点でも思い入れのあるクムク語版LPP、ようやく第2章だけですが一通り見てきました。個人的に関心がある疑問文も出てきましたし、モダリティを担う文末詞を伴う文も目にすることができました。
限られた部分ではありますが、実際に自分でグロス打ちをやってみることでそれなりにクムク語の特徴の一端を垣間見たような気がしています。
しかし我ながら「テュル活」(筆者注:テュルクあるいはテュルク語学に関する様々な活動のことを界隈ではこのように呼んでいます)とは、かえすがえす自己満足の世界だなと思います。
誰かが私にクムク語について教えてくださいと頼んできたわけでもありませんし、私自身もトルコ語(+アゼルバイジャン語)の文法研究の成果を出さないといけないこの時期に、のんきに別のテュルク語に手を出している場合か、と叱られそうな状況ではあるのです。あるのですが、乗りかかった舟ですからこれはもうどうしようもない。
そう言いつつ、なぜクムク語を改めて今回選んだのかという点について改めて述べてみたいと思います。
すでにこのシリーズ第1回の冒頭の部分でも書いたのですが、個人的な趣味で蒐集しているLPPのうち、テュルク諸語に訳されたものの中で最も入手した経緯に思い入れがあるという(きわめて)個人的な理由が一つあります。なんと、クムク語に翻訳されたご本人より、御本を出版地であるマハチカラ(ダゲスタン)から直接ご郵送いただいたのです。
いわゆる消滅の危機に瀕している言語という観点からは、UNESCOの情報によるとクムク語話者数は40万人ほどと推定されているようです。相対的にはさほど逼迫した状態ではないとはいえ、現在のクムク語の状況は「潜在的に消滅の危機にある(potentially vulnerable)」とされています。
訳者のНурьяна Идрисоваさんとはまだこの点についてお話する機会はない(どころか、今は残念なことに例の情勢で統制がしかれているためか、SNSでの連絡がとりづらい)のですが、LPPの翻訳はおそらくクムク語の姿を残しておくという意図も含めておられるのだろうと個人的に推察しています。
危機に瀕したテュルク諸語(あるいはその周辺言語も)をテーマとした学術研究も近年はトルコ、テュルク諸国出身の研究者たちが重要な一端を担う形で展開されています。日本国内しかりテュルク諸語圏しかり、消滅の危機が見えている言語は今この瞬間にもたくさんあるということを、クムク語に触れながら改めて教えられるような気がします。
なお、Нурьяна Идрисоваさんご本人によるLPPクムク語訳の朗読がYoutubeで視聴できます。ここまで第2章のテキストのみ今回の企画では引用してきましたが、実際のクムク語の音声がどのようなものかご関心がある方は、ぜひ下記リンクでその響きを味わってみてください。
今この記事を書いている2023年12月11日時点では、LPPで翻訳されたテュルク諸語のうちさらに深刻な消滅の危機にある言語としてカライム語の訳本があります。
カライム語はクムク語と同じくテュルク諸語北西語群に属するのですが、言語使用地域はリトアニアのトラカイやクリミア、ウクライナといったようにクムク語とはまた異なる地域で使用されている言語です。それに従い文字表記の仕方も地域ごとに違うようで、リトアニアで話されているカライム語(LPPに訳されているのはそれです)の表記はかなりリトアニア語表記の影響を受けているようです。
こういった言語についても、LPPを通じていつか紹介してみせることができればよいのですが、今のところは当該言語の辞書がないことにはなんとも厳しいかな…とは思います。クムク語もトルコから出版された良質の辞書を入手したからこそ、今回のようにグロスが打てましたからね…。
と思ってググりましたら、オンラインのカライム語辞書はいちおうありましたか。だけど、カライム語-ロシア語か~… ロシア語は今の自分にはなかなかきびしいっすなあ…
ということで、いつか条件がそろえばカライム語にもぜひ手を出してみようと思います。オレたちのテュル活に終わりはない…!
あとがきを締めくくるにあたりまして、今回の記事およびクムク語シリーズは、「言語学な人々 Advent Calendar 2023」の参加エントリー記事として執筆したものです。
カレンダーの通りそうそうたるメンバー・書き手がそろう中、自分がその一つに収まってしまうのはかなり場違いな感があります。が、まず実例にあたるという言語学の大事なステップについて、筆者自身が長年愛してやまないテュルク諸語のひとつを実例として紹介してみた次第です。
普段からテュルク諸語に関心がある一人として、上記アドヴェントカレンダーの趣旨にできる限りテーマを寄せようとしてみた結果ということで今年はクムク語についての記事をお納めいただければ幸いです。
謝辞
参照文献
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