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【便乗企画】アゼルバイジャン語で読む『星の王子さま』

先日言及した、多言語で読む『星の王子さま』の本。28言語で、各言語の特徴などの紹介もしつつ、前半部分にかなり力の入った言語学の概説が記されています。

私も先日、ようやく入手しました。とても斬新な言語学・語学の入門書が公刊されたな、という印象です。特に本の前半はかなり本格的な言語学概説があり、そこを読むだけで1冊ぶんの価値があるように思います。これに各言語の訳と言語概説がつくというんですから、なんとも欲張りな本です…!

さて、本題。
こんなおいしいネタはないでしょう。やはり便乗しなければ

上記の本では、テュルク諸語のうちトルコ語とウズベク語の概説が所収されていますが、ここは私の現在イチオシの言語たる、アゼルバイジャン語の出番でしょう…!

ということで、さっそく手元にあるアゼルバイジャン語の訳本を引っ張ってきます。現地で入手していたのです。当時のオレ、グッジョブですよね。

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写真中、後ろのほうの本がアゼルバイジャン語訳。

タイトルは、"Balaca Şahzadə"となっています。balacaは形容詞で「小さい」、şahzadəは「王子」。なおsahは「王」でzadəは「息子」なので、「王子」という語は複合語だということがわかります。ペルシア語に詳しい方は、このタイトルを見るだけでおお…となるとかならないとか。

さて、訳書の訳者はCavanşir YUSİFLİさん、訳本の刊行は2016年。出版地はバクー、Parlak İmzalarという出版社から出ています。今回みていくのは、物語冒頭の部分です。

原本のイラストなどは省略ということで、興味のある方は適宜実際の本をご覧いただければと思います。例の、最初に描いた大蛇「ボア」についてのくだりの部分。

   Altı yaşım olanda keçilməz meşələrdən bəhs edən "Olmuş Əhvalatlar" adlı kitabda çox qəribə bir şəkil gördüm. Bu şəkildə nəhəng bir ilan —boa yırtıcı heyvanı parçalayıb udurdu. Bu da həmin şəkil: 
(例の大蛇の絵)
Kitabda belə yazılmışdı: "Boa şikarını parçalamadan və çeynəmədən udur. Bundan sonra tam hərəkətsiz qalır və həzmin başa çatması üçün düz altı ay sərasər yatır".
   Mən cəngəllik macəraları haqqında xeyli düşündüm və qəribəsi budur ki, birdən rəngli karandaşlarımı götürüb həyatımda ilk rəsm əsərimi çəkdim. Çəkdiyim şəkil belə alınmışdı:
(例の帽子?の絵)
   Bu şah əsərimi böyüklərə göstərdim və bu şəklin onlarda qorxu yaradıb yaratmadığını soruşdum. Onlar mənə cavab verdilər ki, "şlyapa niyə qorxulu olsun ki?"

では、1文ずつ見ていってみましょう。できる限り解説を入れてみます。

(1) Altı yaşım ol-anda keçilməz meşə-lər-dən bəhs ed-ən
6 歳-1単 なる-ときに 通り抜けられない 森-複数-から 言及 する-分詞
"Ol-muş Əhvalat-lar" adlı kitab-da çox qəribə bir şəkil gör-dü-m.
おこる-分詞 できごと-複数 名前の 本-で とても 奇妙な 1 絵 見る-過去-私
「6歳になったとき、原生林について述べた『(本当に)起こった出来事』というタイトルの本の中で、ぼくはとても奇妙な一枚の絵を見た。」

いきなり最初の文が長めなのですが、まあ見てみましょう。
ol-andaは「なる」という動詞の変化形式の一つで、「〜したとき」のような意味になります。ここでは、「(6歳に)なった時」。
また、bəhs ed-ənも同じく分詞の形で、「言及する(任意の名詞N)」のように、ここでは後に続く「本(kitab)」を修飾しています。

このように見ていくと、アゼルバイジャン語の文を構成する要素の並び方、つまり語順が日本語とよく似ていることがわかりますね。ただし、この文の最後、gör-dü-mに注目すると、最後の接辞-mは「私は」を表す接辞(人称接辞)です。誰がその行為をしたかを表す接辞(人称接辞)が、動詞の変化の一部となっているという点で日本語と異なるということもわかります。

ちなみに、アゼルバイジャン語には「母音調和」というものがあることにも注意したいところです。たとえば、冒頭のol-andaのところ。ここではol-の母音/o/にあわせて、続く接辞がandaとなっていますが、別の動詞、たとえば「来る」(gəl-)なら…

gəl-əndə
来る-とき
「来るとき」

「〜(する)とき」を表す部分は-andaではなく、-əndəになっていますね。このように、1語内部の母音を同じグループに統一させていく現象を母音調和と呼びますが、これはテュルク諸語で広くみられる現象です(ただし、ウズベク語あたりは例外的にこのような現象がないと言われています)。

では、次の文を見てみましょう。

(2) Bu şəkil-də nəhəng bir ilan —boa yırtıcı heyvan-ı parçala-yıb ud-ur-du.
この 絵-に 大きな 1 へび ボア 肉食の 動物-を かみくだく-て 飲み込む-現在-過去
「この絵では、大きな一匹の蛇、ボアが肉食動物を噛み砕いて飲み込んでいた」
2021年4月30日追記:yırtıcıを「獲物」と分析していましたが、形容詞として「肉食の」、またyırtıcı heyvanで「肉食動物」と訳すべきだったようです。とある方からご指摘を得ました。感謝申し上げつつ、訂正します。

指示詞で、近くのものを表すときにはbuという語が使われます。bu şəkil-dəで、「この絵では、…」のような要領です。
なお、şəkil-dəの-dəの部分は場所や時間をあらわす格語尾。名詞の後に格語尾がつくというのも、日本語と似ているといえます。また、ud-ur-duのように、3人称単数主語の場合は、人称語尾がないことにも注目です。

(3) Bu da həmin şəkil:
これ も 次のような 絵
「これは、こんな絵だ。」

ここは指示詞が2つあり、前述のbuが一つ、もう一つはhəminという指示語です。həminは、聞き手(ここでは読み手ですね)の注意を引きつけるときに使います。また、とりたてを表すdaの使い方が日本語の「も」とやや違うところにも注意がいきますね(どう違うかは、また後日機会を見て説明を試みましょう)。

この(3)の文の後、例の大蛇ボアが獲物にまきついて飲み込もうとしている絵が出てきています。

(4) Kitab-da belə yaz-ıl-mış-dı: "Boa şikar-ı-nı parçala-madan və
本-で このように 書く-受身-完了-過去 ボア 狩り-3単-を 砕く-ないで 
 və çeynə-mədən ud-ur.
そして 噛む-ないで 飲み込む-現在
「その本にはこのように書いてあった。『ボアは自分の獲物を噛み砕かずに飲み込んでしまいます。…

続いて(5)へ。

(5) Bu-ndan sonra tam hərəkət-siz qal-ır və həzm-in baş-a çat-ma-sı
これ-から 後 完全に 行動-なしで とどまる-現在 そして 消化-の 頭-に 到達する-動名詞-3単 
üçün düz altı ay sərasər yat-ır".
ために ちょうど 6 月 絶えず 眠る-現在
その後、完全に動けなくなってしまい、消化が完了するまで6ヶ月ずっと眠ります。』」

とりあえずは、語順が日本語とかなり並行しているということをお楽しみいただきたいというのが1点。başa çat-はイディオム的表現で、「完了する、終わらせる」の意味です。

(6) Mən cəngəllik macəra-lar-ı haqqında xeyli düşün-dü-m
私 ジャングル 冒険-複数-3単 〜について 相当 考える-過去-私
və qəribə-si bu=dur ki, birdən rəngli karandaş-lar-ım-ı
そして 奇妙な-3単 これ-である 接続詞 突然 色のついた 鉛筆-複数-私の-を
götür-üb həyat-ım-da ilk rəsm əsər-im-i çək-di-m.
手に取る-て 人生-私の-で 最初の 絵 作品-私の-を 描く-過去-私
「ぼくはジャングルの冒険について相当考えた。そして奇妙なことに、突然色鉛筆を手にして、生まれて初めて最初の絵を描いたのだ。」

「らしい」訳をやってみるとなかなか大変ですね…(今更)。だが、文のしくみだけは、なんとか。
bu=durの「=」マークは、durが付属語であることを表すマーク。=durは3人称単数主語の時に出てくる述語の付属語で、あえて訳すなら「〜です・〜である」に相当します。
また、接続詞のkiは要注目の文法項目で、ペルシア語からの借用の接続詞と思われます。文の構造も、"A ki, B..."(A, Bはともに文)のようになっているとき「BのようにA」または「Aなことに、B...」といった意味になります。

このようなkiを使った文どうしの順序は、テュルク諸語の本来の文型のパターン(Bの文の内容が先に来て、Aは後)と逆の構成になっているのですが、あえてそのような接続詞や複文も使いこなすというのがアゼルバイジャン語はじめ、テュルク諸語の面白いところ、と言えるでしょうか。

(7) Çək-diy-im şəkil belə al-ın-mış-dı:
描く-分詞-私 絵 このように 受け取る-られ-完了-過去
「ぼくが描いた絵はこんなふうに見られた。」

ここでは、受身文も登場しています。al-ın-mış-dıのところ。途中の-ınが受身を表す接辞で、語幹に使役や受身などの、いわゆる「態」を表す接辞がつくという語構成も、日本語と似ていることがよく指摘されるところです。

では続きを。

(8) Bu şah əsər-im-i böyük-lər-ə göstər-di-m və bu
この 傑出した 作品-私の-を 大人-複数-に 見せる-過去-1単 そして この
şəkl-in onlar-da qorxu yarad-ıb yarat-ma-dığ-ı-nı soruş-du-m. 
絵-の 彼ら-に 恐怖 生み出す-て 生み出す-否定-分詞-3単-を 尋ねる-過去-私
「ぼくはこの傑作を大人たちに見せて、その絵が彼らに恐怖を与えるかどうかを尋ねた。」 

şahは「王」という意味がありますが、ここではşah əsərで「傑作」という熟語のようなものと考えてよいでしょう。また、「生み出すかどうか」という言い方が、アゼルバイジャン語では同じ動詞の肯定形(かつ、副動詞形)と否定形を連続させて表していることにも目が行きます。トルコ語にも同じような現象がありますね。

さあではいよいよ、この記事で扱う最後の文を見てみましょう。

(9) Onlar mən-ə cavab ver-di-lər ki, "şlyapa niyə qorxu-lu
彼ら 私-に 返事 与える-過去-彼ら 接続詞 帽子 なぜ 恐怖-のある
ol-sun ki?"
ある-願望 文末詞
「彼らはぼくにこう返事した。『帽子がどうして怖いものかね?』」

ここでも、接続詞のkiが文の途中で接続詞として使われていますが、文末にももう一つkiが使われています。そちらのほうは不平・不満などを表す文末詞で、役割が文中のそれとはやや違うようですね。

また、ol-sunの和訳も難しいところ。いわゆる、3人称命令形というタイプの動詞変化の形で、「〜であってほしい」「〜であるように」といった意味をもたらします。

直訳すれば、「帽子がどうして怖くあってほしいものかね」みたいなことなのでしょうが、それだとしっくりこないので、上のように書いてみたという次第です。

この1か所に遭遇するだけでも、翻訳というお仕事がいかにプレッシャーのかかる大変なことかということが私などはうかがい知れるように思うのですがどうでしょうか。

🧿🧿🧿🧿🧿🧿🧿

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というわけで。
1ページだけですが、アゼルバイジャン語版の「星の王子さま」を見ながら、当該言語の雰囲気を味わってもらいました。いかがだったでしょうか。

私の拙い訳はさておきまして、トルコ語がわかる方は、アゼルバイジャン語を見てニヤニヤすること請け合いでしょうし、テュルク諸語は見たことない、という方も、語順や語の内部構成の様子といったところで、日本語と似ている部分、また似ていない部分というところを味わっていただけるのではないかと思います。

面白い言語だなと思った方は、ぜひアゼルバイジャン語を(も)ぜひはじめてみましょう!

私はただ応援するのみですけどね!ガハハ!!

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