上町台地界隈の地域情報紙「うえまち」

地域情報紙「うえまち」は、大阪・上町台地界隈の情報を中心に、文化や生活、街づくりの情報…

上町台地界隈の地域情報紙「うえまち」

地域情報紙「うえまち」は、大阪・上町台地界隈の情報を中心に、文化や生活、街づくりの情報を発信しています。紙媒体は20年8月より休刊中ですが、こちらを使って連載記事等を継続して発信していきます。

最近の記事

「上町台地」名所図会 第39回

写真/中原文雄 文/松本正行 第39回 国立文楽劇場(大阪市中央区)  ユネスコの無形文化遺産にも指定される文楽は、大阪が世界に誇る芸能と言って間違いありません。人形劇は世界中にありますが、人形1体を3人が操るのは文楽だけ。それによって生み出す微妙な動きと、太夫の語り、三味線の伴奏によって登場人物の性格や心情を見事に表現します。「文楽は高度な総合芸術」と評した人もいますが、一度、文楽を鑑賞すればそれも納得できるでしょう。  そんな文楽の拠点が国立文楽劇場です(写真上)。設

    • 「上町台地」名所図会 第38回

      写真/中原文雄 文/松本正行 第38回 旧木子七郎自邸(大阪市中央区)  大阪には忘れられた芸術家が多くいて、建築家の木子七郎(きごしちろう)もその一人といって間違いありません。大阪の歴史に詳しい人でも彼の名を知らない人は多いでしょう。宮内省の技師の家に生まれ東京帝大を卒業後、大林組に入社。独立し事務所を開設したのち(1913年)、和洋を巧みに使いこなす建築家として活躍しました。  代表作は萬翠荘(ばんすいそう。旧久松伯爵本邸。愛媛県松山市)で、重要文化財に指定されていま

      • 「上町台地」名所図会 第37回

        写真/中原文雄 文/松本正行 第37回 府立夕陽丘高校清香会館(大阪市天王寺区)  大阪府の公立高校はかつて9つの学区に分かれており、そのうち第5学区には高津、八尾、清水谷、夕陽丘など伝統校が多くありました。なかでも夕陽丘高校は5学区の女子中学生にとって憧れの的。セーラー服が評判でしたし、高等女学校の流れを汲む知的な雰囲気も人気の要因でした。  夕陽丘高校は1906(明治39)年の設立。当初の名称は島之内高等女学校でいまの東心斎橋にあり、2年後に天王寺区の夕陽丘町に移転し

        • 「上町台地」名所図会 第36回

          写真/中原文雄  文/松本正行 第36回 摂津酒造跡(大阪市住吉区)  いまや、世界5大ウイスキーのひとつに数えられる日本のウイスキーですが、本格的なウイスキーづくりが始まったのは1923(大正12)年のことでした。製造の指揮を執ったのは竹鶴政孝。彼と妻・リタはNHKの朝ドラ『マッサン』(2014年放送)のモデルにもなったのでご存じの人も多いでしょう。  当時の竹鶴は寿屋(いまのサントリー)の社員でした(のちにニッカウヰスキーを創業)。実は、寿屋に勤める前は帝塚山にあった

          「上町台地」名所図会第35回

          写真/中原文雄  文/松本正行 安居神社(大阪市天王寺区) 大坂冬の陣は和議で終わり、真田丸は破却されます。さらに、すべての堀が埋めたてられたため、大坂城は丸裸になりました。こうなると豊臣方は野戦に打って出ざるを得ません。夏の陣では、真田信繁(幸村)も茶臼山に本陣を構え、徳川方と相対します。   この時の天王寺口の戦いはまさに激戦で、数に勝る徳川方でしたが、3里も逃げた旗本がいるなど大混乱を来たしたそうです。家康が切腹を覚悟したといわれるくらいでしたが、なんとか態勢を立て直

          「上町台地」名所図会 第34回

          写真/中原文雄  文/松本正行 第34回 三光神社(大阪市天王寺区) 戦国最後の合戦である「大坂の陣」は、上町台地上で繰り広げられました。なかでも、「真田丸」をめぐる攻防は真田信繁(幸村)を一躍有名にします。大坂城の南につくった出城にこもった真田軍が徳川側に与えた損害は1万人以上。20万の大軍で大坂城を取り囲みながら徳川が和議にしか持ち込めなかったのは、この出城の存在が大きかったのです。  和議によって完全に破壊されたため、長く真田丸がどこにあったかは謎とされました。候補地

          大人のための文章教室 第30回

          ライター・編集者 松本 正行 「頑張りたいと思う」では覚悟が足りない? 自己紹介でよくあるフレーズのひとつです。開幕前のプロ野球選手なども使いそうですが、ちょっと待ってください。「頑張る」を実行するのは自分です。そうであるなら、わざわざ「思う」をつける必要はないのでは。むしろ、「思う」をつけたことで、「本当に頑張るつもりなの? 覚悟を決めろ!」と言われかねません。  読みやすい文章は、文末がすっきりしています。無駄な言葉がなく誤解を生まないのです。文意が明確になるだけでな

          大人のための文章教室 第30回

          らくごハローワーク 第18職

          落語にはさまざまな職業が登場します。演芸評論家の相羽さんならではの切り口で落語国の仕事をみてみると……。 お裁きはこれぞ『三方一両損』 3両の大金を拾った正直者の男、落し主が分かったので本人に届けると、一本気の落し主「落とした金は俺の物ではない」と拒否する。そこで受け取れ、受け取れないと押し問答になり、大喧嘩が始まったので仲裁人が奉行所に訴え出る。  裁きを担当した北町奉行大岡越前守忠相(ただすけ)は、2人の律義さを誉め、3両に大岡が1両足し、計4両を2人に分け与える。「お

          「上町台地」名所図会 第24回

          ※名所図会(ずえ)とは名所の来歴などを絵も交え紹介したもの。 写真/中原文雄  文/松本正行 難波宮跡(大阪市中央区) ある人物がいなければ、難波宮跡はビジネス街になっていたかもしれない――。そう聞いて驚く人もいるでしょう。実は、難波宮(写真上)は長らく「幻の都」だったのです。陸軍用地だった法円坂一帯こそ、難波宮があった場所に違いない、そう考えた山根徳太郎博士(元大阪市立大学教授)が調査をしなければ、あれだけの一等地です。今頃は多くのビルが建ち並んだことでしょう。  第二

          「上町台地」名所図会 第24回

          らくごハローワーク 第17職

          落語にはさまざまな職業が登場します。演芸評論家の相羽さんならではの切り口で落語国の仕事をみてみると……。 『湯屋番』の微妙に動く二つの目湯屋とは、今日で言う銭湯・風呂屋・公衆浴場のことで、料金を取って入浴させる商売である。  飛鳥期(6世紀)に、奈良の寺院で人民救済のために大浴場を設けた。これを「功徳(くどく)風呂」と呼び、湯屋の始まりとされる。江戸期には、男女混浴の頃もあったが、風紀を乱すとの理由で分浴になった。      ◇       ◇  居候ぐらしの男に湯屋での働

          「上町台地」名所図会 第23回

          ※名所図会(ずえ)とは名所の来歴などを絵も交え紹介したもの。 写真/中原文雄  文/松本正行 阿倍王子神社/安倍晴明神社(大阪市阿倍野区) 安倍晴明の影響もあるのでしょう、安倍氏といえば陰陽師の印象が強いようです。しかし、陰陽道の家として知られるようになったのは平安中期以降。飛鳥期は蘇我氏などにつぐ有力豪族で、平安前期までしばしば高位高官を輩出しました。その安倍氏が治めた場所が、いまの阿倍野区あたりです。安倍氏はもともと「阿倍」と表記しており、区の名前もそれに由来している

          「上町台地」名所図会 第23回

          大人のための文章教室 第29回

          ライター・編集者 松本 正行 「という」の多くは必要ありません 「文は簡潔に」――それを意識するだけで文章力は格段に高まります。無意識で使いがちな「こと」や「とき」、あるいは言葉の重複などを避けるだけで、スッキリかつ締まった文章になり、読みやすくなります。  例文にある「という」も同様です。削ることで冗長さが解消されるのがわかるはずです。  先日、ある人の文章をチェックしていたら、200字程度の分量で7回も「という」が出てきて驚きました。実際、あまり意識せずに使ってしまう

          大人のための文章教室 第29回

          らくごハローワーク 第16職

          落語にはさまざまな職業が登場します。演芸評論家の相羽さんならではの切り口で落語国の仕事をみてみると……。 『厄払い』たった一夜の銭もうけ 年越しや節分に、厄難を追い払う行事に目をつけて、金品を得ようと考えた者がいた。  「御厄、払いまひょ」と唱えて町内をまわり、声のかかった家の前で厄払いの口上を述べて金品をもらう、という限定的職業であった。その口上は「あら目出たや目出たやな。今晩今宵の御祝儀に、目出たきことにて払おうならば、まず一夜明ければ元朝の、門(かど)に松竹注連飾(し

          「上町台地」名所図会 第22回

          ※名所図会(ずえ)とは名所の来歴などを絵も交え紹介したもの。 写真/中原文雄  文/松本正行 「大阪砲兵工廠」関連遺構(大阪市中央区)  大阪が生んだ文豪・開高健が『日本三文オペラ』において「魔窟」と呼んだその施設は、大阪城の東側を取り囲むように広がっていました。大阪砲兵工廠――。いまの大阪ビジネスパークと大阪城公園の東半分、JRとメトロの電車区がその場所に当たります。日本最大の兵器工場で、砲兵工廠の存在も大阪が軍都といわれた大きな要因のひとつでした。  操業開始は18

          「上町台地」名所図会 第22回

          らくごハローワーク 第15職

          落語にはさまざまな職業が登場します。演芸評論家の相羽さんならではの切り口で落語国の仕事をみてみると……。 女房の『尻餅』搗(つ)いて春近し 年の瀬が迫ってくると、昔の人は正月に食べる餅を搗(つ)く算段をした。たいていの家庭には搗臼(つきうす)があって、家族総出で、時には近所の人と共同で餅搗きを行った。  餅米を蒸す者、杵で搗く者、その餅を捏(こ)ねる者、搗き上った餅を丸めたりうすく伸(の)したりする者など、分業で進められた。  一段落して、皆で、搗きたての餅を大根おろしに付

          「上町台地」名所図会 第21回

          ※名所図会(ずえ)とは名所の来歴などを絵も交え紹介したもの。 写真/中原文雄  文/松本正行 旧第四師団司令部(ミライザ大阪城、大阪市中央区) かつて大阪は「軍都」とも呼ばれ、多くの軍事施設が建ち並んでいました。いま、名残りはほとんど残っていませんが、数少ないそれが天守閣横にある「ミライザ大阪城」(写真上)です。もとは第四師団司令部でした。  近代軍制の創始者である大村益次郎は軍事拠点としての大阪を重視し、当初、軍の中枢も大阪に置きました。その後、中枢は東京に移ったものの

          「上町台地」名所図会 第21回