「上町台地」名所図会 第34回

写真/中原文雄
 文/松本正行

第34回 三光神社(大阪市天王寺区)

 戦国最後の合戦である「大坂の陣」は、上町台地上で繰り広げられました。なかでも、「真田丸」をめぐる攻防は真田信繁(幸村)を一躍有名にします。大坂城の南につくった出城にこもった真田軍が徳川側に与えた損害は1万人以上。20万の大軍で大坂城を取り囲みながら徳川が和議にしか持ち込めなかったのは、この出城の存在が大きかったのです。
 和議によって完全に破壊されたため、長く真田丸がどこにあったかは謎とされました。候補地のひとつが三光神社(写真上)で、信繁が大坂城を抜け出たとされる穴も社殿の下に残ります。境内には采配を持った信繁像が建ち、毎年11月の第1日曜に真田祭が催されています。しかし、現在は「抜け穴は徳川軍がつくった塹壕跡。神社自体も真田丸の外にあった」とみられています。
 では、正しい場所はどこか? 『諸国古城之図』などの検証が進んだ結果、明星中学・高校とその東側に並ぶ寺院が、真田丸の場所にあたることが明らかになっています。それを受け、2016年には心眼寺坂の途中に「真田丸顕彰碑」(写真下)も建立されたのでした。
このあたりは実に不思議な地形が多く、心眼寺坂は「心臓破りの坂」ですし、推定地にある寺院の東は大きな崖になっています。そうした地形の妙を信繁は活かしたのでしょう。真田丸の南西角にあたる「餌差町の交差点」に立てば、南に向かって長い坂になっており、迎え撃つのに絶好の場所だったこともわかります。信繁もそこに立ったはず。彼はどんな景色を見たのでしょう。

中原文雄
1948年生まれ。建築工房日想舎 主宰。NPO法人まち・すまいづくり会員。

松本正行
1965年生まれ。ライター・編集者。NPO法人まち・すまいづくり会員。

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