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【ポンポコ製菓顛末記】                   #55 カネに変えられない価値、カネに変えなければいけない価値

 今の日本は、「他人に迷惑をかけない」「文句を言わない」「〇〇ねばならない」というもともとの日本人風土に、「今だけ」「カネ・モノだけ」「自分だけ」の経済価値一辺倒の世相が拍車をかけて、便利にはなったが生きづらくしている。
 抜け出す糸口は無いのか。
 


古代は「市場のある社会」、現在は「市場社会」


 「今だけ」「カネ・モノだけ」「自分だけ」の世相は何も日本だけではない。それは所詮人間の性だから古今東西大した差は無い筈だ。とりわけ日本が取りざたされるのは、経済的成長が諸外国に比べこの30年延びていないこと、少子化・高齢化と経済的成長に欠かせない人口問題をダブルで抱えていること、にもかかわらず政府・企業に大局的な手立て・対策が見えないこと、があげられるからではないだろうか。
 
 先日、コンサルタントの山口周氏が述べていた。
成長しないというが、そもそも高度成長時代が異常なのであって、既に低成長・ゼロ成長時代に入っているのだから、それに合った社会制度・インフラ・意識を持たなければいけないと。

 それは、『21世紀の資本』を出版したトマ・ピケティも述べている。「多くの人は、成長というのは最低でも年3〜4パーセントであるべきだと思っているか、すでに述べた通り、歴史的にも論理的にも、これは幻想に過ぎない」と。
 
 そもそも経済的に高度成長した近代が人類の歴史上異常であって、それ以前のもとの低成長(もしくはゼロ成長)の時代に戻っただけの話だというのだ。しかるに政府も経団連のお偉かたの主流は再び成長(年3~4%?)を目指すという思考のようだ。ここに落とし穴があるのだろう。
 
 実際、商品という交換価値も市場も古代にもあった。しかし当時の社会は「市場の論理」に支配されず、経験価値、即ちカネに変えられない価値が支配していた。それは名誉、美意識、文化、芸術といった価値だ。つまり「市場社会」は社会の一部であったのが、何でも商品という交換価値の「市場社会」一辺倒になったのは近世以降だ。特に直近はすさまじい。カネ、カネ、カネと経済価値を生まないモノはまるで価値が無いような世相のため、それらにリスペクトがない。
 

カネに変えられない価値


 
 ポンポコ製菓は百年企業の老舗である。早くから広告には目をつけて時代の先端広告を行い、広告業界を先導してきた。また、子どもたちの心身共に健やかな成長を創業者が願ってきたので、菓子という事業だけでなく、教育普及にも熱心であった。今で言うCSR事業である。従って広告や広報、CSRの制作物、イベント作品は見る人が見れば貴重な作品が多々あった。それは文化と言えるものであった。
 ところが、創業から代を重ねるごとにその辺りの理解が疎くなってきた。所謂、過去の文化作品など売上に貢献するわけではないからだ。
 トップに造詣の意図が無いと当然部下にも伝播する。投資もしない。結果、過去の広告、広報作品といった(貴重な)社史資料は本社ビルの屋根裏に長らく放置されていた。当然保管状況も劣悪だ。
 
 ある時屋根裏のスプリンクラーが誤作動して、保管していた社史資料が水浸しになった。これだけでも大変な事件なのだが、担当者には事の重要さが理解できていなかった。
 その後、補修、修繕することをプロに依頼することもなく、高温多湿の劣悪な環境に放置したものだから、何とカビだらけになってしまった、文化資産に対する価値観が理解できない。カネを稼がないモノは価値が無いという表れだ。カビだらけになってからようやく担当者も事の重大さに気付き、専門家に修繕を依頼した。当然、非常に手間とコストがかかることになった。
 
 そんな近況だが、実は当社は広告界の重鎮である。大手広告代理店のコンコン広告社やガオガオ堂の中では当社は、銀座に本社のある大手化粧品会社、大阪出身の大手酒造会社と肩を並べる大手クライアント扱いである。一流企業には取扱額ではかなわないが、歴史があるからだ。
 ある時、広告批評家の重鎮に広告の歴史に関する講演を依頼した。当然依頼者である当社に敬意を表して、先の化粧品会社や酒造会社と同等に扱い、紹介してくれた。曰く、名門会社は昔もスゴカッタが今も現役で活躍しているというのだ。化粧品会社は相変わらずCMセンスは抜群、酒造会社は東日本震災の時に励ましキャンペーンを展開して世間を賑わせている。ポンポコ製菓さんも・・・・・・、と言いかけて詰まってしまった。そう、ここ最近講演者の印象に残る当社の広告キャンペーンは無かったのだ。一瞬シーンとした空白が過ぎて、何とか紹介してくれたのが10年以上前に評判になった古いCMだった。なんともバツの悪い瞬間だった。

 そういえば、銀座の大手化粧品会社の社史保管は静岡の自営美術館にあるのだが、その設備は銀行の金庫のようなぶ厚いドアの空調完備施設だ。そこに一つ一つ大切に保管している。当社の屋根裏でスプリンクラーにまみれるような場所とは雲泥の差である。

 カネに変えられない価値、変えられなくても価値があるという対応とは、こういうものだ。

 モノ、カネ一辺倒の文化、美意識オンチでは理解できない。

(ちなみにこの劣悪な社史保管環境改善、広報広告投資の重要性をトップに再三説得したが、なかなか理解されなかった。私が退職後、ようやく重い腰を上げて、昨今保管施設を投資した。実に15年を要した。)
 
 

カネに変えなければいけない価値


 
 一方でカネに変えなければ解らないという価値というモノがある。
 
最たるものは地球環境。昨今、地球温暖化やSDGsで話題の環境問題だ。

そもそも地球とはタフな存在である。資源も豊富だし、その再生能力も廃棄物の浄化能力もすさまじいものがある。しかしその本来持つ「資源の再生速度」と「汚染の浄化速度」の2つのキャパシティを人類の活動がはるかに超えてしまっていることが環境問題の基本原因である。
 
 特に前者の使うほう、創るほうは原価計算だ、コスパだと、一応経済計算をして意識している(それでも消費スピードは恐ろしく、自然破壊はすさまじいが)。
 しかし後者は、量の把握、報告は多いが、経済計算はおよそ疎かだ。何t、何㎥ときいても、多いのか、少ないのか、問題なのか、そうでもないのか、ピンとこない。昨今のように何でもカネで価値判断する社会ならばなおさらだ。
 
 ポンポコ製菓でも毎年CSR報告書でCO2排出量や原材料残渣(所謂生ゴ)等を法令に沿ってキッチリ報告、発表していた。もちろん単位は何t、何㎥という量の報告だ。発表している担当者も聞いている経営陣も法令遵守していれば良いという感覚だったと思う。
 確かに一義的にはそうだが、果たして経営という観点からどうなのか?  
 ある時私は原材料残渣(所謂生ゴミ)をラフに金額換算した。すると20億円となり、低収益であった当時の当期利益に匹敵した。1年間事業をして稼いだ利益を生ゴミで捨てていることとなる。皆シーンッとしてしまった。
 
 それは社会でも同じだ。先日政府の発表でゴミの廃棄が5兆円とあった。数年前の9兆円より減っているそうだ。現在の過剰消費の世相からあまり実感がわかなかったが、それでも減っているのは何よりだ。
 ただ問題は5兆円という規模である。現在の日本の年間GDPの1%に相当する。収入とGDPでは尺度が違うが感覚的にいって、年収の1%とは少なくない。300万円の人なら3万円、1000万円の人なら10万円である。3万、10万円をゴミで捨てていると言ったら無視できないであろう。
 
 環境問題もそれこそ経済計算をしてその逼迫度を共有すれば本気度が変わると思う。
 
 さてこのような「今だけ、カネだけ、自分だけ 直ぐに」の今の世相へのアンチテーゼ、即ち「文化、美意識オンチ」の見直しが生きづらさの解決にどう結びつくのか?

それは長くなったので次回・・・





 

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