【後編】教育とAI:知覚を豊かに、神の啓示を受け入れる
なんかタイトルが怪しい感じになっていますが、、笑
昨日UPした「教育とAI」についての前編に続いて、後編を書いてみます。
前編については以下にて。
では始めてみますー。
制約でもある身体性が勝負所
前回は寿命と身体の制約から、得られる知識の量で人はAIには勝てない、みたいなことを最後に書いていました。
そうなると、人間がどんな力を伸ばしていくのか。色んなところで言われ始めていますが、教育とAIとの関係を考えた際に求められるのは「入力」の部分になるのでは、と感じています。
※入力って何だ?って思った方は前編も読んでいただけたらと。
つまりは外的刺激に対する「知覚」が豊かであることが根本での強みになるのでは、と。
知覚をChatGPTに聞くと以下のような回答となります。
複数の感覚器官を通じて得た情報を高度に組み合わせ、過去の経験や今の状況も加味して意味のある認識や感覚に変換する力、と言えそうです。
この半年ほどのAIの進展の衝撃に対して「どこに人の優位性があるのか」みたいな議論をする機会があったのですが、この「複数の感覚器官の情報を高度に組み合わせ」の部分では、という話になっていました。
身体性を持っていないAIに対し、しばらくの内は代替されない部分になるのだろうな、と。
知覚を豊かにする体験が大事
そうであると、AIとの共生時代に必要なのは知覚を豊かにしていく体験、ということになってきます。
五感(今は五感以外もあるとされていますが)をフルに使う体験を増やし、複雑に絡み合った情報を統合して感じとることを増やしていく。そのプロセスを自己認識し、意識的に高めることも必要になってきそうです。
それは既に言われつつある自然等を通じた体験がより一層重要度が増すということですし、それこそAIとの対話も、感覚器官を使って広範な知識と高回転で接触する貴重な体験の1つなのだと思います。
では知識が不要になるかと言うとそうではないはずです。知覚するには感覚器官からの情報だけでは不足しており、その情報を感じとって定義するためには知識が必要になります。
ある意味では「知覚を豊にしていくために知識が必要」ということとなり、従来の一般感覚(知識を得るための知覚)とは逆転するような構造になってきそうです。
ゼロベースで違和感を感じ取れる力
一方で、知識や経験は偏見を産み出し、目的があるが故に視野が狭くさせることもあります。
有名な研究ですが「このCTスキャンの画像からどこに問題があるか」というのを放射線科医に見せた話。
自分もまんまと「左下の白い丸が病巣なのでは」とド素人の癖に勝手判断をしたのですが、もっとヤバイの=ゴリラが右上にいるのに気づけませんでした。それは被験者となった専門家である放射線科医の83%も同様だったとのこと。
知識と経験をフル活用し、病巣を見つけようとした結果、重大な違和感を見落としてしまう例。これの前段のバスケの動画なんかも有名ですよね。
学問の系統性を重視し、知識や技能を積み上げていく系統学習に対し、問題解決型の経験学習の必要性が訴えられています。
一方で、知識を踏まえ目的をもって問題を解決していくことで、重大な見落とし=知覚できない事象も発生するのだから、なんとも難しい話です。
ただ、経験学習の起点は学習者自身の疑問や発想にあるとも言えるため、その起点部分の体験がより重要になってきそうです。
それは、病巣が白く映るはずという知識や、最終的にパスの数を聞かれるのだろう?という経験を一旦横に置くこと。これまでの知識や経験をできるだけゼロクリアにし、外的刺激による知覚で違和感を感じ取れるような力、とも言えそうです。
BMIの本格化で新たなステージがくる?
本当にゼロクリアにしたら違和感も感じられないし、、、と堂々巡りになりそうです。ちなみにゴリラのCTの話も、子どものほうが発見率が圧倒的に高いらしいので、知識や経験が足かせになるという証明なのかもです。
これからの社会は自分なんかは完全にロートルなのは間違いなく、赤ちゃんこそが最強の時代になるのかもしれません。
知覚できたものは、拙い言葉であっても正確に求める処理がなされる未来がくる、近い将来はブレインマシンインターフェース(BMI)が本格化することで、情報活用能力を超えて、ゼロベースで知覚できる赤ちゃん最強説は現実のものになってくるのかもしれません。
神の啓示として受け取れるかどうか
もう1つ重要になってきそうと感じている要素は、諦観的なので賛同を得られなそうな気もしますが、AIが導いたものを一旦は神の啓示として受け取れるかどうか、でしょうか。
生成AIの回答を批判的に吟味したりするのが重要って、文部科学大臣が会見で言っているそばからそんなこと言うのかって感じですが。
一方で、既にそれでどんどん前に進んでいる業界もあります。
囲碁や将棋では、AIが導いた手を「最善手」として一旦捉え、研究を進めることで劇的な変化が起きているのは皆さんご存知の通り。
Ponanzaがプロ棋士を破り、AlphaGoが世界トップ棋士を破り、AIが最善手を打つという前提で、研究が爆速で進んでいます。
形勢の特徴をある意味で画像的に捉え、過去積み上げてきた膨大な棋譜から勝ち筋となりえる類似を探し出している、というのがざっくり理解。
それは「この一手はこういう意味がある」ではなく「勝ち筋のパターンに類似している」ということなので、上記記事にもある通り「なぜこの手が勝ち筋なのか」の理屈がブラックボックスになっています。
将棋や囲碁のような勝負の決着が明確で、ルールが明文化されているクローズドワールドでは既に人を超えて思考していることが証明されていますが、ここ半年の動きを見ていると、オープンワールドでも同様の事態になりえる(既になりかけている)と感じています。
勿論、今のChatGPTなどの生成型AIはデタラメがめっちゃ多いので、鵜呑みにするのはダメ絶対です。むしろ、批判的思考を養うために使った方が良いぐらい。
一方で、このデタラメ感も加速度的に精度が改善していくのは確実のように思えています。
AIに対し崇高と畏敬の念を持てるのか
プロの棋士たちは、葛藤がありながらもプロとして勝ちに拘り、神の一手を見つけるためにゼロベースにして現実を受け入れて発展させてきています。
当然ながら「一旦は」と書いた通り、その回答に対して論理を後追いで考えることも重要なので、探究そのものは継続する必要があります。
人間には処理しきれない情報量と処理速度で導いたものだと理解し、そこを起点で発展させていくことができるのかどうか。
AIを妄信することの警笛と共に、我々より高次の知識処理であることを認め・受け入れられるか、は重要な要素では、と感じています。
つまり、ブラックボックスのまま「一旦は」受け入れて起点するとなると、生命の神秘や自然の雄大さと同じように、AIに対しても崇高さや畏敬の念を持てるのか、のような話なのかもしれません。
ある意味では、学習指導要領の道徳で記載されている4つの視点のうち、「主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」とも言えるのでは、とも。
学習指導要領の元の筋とは少しズレるかもですが、ある側面では既に人間より高次の存在としてAIを受け入れることで、進める道があるのだと思っています。
生身の先生が肝になるはず
そのうえで教育、特に学校教育はどうなっていくのか。
感覚器官を養い知覚を豊かにするための体験をもっと増やしていくこと。これは既に前回の学習指導要領改訂でも進んできていることですが、もっとドラスティックに加速させる必要があるように感じます。
そのためには、諦めることも選んでいかないといけません。選択と集中をしない限り、今の疲弊が続く学校環境では、こんな話ができるような状態にならないはず。
知覚は十人十色。遺伝や文化の背景、その人の経験によって変わってくるものです。そこに寄り添うためには、それぞれの感覚に合わせた(またはあえて合わせない)学び=個別最適な学びが必要になってくるはずです。
そしてAIを除外して学ぶことも、既にそんな状態ではないように見えます。もう社会の根底を変える存在になりつつあるためです。
でも今の時点では非常に不完全(完全になることは無いかもですが)。
生の体験を充実させ、今のAIを組み合わせて学びを広げ・深めていくとき、それを支え、リスクを回避するには生身の先生こそが肝になってくるはずです。
その意味でも、先生の働き方改革的な動きは、それこそ今までの地続きではなく異次元の施策が必要なはずです。
※個人的には異次元の施策って何だよ、同じ次元の話じゃんと思っていますがw
学校は民主主義実現のための重要な装置
これらを考えていく前提として「そもそも学校は何のためにあるのか」を抑えたうえで、今後を考えないといけないとも感じています。
ちょうど先週、熊本大学の苫野先生がVoicyで「学校は何のためにあるのか?」を公開していました。
AIの登場で求められる力が変容してきている一方で、現代日本での学校、公教育の役割を考えると、民主主義社会の土台をつくるための(ある意味ではいつまでも完成しえない)装置・施策という目的も忘れてはいけないことなのだと思っています。
この目的を前提にし、この劇的な変化に対応していくための教育を考えねば、と。
データとAIによる民主主義の成熟
一方で、まだまだ本当の意味での完成も成熟も程遠いサグラダファミリア的な民主主義社会の成熟も、AIとデータによって部分的には一足飛びで完成に近づくという意見もあります。
今の加速度・指数関数的な進展を見ていると、あながち遠い未来にも思えてきません。
前述したブレインマシンインターフェースの本格化することが、そこに一気に加速する鍵になると、自分には感じています。
人が公器として求めるのは、公正にリソースを分配を行うことなのか、誰一人取り残さないことなの、社会全体を発展させることなのか。
これらは対立するものではなく、相互作用するものなので全てが必要なのだと思いつつ、そうなると全ての市民が民主主義社会の意図・意味を本質と実態で理解することが前提条件になります。そのために「教育」がある、と。
一方で、成立条件の難しさ故に、本当の意味での民主主義社会は到達し得ないものにも感じているのですが、、
そして本質はそれらですらなく「みんなが納得するか」だったりしそうで(そしてこれも対立概念でもない)、記事にある「責任と選択の概念が蒸発する」というのは言い得て妙だな、と思ったりしちゃっています。
この辺にも自分なりの答えを見出さないと、解像度をあげていくことができなそうなので、春休み(は無かったので)もといゴールデンウィークの個人的な宿題です。
ウェルビーイングの道程に自由はあるのか
上記の「無意識データ民主主義は」は「データとAIによる民主主義社会の自動化」とも言えそうです。全ての人の意見をできるだけ正確に把握し、最も最適にリソースを分配する。
それを実現しようとする社会と、社会全体でも教育の政策でも目標として設定されつつある「ウェルビーイング(Well-Being)」と相性が良さそうです。
先月策定された「次期教育振興基本計画」でも、コンセプトでウェルビーイングが採用されています。
ウェルビーイングを求めることで、民主主義社会がデータとAIによる自動化を受け入れた場合、責任と選択の概念が蒸発すると同時に、教育の意味も蒸発しかねないのではないか。
ウェルビーイングが目的(KGI)であるならば、その道程に自由を指標(KPI)として設定しないといけないのでは、と。
そんな違和感も感じており、違和感を感じとることが大事と自分も前述しているので、このこともどこかでまとめて書いてみたいと思います。
おわりに
なんか思うまま書いているので大分遠回りしちゃって長くなってしまいましたが、教育とAIを考えるうえでの源流に戻っている感もあるので、致し方ないと諦めます。ごめんなさい。
こんなこと考えないと、学校教育向けのプロダクトも考えられないし、デジタル庁での公務員としても働けないと思っており、自分でもアホとしか言いようがない気もします。
が、幸いにもデジタル庁の同僚である後藤さんとか、自分の周りにはこの手のことを自分より深く考えている方々がいて、あーだこーだ議論できる環境があるります。なので、誤った解釈もしちゃいながらでも、やっていけている感があります。
そういう体験がとても糧になっていますし、書いていることもほとんど自分の意見というより、議論を自分なりに咀嚼しただけな感じです。
いやー、運も大事っすね。ありがたや。
ただ最後に1点だけ持論を言うと、神の一手に辿り着くのは膨大な情報を駆使した未来のAIではありません。佐為です。
先月書いた以下で「ギャラリーフェイク」を紹介しましたが、「ヒカルの碁」も歴代で好きな漫画トップ10入りしています。なので、例えAIであっても譲れないポイントです。
最後にヒカルの碁のことがかけたので満足したので、今回はこの辺で。
ではまたー。
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