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日本の学校教育でDXが難しい理由?松林図屏風からDXの方向性を考える。

前回の「学習指導要領なんでも回答bot」が想定以上の反響だったので、びっくりしています。

上記のなかでも「次回は学校教育の全体アーキテクチャの解説を」と書いていたのですが、、、
今週、文部科学省から「全国の学校における働き方改革事例集」の改定版が公表されたり、そんな中で坂本良晶先生の「全部ギガでやろう!」が昨日届いて読んだり、学習指導要領なんでも回答botの反響のなかで気になった意見があったり、それらが元々書こうとしていたことに近い面があったりして、、、また横道に逸れちゃおうとしています。なんとも長い言い訳…。

アメリカの丸亀製麺から考える日本でDXが進まない本当の理由

唐突ですが、DXに関する話。1か月ぐらい前、以下の記事が拡散されていました。

この記事に内容を要約するとこんな感じ。

  • アメリカの丸亀製麺では、1杯のうどん作りと会計を12人でやっている

  • 業務を細かく細分化し、各々がシングルタスクとして分業している

  • 理由はマルチタスクできる人材を低賃金で確保できなから

  • 一方で、日本では低賃金でもマルチタスクできる人材が確保可能

  • マルチタスクよりシングルタスクのほうが自動化しやすい

  • さらに、アメリカのほうが賃金水準が高く、人件費抑制意識が高い

  • 結果、アメリカは日本よりDXが推進されやすい

なるほど。必ずしも上記だけでなく、そもそも無駄な業務や法令・慣習の制限に由来するところもあると思いつつ、確かにそうなんだろう、と思面も多々あります。

全ての業務は入力・処理・出力で成り立つ

自分も業務分析するときは、コンピュータの構造に倣って、それぞれの業務を入力(Input)・処理(Processing)・出力(Output)に分解し(コンピュータの場合、正確には記憶と制御もありますが)、どこがボトルネックになっているのかを特定し、そこを改善する(または不要にする)ことから始めます
※この辺は持論なのでどっか別の機会で詳しく書けたらと

業務が細かく細分化・分業されることで、入力→処理→出力の内容が明確になる。そうなると、デジタルで代替したり支援したりするための要件が明確になりやすい。
つまりはDXが起きやすくなるってことですよね。

先生は超絶マルチタスク

翻って、日本の学校はどうなのか。
皆さんご存じの通り、先生は超絶マルチタスクです。自分が講演等で使っているスライドだとこんな感じで書いていたりしています。

このスライドでは「チーム学校」の文脈で話をしていますが、本当はデジタルのアシストで自動化・省力化した方が良いことも多々あります。
そしてコストの観点では、給特法の影響もあって抑制要求が小さくなりがち。
状況としては前述の記事が言うところの「DXが進みにくい状況」にあると言えそうです。

校務事務は確実にDXが有効

それでも、世界一忙しい日本の先生が社会問題になり、徐々にですが(そしてそれがまだまではありますが)先生方の働き方が変わってきているのだと思います。そこに、デジタルも一役買っているのも事実。

冒頭で話をした通り、文部科学省からは全国の学校における働き方改革事例集(令和5年3月改訂版)の改訂版が公表されています。

ここでも数多くの校務事務や保護者関連での業務について、デジタルによる効率化の事例が掲載されています。
かなり基本的な対応のこと、または省くことを躊躇われがちな部分まで、あえて文部科学省として記して公表することで全国に広げたいのだな、というのが伝わてきます。

ちょうど同じタイミングだったのですが、昨日届いた坂本良晶先生の「生産性が爆上がり! さる先生の「全部ギガでやろう!」」にも、具体的なデジタルでの先生業務の在り方を刷新した事例が満載でした。
GIGAの本質を徹底したクラウド活用にあるとし、共同編集・相互参照・相互評価が可能となること、と記されていました。

生産性が爆上がり! さる先生の「全部ギガでやろう!」より

この辺りのデジタルの強みが、まさに先生方の業務を効率化・高度化していくことに繋がってくるのだと思います。
個人的には、具体的な事例がたくさん共有されていることもステキでしたが、最初に坂本竜馬思考・ドラッガー思考・エッセンシャル思考・逆算思考・完了思考、と前提となる考え方が提示されているのがよりステキだな、と感じました。
本質的には、根本にある思考を体得することが最も重要で、血肉になっていれば、事例にない場面でも同様の対応が自身で可能となってくるので。

授業も細分化・定義して自動化する?

では授業についても内容を細分化し、やり方を定義していったほうが良いのか。そうすることで、効率化・自動化にも繋がるのでは、という意見もありそうです。
この話は、特に小学校に対し教育委員会等が展開している「授業スタンダード」に繋がりそうです。導入・展開・まとめの流れや、発問の方法や机間指導の方法論など、チェックリスト的にまとめているものを、各々の教育委員会が「(自治体名)スタンダード」みたいな名称で広げようとしています。
その流れの延長で、極端には授業の内容も、教科・単元・対象のコマでの業務が細分化され規定されていれば、効率化・自動化も可能になってくるのでは、と。
一方で、スタンダードについての功罪は、以下の記事などでも意見されていたりもします。

小学校に広がる謎ルール「スタンダード」とは何か~教員と子どもを縛る教育システム | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス

各自治体のスタンダードもそこまで厳密なものではないので、自分が書いている自動化は飛躍させ過ぎな内容です。
一方で、そういう取り組みとデジタルによる効率化が行き過ぎると、底板を維持するための施策で、壁も天井も分厚くなって学びが横にも上にも広がらない、となりかねないと感じています。
2010年代に韓国で教育の情報化を進め、拡大提示装置とデジタル教材を画一的に普及させていったなかで、教材をページ送りしながら設定された説明をする「クリック先生」が問題視されたことがありましたが(5年ほど前に韓国に行った際に、国の教育機関(KERIS)の人が苦い顔で話をしていました)、まさにそういう話に繋がりかねないな、と。

現場に裁量があることによる意味

ちょうど前回の「学習指導要領なんでも回答Bot」の反響のなかでも

・回答が抽象的で良く分からない
・具体的で明確な答えが返ってこない
・これでは授業に活かすのが難しいのでは

みたいな反響もそれなりにありました。
私は抽象的な内容のほうが自分なりの解釈ができてむしろ活かしやすいと思っちゃうタイプなので「学習指導要領、結構良いこと言ってんな」と感じていた(どの立ち位置の人間だ)のですが、言われてみればそれもそうだな、と思ったりもしていました。

勿論、そこまで事細かに書いていたら、学習指導要領も膨大な分量になってしまうので、それは難しいのでしょう。が、本質は分量による制約ではなく、方向性を示すに留め、余白を残すことで現場=先生方に裁量がある状態にしていくためなのでは、と勝手に解釈しています。
20年以上前の中央教育審議会の答申でも、以下のようなことが書かれています。

子どもの[生きる力]をはぐくみ、一人一人の個性を生かした教育を目指した改革を実現するためには、各学校や各地方公共団体が、それぞれの地域や子どもの実態に応じて、自ら考え創意工夫を凝らし、主体的かつ積極的に施策の充実に取り組んでいかなければならない。
このため、教育行政における国、都道府県及び市町村の役割分担を見直し、学校や地方公共団体の裁量の幅を拡大することが必要であり、行政改革や規制緩和の流れも踏まえ、国や都道府県の市町村や学校に対する関与を必要最小限度のものとするとともに、教育課程の基準の大綱化・弾力化、学級編制や教職員配置の弾力化などの見直しを行うことが必要である。

今後の地方教育行政の在り方について(中央教育審議会 答申)

そうは言っても、中央集権と分権を行ったり来たりしている感もありますが(コロナでちょっと中央集権化されそうな気配もあったり)、近年の大きな流れは分権方向で、現場にいる先生方の裁量が増えていくこと、そして最終的には学習者の選択の幅が増えていくことに向かっていくことなのだと考えています。

デジタルによる効率化・自動化と高度化

デジタルの可能性も、効率化・自動化のデジタライゼーションに留まらず、意味や価値の在り方まで変革するデジタル・トランスフォーメーション(DX)までいくことで、より本質的なものになってくるはずです。

前述した「全部ギガでやろう!」では、子どもに裁量を委ね、デジタルをフルに活用していくことで、創造的で協同的な授業実践が様々紹介されていました。

生産性が爆上がり! さる先生の「全部ギガでやろう!」より

当然ながら、各々の業務のそもそもの意味を問いつつ、デジタルで業務を効率化・自動化していくことは早期かつ確実に行う必要があります。底板を維持するための取組をやっていく必要もあります(ここで短期的にはデータも活かせる)。
一方で、現場に裁量を委ね、子どもたちや先生方の個々の実態に応じて、天井や壁を突破するような高度で多様な学びとなっていくことに、デジタルを活用できるようにしていけたら、と改めて感じています。

ドライになりきれないから松林図屏風

ここまで長文を読んでくださった方は、さっぱり忘れてしまっていると思いますが、今回のタイトルは「日本の学校教育でDXが難しい理由?松林図屏風からDXの方向性を考える。」でした。
なんだよ、松林図屏風って。全然登場してないじゃないか、と。

松林図屏風は、ご存じの通り、安土桃山時代の長谷川等伯作。近世水墨画の最高傑作と言われている国宝です。

東京国立博物館「松林図屏風」

このボヤっとしている(超失礼)水墨画がとても好きなのですが、好きになったキッカケは「ギャラリーフェイク」という漫画です。
松林図屛風の話は、24巻(巻の表題「湿度」もこの話から)に収録。

冒頭のアメリカの丸亀製麺の事例ですが、従業員をドライに1つの機能とみて、業務を細分化・分担する。だからこそ、DXが推進するという話ですが、日本の場合は各々の業務での明確な線引きが曖昧なことも多く、ウェットにマルチにやっている。だからDXが進まない。

ギャラリーフェイクの主人公は、日本人がなぜこのボヤっとしている(超失礼)松林図屏風が大好きなのか、ドライになりきれないのか、について以下のような持論を言っています。

高温多湿の風土に住む日本人にとって、適度の湿度は生きるのに欠くべからざる条件なんだ。これは善悪ではなく、生態学の問題だ。
(中略)
この先100年も200年も経とうと、日本人がドライになることなどきっとあるまいよ!日本列島に湿度がある限り、人々に、等伯の絵が好まれ続ける限り。

ギャラリーフェイク 24巻「湿度」

これを読んだとき、妙に納得してしまった記憶があります。根拠が全くないので、全然信頼性は無いですが笑。

逆張りにこそ勝ち筋があるのかも

今、自分が所属する会社でも、組織内での役割分担が曖昧なところがあります。そこにメンバから不満が出ることも多いです。
一方で、私たちの組織は、会社のなかでも新しい挑戦をする機会がかなり多く、俯瞰してみると、状況に応じて柔軟に曖昧な境界線を相互で越えて協働するケースもあり、曖昧さの弊害よりその利点のほうが勝っているように見えています。

学校なんて、可能性の塊のような子どもたちが相手なので、本来は日々新しい挑戦と創造性が求められてしまう職場なんだと思っています。
それが出来ないほど、追い詰められている職場でもあり、それを解消することは早期かつ確実に行わないといけないですが。

ドライにやれるとDXが進む、はデジタライゼーションの面ではその通りで、でも実はその先の本当の意味でのDXは、ドライなだけでは到達できないのかも、と。
こういうのって逆張りした人が大抵勝つものなので、この辺りにDXでの逆転の道筋があるじゃないかな、と松林図屏風ぐらいのボヤっと感(超失礼)で思っています。

おわりに

今回はテンポ良い内容にしようと思ったにも関わらず、書いているうちに想定よりかなり長くなってしまいました。ごめんなさい。
ちなみにこんなこと書いている自分はウェットなのが好きなのかと思われるかもですが、仕事は結構ドライにやることが好きだったりします。
でも、ドライになり切れないのもその通りで、、、見透かされている。やるな、藤田玲司

今日紹介した文部科学省の「全国の学校における働き方改革事例集」や坂本良晶先生の「全部ギガでやろう!」はおススメですので、是非、ご覧いただけたらと。
※坂本先生、引用を快諾いただき、ありがとうございますー

そしてもちろん「ギャラリーフェイク」も。

漫画読みまくっている自分にとって、ギャラリーフェイクは歴代トップ10に入るぐらい好きな漫画なので、どっかでネタにしたかったのですよね。
以前、会心の一撃としてダイの大冒険ネタを書いたときには「良く分からん漫画ネタやめたほうが良い」という痛恨の一撃をもらったりもしたのですが、こればっかりはやめられないのです。

では次回こそ、学校教育の全体アーキテクチャの解説をやります。
と書いても、何か別のことを思いつくとまた横道逸れちゃいそうですが、、、わずかながらでも期待している人がいると信じて、ちゃんと書いておきたいと思います。

ではまたー

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