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子どもが飛ぶハードルの高さを親が決めない、ということ

夏休み明け感染対策の「警戒レベル」が5に上がり、これまで以上に自治体も学校も対策に力を入れている。そのなかで、ここ2週間は、昼食をとらずに下校という体制になってくる。

共働きなので、正直たいへんさはある。あるけれど、せっかく子どもが家にいる時間が長いのだから、少しでも成長を観察してあげたい、という気持ちもある。仕事への気忙しさと、子どもの遊びへの体力消耗があいまって、なんとかしのいでいる毎日。

そんななか、過ごす時間が長くなると、「あぁこんなこともできるようになってきたんだ!」がたくさん見つかってうれしくなることもある。

たとえば、フラフープ

以前は、10回もたずに続けられなかったけれど、最近はそれが50回にもなり、父に指導をするまでに。「あきらめなければ、できるようになるから」というなんとも頼もしい言葉まで…!幼稚園で友だちに教わってきたらしい。得意げだ。

できるようになってきたことの一つに、「ひらがな」もある。

急に言葉への関心を持ち始めた。たまたま「かるた」あそびのできるカードを買ったら、探す側ではなく、「読み手」の側にまわりたがり、一文字ずつ読むように。ちょうど1年前。同年代の友だちがひらがなが書けると知って、あぁ遅れをとったらかわいそうだな、おしえてあげようかな、などと大人の浅知恵をはたらかせて、ドリルをやらせたこともあった。だが、定着しなかった。興味があまりもたなかった。

そのことを、学校の担任スタッフに話したこともあった。するとこんな返事があった。

「本人がやりたいならば別ですけど、むしろいまは文字になる前の感覚をたのしんでいる時期です。文字が書けなくても、表現の手段はたくさんあるし、文字にならないからこそ、感覚のママにとらえられている。それを大切にしてあげてください」

すこしニュアンスが違うかもしれないけれど、こんなような意味だった。

そこで感じたのは、「文字の習得は、いつかそのうちできるようになるけど、世界を味わう感覚は今だけのものなんだな」ということ。焦る必要はない。本人がやりたいときにやればいいし、先回りはできるだけしないようにしよう。

思えば、軽井沢の自然で子育てがしたいな、と思った理由も、自然のなかでの「つくる」を大切にするいまの学校(幼稚園)に入れたいと思った理由も、親が子どものストッパーにならないように、という一心で決めたことだった。

思いっきり服を汚して、泥遊びをする。それを東京にいるとどうしても「ちょ、ちょ…!」と止めてしまう自分がいた。そんな大人の側のストッパーを外すには、おとな自身が環境を変えて、「何が普通か」の感覚(ライン)を変えていく必要があるのだと思った。

それは、つまり未来ばかりを見すぎて、今目の前の子どもを見れない大人になりたくない、という想いがあったからかもしれない(今振り返るとだけれど)。

なにかに関心をもった子どもの、グッと一歩踏み込む感覚はすごいものがある。そして、できた!の手応えを得た瞬間の電気がほとばしる感じ。傍にいて、それを感じることは、人生の限られた短い期間にかかわれる「子育て」という行為の中での、得難い、もっとも幸福な瞬間の一つだと思う。

子どもの「好奇心」を信頼したい。どんな成長曲線を描くかは本人次第だけれど、とにかくうまれもった、内面が沸き上がる好奇心というものを、摘んでしまわないように、とことん信じれる大人でいたいなぁと思う今日この頃なのです。

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