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戦前の日銀を支配したのはロックフェラーだ⑦

不可解な井上の金解禁政策

井上準之助はなぜこのような無理な政策を採ったのか?

一般的には、井上自身が述べているように、モルガン商会のラモントが要求した日本経済の引き締め、産業基盤の合理化、輸出促進のためのデフレ政策など理由はいろいろある。

吉野の『円とドル』によると、日露戦争時の外債の借り換えがこの時期にあたっており、旧平価によるデフレ政策によって日本経済の合理化をして対外信用を高めるためであるとしている。

また、1930年(昭和5)にはドイツの戦後賠償を調整する目的で国際決済銀行(BIS)がスイスのバーゼルで開業しており、日本のみ金本位制に復帰していなかったのが都合が悪かったことも影響しているという。

吉野はさらに、城山三郎の小説、浜口雄幸(1870〜1931年)と井上準之助を主人公にした『男子の本懐』(新潮文庫)のなかに描かれた、軍事費削減の狙いがあったのだとしている。

当時は英米に協調して軍備の削減をはかる動きがあり、財政を緊縮にして同時に軍縮をはかるというやり方である。

実際に、金解禁直後にはロンドン軍縮会議が開催されており、そのような意図があった可能性が高いと吉野は推論する。

また、金解禁直前に起きた出来事として、あまり指摘されていないが、太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations/IPR)という民間の学者や財界人を中心とした国際会議が京都で開催されていたことも考慮する必要がある。

この会議はウォール街で大暴落があった数日後の10月28日から11月9日まで開催されたが、その日本側代表が井上準之助であったのだ。

井上が金解禁に踏み切るのに、なんらかの影響があったことも考えられる。

当時の朝日新聞では「太平洋会議開かる」と新聞一面トップで大々的に扱われている。

太平洋問題調査会(IPR)、平和活動という名の戦争ビジネス

太平洋問題調査会は各国に支部を持つ民間団体である。

近年の歴史研究により次第にその存在がクローズアップされている機関である。

研究書としては片桐康夫『太平洋問題調査会の研究』(慶應義塾大学出版会)などがある。

同書ではIPRという組織は以下のように説明されている。

1925年、第一次世界大戦の反省とその後の平和の希求から、国際非政府組織(INGOT)として、太平洋問題調査会(Institute of Pacific Relations/IPR)が設立された。第一次世界大戦の新しい潮流をよしとする各国の民間の自由主義的知識人、実業人、YMC関係者等によって組織され、移民問題、生活標準問題、農業、工業化等の問題、中国の不平等条約問題、満洲問題、日中関係、平和機関問題等、外交官による国際連盟における活動では扱いきれない、アジア・太平洋地域に特化した問題について、民間レベルでの研究討論がなされた。新たな世界大戦へ傾斜していく1933年、日本は国際連盟を脱退するが、その後の数年間、IPRは日本の唯一の国際窓口であった。(『太平洋問題調査会の研究』)

このように、民間による中立的な研究・議論するための場が太平洋問題調査会であった。中立性を装ってはいるが、なんの影響力もない民間団体ならば新聞の一面では取り上げられるはずがない。

当時でさえ、この会議の重要性は認識されていたのである。

この機関のために資金を拠出したのはアメリカのロックフェラー財団やカーネギー平和財団といったアメリカの「財界」である。

当時から、アメリカの市場に依存していた日本経済としては、アメリカ政界に大きな影響を与えるビジネス団体の主催する会議ならば当然注目されるわけである。

ここで「民間」という言葉に注意しなければならない。

こうした財団は平和や福祉、研究などの美名をかかげているのだが、実際は財閥の節税機関なのであり、企業利益に奉仕するための機関であると考えなければならない。

だから平和活動といっても、それは表向きであり、将来的なビジネスを念頭において活動していると見なすべきである。

「金解禁」の目的の一つが、城山三郎が述べるような平和目的であったことも事実であろう。

しかし、それはこうした機関からの「要請」によるものであったと理解しなければならない。

ロックフェラー3世人脈

1929年の太平洋問題調査会の京都会議では、ロックフェラー3世自らが来日し、東京大学のアメリカ研究の第一人者・高木八尺、松方正義の息子の松方三郎らと親交を深めている。

松方三郎は、子沢山の松方正義の13男で、長男の松方巌の養子となった。

だから本当は松方正義の息子なのだが、松方家の三代目当主になった人物だ。

『アルプス記』などの著書もある登山家で、満洲鉄道や同盟通信社に勤務した。

ジャーナリストの松本重治は松方三郎の甥にあたる。

松本重治は、同盟通信社の上海支局長を経て戦後は吉田茂のブレーンの一人となった。

「国際文化会館」を主宰し、ロックフェラー3世の日本におけるカウンターパートとなった。

こうした人脈が、戦後の日本においてきわめて重要な役割を果たしていくことになる。

つづく

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【参考文献】『日銀 円の王国』吉田祐二著(学研)

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