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大人は自分が子どもだったことを忘れたのだろうか

痛かった。
久しぶりに痛かった。
何が痛かったのかというと、弁慶の泣き所だ。
階段を勢いよく駆け上がろうとしたら、打ってしまった。
こんなのいつぶりだろうか。
……本当にいつぶりだろう。
それは、記憶もおぼろげな幼い日々のことだった。

子どもの頃は、ちょっとしたことでテンションがあがっていた。
お菓子が好物だったとか、新しいおもちゃを買ったとか。
小さな幸せを握りしめ、二階の部屋へと勢いよく階段を駆けあがっていく次の瞬間、すねに衝撃が走った。
少しだけ時が止まってしまったかのようになり、何も考えられなくなる。
ぶつけた箇所に目をやると、青アザがじわじわと広がっていた。
なんかやばそう。
大きくなる痛みをこらえ、足を引きずりながら階段を最後まであがる。
二階にようやく着き、しばらくするとようやく落ち着いていった。
しばらくはこのアザをかばいながら生活しないとな、と神経質になったことが頭の片隅にかすかに残っている。


アルバイト先に、子連れの家族がよく来る。
その場の流れで話込むことも多い。
不思議なもので、彼らと接しているうちに自分が子どもだった頃を思い出す。
今回の記事もそんなことがきっかけだった。
そのたびに思い出すのは「昔は何に夢中になっていたっけ?」とか「何が好きだったけ?」とかいう単純なものではなかった。

「大人は自分が子どもの頃のことを忘れたのだろうか」

という、子どもの頃の疑問だった。
縁石の上を意味もなく歩いてみたり、庭にどでかい穴を掘ったり。
余計なこと、いらんことかもしれないけどやってみたくなる。
だけど、それを大人は認めようとしない。
「じっとしてなさい!」「あぶない!」と、やることなすこと突っぱねるのだ。
「大人も昔は子どもだったはずなのに、子ども心を分かっていない!」という、ちょっとふてくされた感情だったのかもしれない。
昔の自分を重ねるように、今目の前にいる子をぼんやりと眺めていた。
色々あると思うけど、君も頑張れよ。


大人が”子どもの気持ち”を忘れる瞬間は、突然訪れるものではないと思う。
きっとグラデーションのように、気づいたら分からなくなり、”大人の心”にはなってしまうのだろう。
体が大きくなるにつれて、階段の段の高さにおののくことはなくなる。
人生の中で色んな経験をすると、ワクワクして、すねをぶつけるほど勢いよく駆け上がることもなくなる。
良くも悪くも大人の階段を駆け上がるうちに、”弁慶の泣き所の経験”は段々かすんでいく。
まるで子どもの頃をすっかり忘れてしまったかのように。


経験したからといって覚えているとも限らない。
僕だって忘れてしまったことは山ほどある。
一人で自転車で出かけたときの気持ちや、プロ野球チップスのカードを開ける気持ち。
思い出せないから書けないこともたくさんあるんだろう。
忘れてしまったトキメキをどうしよう。

子どもに教えてもらうしかないか。


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