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一度noteをやめて、もう一度noteをはじめた理由

日常のささいなことを頭の中でふくらませ、人生を包みこむような壮大な話にまで結びつけることが、普段から多くあった。
スマホを家に忘れて大学に行った日には、もはやスマホを持ってなかった頃を思い出してみたり。
高校生当時大嫌いだった生物の授業のことを思い出してみて、当時はいらない知識だと思っていたけど、役に立たない知識なんてこの世にあるんだろうかと物思いにふけってみたり。
そんな日々の繰り返しだった。

ただ、これは世界のどこでも同じだろうけど、周囲にそういうことに共感してくれる仲間は少ない。
僕が考えに考えぬいて達した結論を友達に話しても、「ふーん」とあまり関心を持たれない。
あるいは、「なんやよう分からんわ」と壁を作られるだけだった。
そんな状況は、まだまだ青かった僕にはツラかった。
自分が正しいのかも分からなくなり、自信も失いかけていた。
やっかいなことに、分かってくれない周囲への苛立ちも多少入りこんでしまった。
それによって生み出された、失望にも似た感情は、心を閉じることを選択させた。
友達との日常の関わりは、今まで通り何の問題もなくこなす。
だけど、人生とかを語るような深い話はほとんどしなくなった。
現実世界で共感してくれることを段々期待しなくなったからだ。

ただ、ふと日常のささいな出来事から色んなことを考えてしまう自分がいる。
そんな背景もあり、僕はネットに居場所を求め、学部生の頃noteを始めた。


noteでは、自分が今まで考えてきたことを投稿した。
意外なことに、このコミュニティでは僕の考えはすんなり受け入れられた。
ここには僕みたいに「なんか考えちゃう人」が集まっている。
それは僕にとってすごく心地よかった。
言うなれば、周りには「僕」が大勢いたからだ。

よく人間関係などに悩む学生に向けて「学校だけが世界のすべてじゃないよ」と語られる。
たしかにそうだということを身をもって体感した。
環境が人を作り、人が環境を作る。
環境が変われば、その人も変わる。
僕はその環境を見つけるのに手間がかかっただけなのだ。

この世界に浸って心の充足感を得た。
僕の考えていたことは、案外共感されるし、認められもするからだ。
そして、その自信は、僕をもう一度現実世界へ引き戻した。
最初にしたことは、noteに来る前のことを思い出すことだった。
ずっと誰かから共感されることが少なかった孤独感の反動から、誰かから認められることを求めすぎていたのではないか。
そしてそれが、「自分に共感するかしないか」という価値観でしか相手を判断できないことにつながっていたのではないか。
そうだとしたら、ただの傲慢なように思えてきた。
別に自分だけが特別ではない。
誰だって悩んだり、受け入れてもらえない悔しさに悶えることだってある。
それでもみんな、完ぺきとはいえないまでも、他者との違いを認め合って生きている。

「自分のことを分かってくれる人もいるし、分かってくれない人もいる。だけど、それはしょうがないよな」

そんな割り切りをしているのだろう。

ただ、僕は違った。
「誰にも共感されない考えを持っているから」という原因が僕を困らせていたんじゃない。
「自分に共感してくれる、都合の良い相手と関わりたい」という目的が根底にあった。
別に、周囲が悪い訳ではない。
悲劇のヒロインを演じるのは早すぎる。
だからこそ、僕はnoteをやめた。
いや、noteという巣で育った僕が、空へと羽ばたいていったのだ。
もう一度、現実の関わりの中で、みんなと一緒に生きていく道を見出すために。


noteを離れ、数か月。
やはり現実には色んな人がいる。
もちろん、自分に都合の良い人ばかりではない。
だけど、それがまた楽しくもある。
桜が美しいからといって、世界中すべてが桜だったらどれほど味気ないことだろう。
それと似ている。
人生観とかの深い話を分かち合える友達もいる。
音楽やアニメ、お笑いのことで「ヤバい」「神過ぎる」とか感情にまかせて話をできる友達もいる。
どちらが良いとかじゃなくて、どちらも今の僕を織りなす大切なピースなのだ。
noteの経験を経て、そう思える自分になれたことは、本当に良かった。

そんな僕は、再びnoteに戻ってきた。
なぜ戻ってきたのか。
noteを離れてみて気づいた。
ただ単純に、僕は文章を読むことも書くことも好きなのだ。
他人の文章を読むことで、一人では思い至らないような気づきを与えてくれる。
それに、文章を書くことで、日常の気づきなどから自分のフィルターを通して出てきた考えを整理することができる。
眠らなければ生活の質が下がるように、文章がなければ何か大切なものを失ってしまいそうだ。
タバコを吸ってる友達が「欲求が一つ増えたみたいになるからやめられない」って言ってた。
まあそんな感じだ。
例えが悪い気もするが。

それに周囲との関わりの中で喜びを感じている今の方が、純粋に文章を楽しめている。
周囲の共感が得られず、自信を失いかけていたあの頃は、誰かに認めてもらうために自分を良く見せたい思いもあったからかもしれない。
自分の文章なのに、自分の存在がだんだん希薄になり、画面の向こうの誰かを思い遣るだけの文章になってしまっていたのだ。
それは、誰も傷つけないから優しいようであり、当たり障りがなく、本質をむやみに突かず表面をさらっていくようなものだった。

僕自身、そういう文章は好きだ。
現にそういった文章も書いている。
だけど、その文章の中に自分がいなければ意味がないと思った。
一体誰のための文章を書き、誰のための人生を生きているのか分からなくなってしまうからだ。
人というのは、もっと荒々しくあっていい。
泣きながら笑い出し、うれしいと叫ぶことだってある。
しんみりしたいときもあるし、毒を吐くこともある。
好きな音楽やアニメなどについて感情のままに書きなぐりたいときもある。
それが人であり、僕なのだ。

だからこそ、新しくアカウントを作り直した。
心機一転noteを始めるために、だ。
誰かのためでもあるけど、何よりも自分のためのnoteを書くために。


僕は、自分の考えに対して、周囲の共感が少ないことに不安や不満を感じ、「自分の考えに共感してもらうこと」を目的としてnoteを始めた。
そして、noteの中で、僕の考えに共鳴してくれる人がたくさんいることに救われて、心の充足感を得た。
その経験は、失いかけていた自分の考えに対する自信を取り戻させた。
その自信を片手に、現実世界の関わりの中でみんなと一緒に生きていく道を見出すことを選び、noteをやめた。

僕は現実の中で、人としてもう一度新たな一歩を踏み出した。
相手に対して、自分のことを理解してくれるばかりを望んでいた傲慢な僕を悔やんだ。
やるべきことは一つ。
自分にとって都合の良い関係ばかりにとらわれず、それぞれの友達との関わりの中でしか現れない自分を好きになれればよいのだ。

そんな日々の中で、noteを離れていた僕は再びnoteに戻ってきた。
ただ単純に、文章が好きだからだ。
そして、今度はもっと自分本位の文章を書きたいと思った。
「自分の考えに共感してもらうこと」を目的として、誰かを思い遣った文章を書くだけではない。
誰かのためでもあり、何よりも自分のための文章を書くために。

僕はnoteに巡り会って、もう一度だけ雛に戻った。
そして、もっと空高くまで飛べる術を身につけた。


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