ニューノーマルにおける「移動」と「道」を考える(太田直樹)
太田直樹「未来はつくるもの、という人に勧めたい本」 第6回
『モビリティーズ――移動の社会学』
著:ジョン・アーリ 訳:吉原 直樹、伊藤 嘉高
作品社 2015年発売
"Mobilities" by John Urry
Polity 2007年12月出版
『トレイルズ(「道」と歩くことの哲学)』
著:ロバート・ムーア 訳:岩崎晋也
エイアンドエフ 2018年発売
"On Trails: An Exploration" by Robert Moor
Simon & Schuster 2016年7月出版
Stay Homeが何ヶ月も続いていたり、移動が制約されている人は多いだろう。自分もそうだ。先日、ワーケーションで訪れた奥会津の地で、里山を歩きながら、風や水の流れを感じ、土地の物語を聞く機会があった。五感に受ける刺激が豊かで、その後しばらくの間、思考の質が明らかに変わった。
歩くことは大切だと改めて感じた。そして、新型コロナ感染が長期化する中、都市や地域の設計が根本から変わると思う。
僕は2017年の終わりから、都市集中型の未来に対する代替案をつくる「風の谷を創る」という活動をしている。その中では「道」が大きなテーマの一つになっている。
道については、具体論から抽象論まで、様々なレイヤーで検討をしている。具体論で言えば、道の建設・維持コストがある。人口減少社会において、今の道は必ずしも合理的な解ではない。全ての道がこれだけ高品質かつ高コストで、端的に言えば「硬い」のはなぜか。それは、人と物の移動を効率化するためだ。
また、山間地域における道の維持は、毎年のように「前例のない」風雨に襲われる中で、極めて困難になっている。その一方で、熊野古道など1000年以上維持されている道もある。なぜその知恵が失われたのだろう。そこには林業などの効率化が背景にある。
現代の道のあり方が、これから合理性を失っていき、また、ウィルスがある状況が新常態であるとき、移動や道の意味を、都市や地方やコミュニティで改めて考える必要があるだろう。
アフォーダンスと主客非分離
”インスタ映え”する場所では、なぜか写真を撮ってしまう。
アフォーダンスという、心理学者のJ・J・ギブソンが提唱した概念がある。これは、インスタ映えの例のように、環境が人間を含む動物に「意味」を与えることをいう。
環境は、人間に無数の情報を与えており、人間はその中からある情報をピックアップして、他は無視して行動する能力がある。例えば赤ん坊でも、扉の前にいると取手を引く行動をするが、ロボットあるいは人工知能が、環境の意味情報をトータルに見分けるためには、かなり学習させないと難しい。
アフォーダンスは、デザインの世界を発展させた。第1回の書評で紹介したアレグザンダーの『パタン・ランゲージ』は、アフォーダンスの宝庫とも言える。人が集まったり、団欒したり、リラックスしたり──。そうした環境をつくる知恵がパタン・ランゲージと言ってよい。
また、アフォーダンスは、人間が主体で、環境が客体であるというのではなく、その区分けを超えて相互作用を考察することを可能にした。我々は空間に働きかけて、その形や機能をつくることができるが、空間も我々に働きかけて、能力を与えている。この我々の認識の転回は重要で、様々な先人の思索において、人と建築、人と自然の関係を主客非分離で捉えることにつながっていく。
モバイル化する社会
1980年ごろに、社会の諸関係を人間の行為や関係だけでなく、空間的関係やアフォーダンスで紐解くべきだという「空間論的転回」が起こった。その発展形として、ジョン・アーリは、移動という時空の関係で社会の諸関係を捉えるべきだと提唱した。その集大成が、今回ご紹介する『モビリティーズ』だ。
なぜ移動なのか。
それは、我々の社会が、多面的かつ劇的にモバイル化しているからだ。本書によると、米国民の1日の移動範囲は、1800年には平均50メートルであったが、いまでは50キロメートルになっている。200年で1000倍の変化だ。面積だと100万倍、世界が広がったことになる。しかし、移動範囲が広がった分、多くの時間が移動に費やされているわけではない。米国を含めてどの社会でも、1日の移動時間は1時間程度で推移している。
質的にも大きく変化している。本書の第二部では、徒歩や鉄道、自動車、飛行機などのモビリティーの歴史が、移動論の観点から語られているが、18世紀後半までのヨーロッパでは、外を出歩く者は、浮浪者や荒くれ者とみなされていた。歩くことが私的な楽しみになったのは、後で少し補足するが、近代の都市の発展と大きく関係する。
19世紀になると、鉄道が「公共」という概念を作り出した。それは空間だけでなく、時刻表を通じて「共通の時間」という概念も生み出したのだ。それまでは時間は個人的な概念だった。言い換えると、人によって時間が違ったのだ。
さらに、20世紀の後半から、移動体通信が、社会や経済を大きく変えた。アーリは「中間空間」が生まれたと論ずる。例えば、対面で誰かと会っているときに、遠く離れた他の人とも話すという状況が生まれたということだ。移動体通信によって、中間空間はどこにでも生まれることになる。
第一部は理論の話が中心なので、もし頁をめくる手が止まってしまったら、第二部をパラパラめくってみてほしい。移動論的転回が体験できると思う。
舗装された道と暗い未来
欧州では、18世紀まで都市の道は汚物や糞便を踏まずに歩くことは困難であったという。本書には書かれていないが、ハイヒールや香水はそうした環境への対策であったと聞いたことがある。ちなみに、江戸は当時では世界最高レベルの下水システムを持っており、豊かなアフォーダンスがあった。
欧州では18世紀の半ばから街路の舗装と清掃が進み、街灯も整備され、アフォーダンスが大きく変わった。すなわち、それまでの社会になかった、「周りを見る能力」と「周りから見られる可能性」である。
その中で、現代の徒歩行為を固めた(Concretize)のは、19世紀中頃のパリ大改造だという。かつての中世都市の中心部を取り壊して造られた大通りは「スペクタクルとしての都市」を作り出した。
人々はパリに魅せられた。結果として、大きな変化が起きた。例えば、友人たちや恋人たちが「人前で人目につかず」仲睦ましく居られる場を創り出した。また、かつてない数の馬と歩行者とを素早く動かすシステムができあがった。
このように、18世紀までの人間と今の人間が大きく異なるのは、道に起因するところが大きい。もし、18世紀以前の世界から現代に人が来ると、社会の変化への対応以前に、歩くことすら相当難しいはずだ。
アーリの興味深いところは、アフォーダンスという概念を活用しつつ、モビリティーをつくるのは「システム」であると考える点だ。例えば、都市を歩くときも、信号や標識、歩道と車道、ナビゲーションなど様々なシステムを使いこなしている。
そして、第三部では、我々はこのシステムに「ロックイン」されていると論じる。18世紀の中頃には、物理的な移動システムにロックインされ、そして、20世紀の最後にはデジタルの移動システム、すなわち移動体通信にロックインされたという。我々は便利さと引き換えにファウスト的契約を知らず知らずのうちに結んでいるとアーリは言う。
そして、やや唐突に、最終章「システムと暗い未来」では、地球高熱化に直面して、人類は、(人工知能を含む)システムが人間を支配し、人間に変わって難問に対応する「デジタル・パノプティコン」か、長距離移動と遠距離通信を人間が放棄する「地域軍閥支配」という二つの未来の間を揺れ動くという。映画で言えば、陳腐なたとえかもしれないけれど、『ブレードランナー』か『マッドマックス』のどちらかになる、ということだろうか。
道のシステムは文化の静脈であり、動脈である
アーリの『モビリティーズ』の移動論的転回はとても刺激的なのだけれど、最終章がなんとなくもやもやするのと、自分はそもそも「移動」を実感できていないなあ、と思ったときに出会ったのが、ロバート・ムーアの『トレイルズ(「道」と歩くことの哲学)』だった。今回ご紹介する2冊目だ。
アパラチアン・トレイルという、実に3500キロにわたる自然遊歩道がアメリカ東部にある。3500キロは、なかなか想像が難しいけれど、青森から下関まで、本州を往復してようやく3000キロになる。
本書は、スルー・ハイキングという、1シーズンでアパラチアン・トレイルの全区間を踏破したことをきっかけに、「道」を探究することになった若きジャーナリストのエッセイだ。アパラチアン・トレイルの体験談だけでも十分に魅力的なのだけれど、本書は道(トレイル)をさらに掘り下げていく。
道の歴史は古い。アメリカでは、現在使われている多くの道路は、インディアンが使っていた道をなぞっている。ムーアは、トレイルを様々な情報が土地に集積したものと喝破する。
その探究が素敵だ。著者は、アリがトレイルをつくるしくみから、数百キロの範囲の食べ物や水のありかから死んだ仲間の場所までを記録する象の道や、センサーが優れ、地勢を読み取る天才と言われる象の道を辿って気候変動を生き抜く鹿、そして、5億6千万年前の道の化石から、生物はなぜ安定を捨て未知を目指すのかを思索する。
道は、外的な記憶であり、集合的知性であるとムーアは言う。
本書には書かれていないが、日本には、道について豊かな歴史がある。万葉集には「みち」が使われている歌が154首収められている。興味深いのは「道」や「路」のほかに「美知」という言葉が使われていることだ。我々の祖先は、アフォーダンスを、豊かな言葉で紡いで、記録として残している。
もう一度大地とつながり、未来を創る
モビリティは高度にシステム化され、ファウスト的契約を結んでしまった我々には、暗い未来しかないのかともやもやしていたのだけれど、ムーアの『トレイルズ』は、道を再発明することによって、我々が地球との結びつきを再構築する可能性があることを示唆しているように思う。
歩くことがトレイルをつくる。そして、トレイルは景観を形づくる。そして時間がたつにつれ、風景は共有の知識や象徴的な意味のアーカイブの役割を果たすようになる。(中略)今日、機械の力でわたしたちは桁外れに早く移動することができる。しかしそうすることで、わたしたちは足と大地の基本的な結びつきを失ってしまった。
北アメリカを訪れた最初のヨーロッパ人は森を見て、樹齢や木の素晴らしさだけでなく、下生えがないことに驚愕したという。ヨーロッパでは、野焼きを止めると20年も経たないうちに鬱蒼とした森になる。下生えの多い地域の共同体では、疫病や山火事が多くなる。それに比べて、北アメリカの森は、神が定めた状態だと考えたのだ。
初期の観察者は、東海岸の森が英国の公園に似ていることを記しているが、後の観察力のあるヨーロッパ人は、それが神ではなく、インディアンの入念な管理によるものだと見抜いた。先住民は、トレイルを通して、時間をかけて自然に手を加えていったのだ。
現代に生きる我々も、北米を最初に訪れたヨーロッパ人の驚きを笑うことはできない。いま米国では、先住民のトレイルを保存する活動が行われているが、それを通して、人間の手を加えることが原生自然によって重要であることが示され、文化と環境という、対立すると考えられたものに、トレイルが橋を架けている。
また、先住民のトレイルは快適さよりも速度を大切にしているが、最も効率のいい経路を避けていることがある。先住民のトレイルの研究家との対話から、すべての土地には物語があり、トレイルは物質的世界だけでなく、精神と物語の世界の両方に存在していたことを著者は知る。
先住民の物語は、ヨーロッパの童話のような抽象的な場所で物語が進むことはない。物語には具体的な場所があるのだ。土地に名前がつけられると、それが「記憶用のタグ」となり、一段落から一章まで、大小様々な物語が結びつけられる。
アパッチ族は、場所が人のあとを”ついてくる”とか、”人の生活を正す”土地という言い方をするが、それは決して大げさなことではない。あるとき、アパッチ族の老カウボーイが、小さな声で、場所の名前をつぎつぎと列挙していることに著者は気づいた。老カウボーイはそうして、頭の中であちこちに行き、物語を語っていたのだ。そして、そうした地名を覚えるためには、”歩かなくてはならない”という。
現代の我々がインディアンの暮らしに戻ることは出来ないが、道を再定義・再設計することで、人間と自然の対立に架け橋がかかるだけでなく、豊かなアフォーダンスを取り戻し、我々の行動や能力が変容する可能性があるのではないだろうか。もう一度大地とつながり、未来を創るヒントがこの2冊には詰まっている。
執筆者プロフィール:太田直樹 Naoki Ota
New Stories代表。地方都市を「生きたラボ」として、行政、企業、大学、ソーシャルビジネスが参加し、未来をプロトタイピングすることを企画・運営。 Code for Japan理事やコクリ!プロジェクトディレクターなど、社会イノベーションに関わる。 2015年1月から約3年間、総務大臣補佐官として、国の成長戦略であるSociety5.0の策定に従事。その前は、ボストンコンサルティングでアジアのテクノロジーグループを統括。
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