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物質と観念の境界を越える『教養』の愉しみ(伊藤玲阿奈)

指揮者・伊藤玲阿奈「ニューヨークの書斎から」第5回
“L’ordine del tempo” by Carlo Rovelli 2017年出版
時間は存在しない
著:カルロ・ロヴェッリ 訳:冨永 星
NHK出版 2019年発売

サイエンス(Science)――。この言葉は、日本では「科学(分科の学)」と訳された。その当時、明治黎明期の西洋では、「××学」「○○学」に相当するような専門分野への分科がすでにある程度進んでいたのだろう。第3回(デカルト『方法序説』)でも触れたように、今では専門が細分化され、隣の部屋でやっている研究なんてチンプンカンプンだというのが普通になるほど、文字通りの“科学”となっている。

しかし、近世以前は学問が未分化であった。コペルニクスにしてもニュートンにしても「サイエンティスト(Scientist)」ではなく、「フィロソファー(Philosopher)」(古代ギリシャ語で「知恵を愛する者」の意)と呼ばれたし、本人たちもそう自覚していた。

古来西洋においては学問に従事する者はすべて「フィロソファー」──つまり「哲学者」であり、今の我々が科学的だと想像する実験などの事象一般に「スキエンティア(Scientia)」というラテン語が充てられるようになったのは、近代においてである。ちなみにスキエンティアは、元来「知識」を意味していた。

したがって、近世までのヨーロッパでは専門による境界線が曖昧で、むしろテーマを縦横に論じることが一般的かつ教養人たる証だった。たとえばデカルトの処女作は22歳で著した『音楽提要』、つまり音楽理論書だ。しかし、それだけではない。数学者としては座標を発明、解剖や気象実験までやってのけた。

このような伝統は19世紀初頭のゲーテあたりまで生きており、彼には文学作品だけでなくニュートンの『光学』に対抗した『色彩論』という自然科学の有名な著作がある。ところがその後は学問の分科に次ぐ分科が続いて、彼らのような旧タイプのインテリは育ちにくくなってしまった。

さて、今回はイタリア人物理学者カルロ・ロヴェッリによる『時間は存在しない』(2017年・日本語版2019年)を取り上げる。理論物理学関連では『ホーキング、宇宙を語る』(1988年・日本語版1989年)以来の世界的ベストセラーとなっている著作だ。

読み始めるやいなや、私はこの本に夢中になった。内容に刺激を受けたこともあるが、なによりも古き良き教養の伝統が最良の形で表れていたからだ。科学も文学も哲学も、すべて一つになったかのように思考されてゆく。それは私にとって忘れられない感動となった。

以下、この感動を軸としながら本書を紹介していくが、まずは概要について触れておこう。

時間は、脳の働きによって生み出された“幻”に過ぎない

本書のテーマは時間である。皆さんは時間をどのようなものとして捉えているだろうか。おそらく「時間とは、過去から現在を経て未来へと流れているものだ」という感覚が、日常的に沁みついているのではないか。
ロヴェッリは、このような当たり前に信じていることが実は誤りであることを、これまでの科学の成果に基づいて一つ一つ丁寧に論証していく。「山に住んでいる人は、平地に住む人よりも早く年を取ってしまう(高地の方が時間の流れが速い)」「数光年離れた場所では、今ここでの『現在』に対応する特別な瞬間は存在しない」など、俄かには理解しがたい、しかし科学的に証明されている事例をこれでもかとばかり突きつけるのである。

そして最終的には次のような結論が読者を待っている。

時間は、本質的に記憶と予測でできた脳の持ち主であるわたしたちヒトの、この世界との相互作用の形であり、わたしたちのアイデンティティーの源なのだ。(第12章 本書185ページ)

これが意味するところは衝撃的である。何しろ、時間とはヒトの脳の働きによって生み出された幻の産物に過ぎない、ということなのだから。つまるところ、過去も未来も、いや現在さえも物理学的には存在しないことになる。
ただし、この結論はあくまでもロヴェッリの理論物理学者としての仮説であって、本書の内容すべてが真実というわけではない。それでも、すでに証明された科学理論によって我々の常識を木っ端微塵にしたうえで仮説を展開しているから、読み応えは充分。ここで結論が先に暴露されたからといっても心配無用だ。本作は推理小説ではなく科学の冒険書であって、時間を殺した犯人当てよりも、そこまでの過程がこの上なく面白いからである。「蒙(もう)を啓(ひら)かれる」という言葉がピッタリな、痛快極まりない読書体験を味わえるだろう。

この知的興奮を誘ってやまない独自の展開が、本書が成功した最大の要因である。今から私が述べようとしている感動にしても、この骨組みを抜きにしては在りえなかった。

文学的素養に富んだ「科学の入門書」

ここから、心服させられたロヴェッリの伝統的な教養についての私見を述べたい。

ところで、本書はどの書評においても、「文学」「詩情」、もしくはそれに関連する言葉が賛辞として並んでいるのだが、実際それは読み始めるとすぐに確かめられる。全編にわたって文学作品が頻繁に引用されており、しかも多様性に富んでいるからだ。

各章冒頭に配置されたエピグラフはホラティウスの『歌集』から採られ、他にもソポクレスシェイクスピアリルケプルーストホフマンスタールなど、枚挙にいとまがない。専門家でもここまで自在に古今の文学を引用できる人は限られるのではないか。

しかも感心するのは、その引用が衒学趣味に陥っておらず、読者の理解を助ける役目をきちんと果たしていることだ。その典型例として、ゴルゴーを引用した愉快な場面を紹介しよう。ゴルゴーは、ヘロドトスプルタルコスの作品に登場する古代ギリシャのスパルタ王妃である。

ゴルゴーにはプレイスタルコスという息子がいて、プレイスタルコスの父はスパルタの王にしてテルモピュライの戦いの英雄でもあるレオニダス一世なのだが、レオニダスはじつはゴルゴーの父クレオメネス一世の弟、つまりゴルゴーの叔父だった。では、誰がレオニダスと「同世代」なのか。息子であるプレイスタルコスの母のゴルゴーか、それとも父であるアナクサンドリデスの息子のクレオメネスか。(第3章 本書51ページ)

まったくややこしい問いかけである。(本にはきちんと図解があるのでご心配なく。)しかし、アインシュタインの相対性理論についての説明中に突然これが放り込まれるので、意外性が手伝ってスラスラ読めるうえ、そこはかとないユーモアさえ感じるだろう。

いずれにしても答えはあっさりしている。ゴルゴーとレオニダスは姪と叔父の結婚にあたるから、「同じ世代」という一義的な概念は成り立たない。それが正解だ。系図に書き出すと分かるが、ある人物とレオニダスが同世代であると見なしても、必ず矛盾が生じてしまうからである。

このトリッキーな質問を交えた古典からの引用は、「現在」という瞬間が普遍的に存在しないことを示すためのものだ。すなわち、「結婚や親子関係から一部の順序は判断することが可能でも、関係者すべての順序までは決められない」という比喩を通すことで、「数光年離れた場所の『現在』を地球上の『現在』で計測することは不可能だ」というアインシュタインの理論が、しっかりと読者の腑に落ちるよう意図されているのである。

本来ならごく一部の専門家にしか理解できない数式が頻出するほど難解なテーマを扱っているにもかかわらず、本書は中高生でも読めてしまうくらいの分かり易さを誇っている。出てくる数式はたった1つだけ。それも中学1年生レベルのごく短いものだ。一部の章でやや専門的になるけれども、そこは読み飛ばして支障はないと、著者自身が断っている。

外国の物理学者による一般書籍として有名なのは、前述のホーキングアインシュタインとその弟子による入門書、それに朝永振一郎と共同でノーベル賞の栄誉に輝いたファインマンの諸作であろう。しかし、わけても本書は分かり易さで群を抜いている。

ロヴェッリは科学者である。それゆえ現象から得られるデータを論理的に記述する姿勢が、根底にはある。しかしそれだけでは単なる的確な情報伝達に終始するので、いくら平易に書かれていたとしても退屈なものになるだろう。読者を惹きこんでいくには、審美的な効果、すなわち現象を超えた観念的な世界への想像力を刺激することがどうしても必要で、それを言語の力で試みるのが文学だ。

実際に彼のペンから紡ぎ出される言の葉は、読み手のこころ奥深くに作用して美的な感覚――つまり詩情を湧き起こす。たとえば、ロヴェッリ自身によるこの表現。

始まったものは、必ず終わる。(中略)時間は、この世界の束の間の構造、この世界の出来事のなかの短命な揺らぎでしかないからこそ、わたしたちをわたしたちとして生み出し得る。わたしたちは時でできている。時はわたしたちを存在させ、わたしたちに存在という貴い贈り物を与え、永遠というはかない幻想を作ることを許す。だからこそ、わたしたちのすべての苦悩が生まれる。(第12章 185~186ページ) 

あたかも散文詩の如きではないか。万人向けの解説はホーキングらにも可能だった。しかし、ここまで物質と観念のあいだを揺れ動くことのできた科学者は果たしてどれだけいたことだろう。

しかも、かくも観念的な記述へ傾きながら、それによって物質世界についての理解がより重層的に深まってしまうのだ。なんと逆説的な文筆家としての個性であることか。私も含めて、この本を評した者の多くはここに驚き、魅了されたのである。ともあれ、この敬服に値する個性が本書の傑出した分かり易さに大きく貢献しているのは間違いない。

「役に立つ」だけでは科学は停滞する

このように物質と観念の境界を越えて思考を縦横に展開するロヴェッリ。そこには文系や理系の区別もなく、彼が今では絶滅しかけている古き良き教養人に属していることは皆さんにもお分かり頂けたはずだ。

ただしこれは、彼の圧倒的な天分のみならず、彼自身が意識的に目指した結果でもあることを強調したい。ロヴェッリは次のように、またしても文学的に語る。

科学のもう一つの深い根っこ、おそらくそれは詩だ。詩とは、目に見えるものの向こう側を見通す力のことである。(第2章 29ページ)

つまりロヴェッリは、即物的なアプローチのみでは科学は停滞してしまうことを的確に見抜いているのだ。人類に根本的な変化をもたらす業績は、「目に見えるものの向こう側」すなわち形而上の世界への飛翔を伴ってこそ達成されるということを。

違う例で説明しよう。日本では「実学」という言い方があり、実生活に役に立つ学問を標榜している。それはそれで結構だが、実学ではイノベーションや根本的変化を起こせるとは到底思えない。目の前の現象について「役に立つ」と判断したものを学び続けるという姿勢には、「役に立つ・立たない」と判断するその根拠までを懐疑にかけるような抽象的思考が欠けているからだ。自己の認識能力、もっと砕けて言えば、自らを縛っている常識や思考回路に安住しないと、実学という発想そのものが芽生えない。その意味で、実学は革新には不向きなのである。

そして科学も同様だ。アリストテレス自然学を打破した万有引力のニュートン、それを覆した相対性理論のアインシュタイン――歴史のコマを進めた大科学者は、同時代の同僚たちの目に見えていたパラダイムを遥かに超越している。

ましてやロヴェッリが立ち向かう相手は“時間”という世の中で最も不可思議な対象、人間から切っても切り離せないものであるから、そのパラダイムを跳び越えるには自己言及的な思考を徹底させなければならない。それは高度に哲学的な作業であり、ヒトの認識能力のみならず言語機能までを一から吟味している本書を見れば、その痕跡をいくらでも辿ることができる。(文学に並んで、哲学からの引用や考察にもかなりの比重がある。)

「科学」から分科した諸学がふたたび一体となる

かくして、科学の本かと思いきや、文学や哲学などに分科してしまった諸学がふたたび渾然一体となって思惟されているのが、カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』である。

この本は、天からそのまま降ってきた趣のあるモーツァルトの傑作にたとえられる。天才的な閃きがある作品は概して作為的なところが少なく、自然そのものだ。本書もその類に漏れていないので、いとも軽々と書かれているような錯覚に陥るけれども、それは恐らく間違っている。少なくとも私には、古(いにしえ)のフィロソファーらと肩を並べるべく天賦の才を磨きに磨く、若き探求者の姿が浮かんでならない。やや感傷的だが、そこにも心をつかまれるのだ。

ところで、ベートーヴェンは芸術家としての矜持をもち、自由や兄弟愛などの精神的な事象を鳴り響く音で表現しようとした。対して理論物理学者のロヴェッリは、時間や空間を文字や数式という形で表現する使命を負っている。この二人、何ら変わりない。非物質的な存在を現象化させる点においてまったく同志ではないか。

もし著者にまみえる機会があったとしたら、私は開口一番こう伝えたい。

「ロヴェッリさん、あなたこそ真のアーティストです」、と。


追記:私は2020年11月に初となる著作『「宇宙の音楽」を聴く  指揮者の思考法』を光文社新書より上梓いたしました。拙著と併せてお読み頂くと、本稿もよりおもしろく、理解が深まるかと存じます。ぜひお手に取って頂ければ幸いです。

執筆者プロフィール:伊藤玲阿奈 Reona Ito
指揮者。ニューヨークを拠点に、カーネギーホール、国連協会後援による国際平和コンサート、日本クロアチア国交20周年記念コンサートなど、世界各地で活動。2014年に全米の音楽家を対象にした「アメリカ賞(プロオーケストラ指揮部門)」を日本人として初めて受賞。講演や教育活動も多数。武蔵野学院大学SAF(客員研究員)。2020年11月、光文社新書より初の著作『「宇宙の音楽」を聴く』を上梓。個人のnoteはこちら

※同著を倉田幸信さんが取り上げた記事はこちら!


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