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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(10)

著者 二宮俊博 おわりに  津阪東陽の交友について、「安永・天明期の京都」「文化十一・十二年の江戸」に引き続き、東陽の詩を中心としてこれを探ってきたが、そのなかで注目すべきは、東陽の生地平尾村に隣接する菰野の学問的風土である。「吾薦野ハ百五十年來多クノ学者ヲ出セル郷ナリ」とは、南川金渓の言(『閑散餘録』巻下)であるが、伊藤東涯に学んだ龍崎致斎が種を播き、南川金渓や久保三水が育ち、その薫陶を受けたのが東陽であり或いは平井澹所であったわけである。菰野の知友先輩に対しては、在京

    • 覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(9)

      著者 二宮俊博 附㈢ 女弟子―富岡吟松  女弟子と言えば、清・袁枚(字は子才、号は簡斎。1716~1797)のそれが有名で、『随園女弟子詩選』が刊行されており、我が国では頼山陽の例もよく知られているが、東陽にも彼に師事する女性がいた。それが次に紹介する富岡吟松である。 ※中国における〈女弟子〉についての研究に、合山究『明清時代の女性と文学』(汲古書院、平成18年)の「第五篇 男性詩人と女弟子」がある。  富岡吟松(宝暦12年[1762]~天保2年[1831])  初

      • 覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(8)

        著者 二宮俊博 附㈡ 先人追慕の詩―藤原惺窩・中江藤樹・宇野明霞  東陽は京に遊学して間もない頃に、嵯峨の二尊院にある伊藤仁斎・東涯父子の墓を展じ、「古学・紹述両先生の墓を拝す」と題する五言古詩(『詩鈔』巻一)を詠じている。そのことは「安永・天明の京都」で述べたところであるが、ほかにも在京時代に藤原惺窩・中江藤樹・宇野明霞の墓や祠堂を訪ねた作があるので、それを見ておきたい。  藤原惺窩(永禄4年[1561]~元和5年[1619])  名は粛、字は敏光。惺窩はその号。参

        • 覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(7)

          著者 二宮俊博 画人―十時梅厓・大原雲卿・岡田米山人  岡田米山人(延享元年[1744]~文政3年[1820])  名は国、字は士彦。通称は彦兵衛。安永ごろは大坂で米屋を営み、臼を踏みながら読書に励んだという逸話がある。寛政2年に津藩の大坂蔵屋敷の下役として召し抱えられて以降、藩との関係が生じた。東陽より13歳上。  七絶に「席上、米山人に贈る」詩(『詩鈔』巻九)がある。この詩は米山人が津にやってきたときに詠まれたのであろう。詩の配列からすれば、文化13、4年頃の作。当

        覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(10)

        • 覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(9)

        • 覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(8)

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          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(6)

          著者 二宮俊博 画人―十時梅厓・大原雲卿・岡田米山人  ここに便宜上、画人として一括りにしたが、東陽との関係からすれば梅厓はむしろ儒者として扱うほうがよいし、また雲卿も『国書人名辞典』には「経世家」とするように、たんなる画師という枠には収まりきれない人物である。  十時梅厓(寛延2年[1749]~享和4年[1804])  名は業、字は季長。半蔵はその通称。大坂の人。伊藤東所に学び、天明4年(1784)ごろ趙陶斎の紹介で伊勢長島藩主の増山正賢(号は雪斎)の知遇を得て仕え

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(6)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(5)

          著者 二宮俊博 その他の儒者・志士・詩人―神保蘭室・亀井南冥・広瀬蒙斎/高山彦九郎/梁川星巌  神保蘭室(寛保3年[1743]~文政9年[1826])  名は行簡、字は子廉。通称容助。蘭室と号す。米沢の人。江戸で細井平洲(名は徳民、字は世馨。享保13年[1728]~享和元年[1801])の嚶鳴館に学んだ。藩主上杉治憲(鷹山。寛延4年[1751]~文政5年[1822])が平洲を米沢に招くと、その供をして帰郷。安永5年(1776)藩校興譲館が設立されるとともにその提学となっ

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(5)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(4)

          著者 二宮俊博 尾張の儒者・隠士―恩田仲任・岡田新川・秦滄浪/西河子発  尾張は東陽が15の歳から3年間、村瀬氏に就いて医術を学んだ曾遊の地である。また天明8年(1788)の大火に遭って京での暮らしが立ち行かなくなり一旦帰郷したあと、一時逗留した場所でもあった。その間の東陽の動静や交友関係はよくわからない。ただ東陽の集には、恩田仲任・岡田新川それに秦滄浪といった尾張名古屋の儒者および海西郡鳥地の隠士西河子発の名が見えるので、彼らに贈った詩を挙げておく。  恩田仲任(寛保

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(4)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(3)

          著者 二宮俊博 京洛の儒者―福井小車・猪飼敬所  「安永・天明期の京都」において、東陽と交流のあった儒者については触れておいたが、ほかにも関わりのあった京都在住の人物をここに補っておく。  福井小車(?~寛政12年[1800])  名は軏、字は小車、通称厳助。号は敬斎。衣笠山人とも号した。京都の人。後に兄の後を受けて幕府の医官となった。その兄は福井楓亭(享保10年[1725]~寛政4年[1792])。名を輗、字を大車といい、兄弟の名と字とは『論語』為政篇の「大車に輗無

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(3)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(2)

          著者 二宮俊博 同郷の先輩―久保希卿・橘南谿  橘南谿(宝暦3年[1753]~文化2年[1805])  名は春暉、字は恵風。南谿はその号。伊勢久居の人。明和2年(1765)京に出で医術を学び、天明2年(1782)には九州・四国を、同四年には北陸・奥羽をそれぞれ遊歴。東陽より四歳上。  詩末に「恵風は久居の産。少くして故有って郷を去る」と自注を附した七絶「橘恵風の伏水に客死するを悼む」詩(『詩鈔』巻八)がある。東陽49歳の作。   西望雲山惨落暉  西のかた雲山を望めば

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(2)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(1)

          著者 二宮俊博 はじめに  津阪東陽の、津藩出仕以前の遊学時代すなわち安永・天明期の京都および津藩儒として出府した文化11・12年の江戸での交友については、すでに「覚書:津阪東陽とその交友Ⅰ―安永・天明期の京都―」(以下、「安永・天明期の京都」)ならびに「覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ―文化11・12年の江戸―」(以下、「文化11・12年の江戸」)において、国立国会図書館蔵の写本『東陽先生詩文集』(以下、『東陽先生文集』を『文集』、『東陽先生詩鈔』を『詩鈔』と略記)を繙き、関

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(1)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(9)

          著者 二宮俊博 おわりに  以上、本稿では東陽の江戸滞在期における展墓の作ならびに詩人や文人墨客との交友を示す詩を取り上げてきた。  竹馬の友で桑名藩儒の平井澹所との三十数年ぶりの再会を果たした後、国元の妻が逝去するという不幸に見舞われ喪に服していた関係もあってか、当地での交友は歳が改まってから活発になるのだが、その際、東陽にとって一番の収穫は11歳下の大窪詩仏との出会いであったろう。そして、その詩仏を通して更に新たな人の輪が広がったように思われる。在京時代からその盛名を

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(9)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(8)

          著者 二宮俊博 異土での邂逅―菅茶山・頼杏坪・川合春川・梯箕嶺  菅茶山(延享5年[1748]~文政10年[1827])  名は晋帥、字は礼卿。通称は太沖。茶山は、その号。備後神辺の人。東陽より9歳上。  『福山志料』編纂のため藩侯の命により、文化11年6月5日江戸に入り、翌12年2月末までこの地に滞在していた。茶山にとっては文化元年(1804)以来、十年ぶりの再遊である。詩人として赫々たる名声のあった茶山は東都で歓迎され連日応接に暇がないほど文人墨客と宴遊を重ねていた

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(8)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(7)

          著者 二宮俊博 文人・儒者―大田南畝・亀田鵬斎・朝川善庵  大田南畝(寛延2年[1749]~文政6年[1823])  名は覃、字は子耜。通称は直次郎。南畝は、その号。名・字および号は『詩経』小雅「大田」の「我が覃耜を以て俶て南畝に載とす」から取られている。代々、御徒を務める御家人で、江戸牛込の生まれ。狂詩狂歌の作者として寝惚先生・四方赤良の筆名を用いたが、享和元年(1801)大坂銅座に赴任して以降は蜀山人とも号した。江戸を代表する文人である。市河寛斎とは同甲で、東陽より

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(7)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(6)

          著者 二宮俊博 江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか  菊池五山(明和6年[1769]~嘉永2年[1849])  名は桐孫、字は無絃。五山は、その号。讃岐の人で、代々高松藩士。上京して柴野栗山に学び、その後、江戸に出た。東陽より12歳下。文化四年から『五山堂詩話』を毎年一巻ずつ刊行し、当時、江戸の詩壇のみならず地方在住の詩人から熱い注目を浴びていた。東陽の名はそれに見えないが、彼の詩友、吉田雪坡・幾阪煙崖が取り上げられていることは前述

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(6)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(5)

          著者 二宮俊博 江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか  大窪詩仏(明和4年[1767]~天保8年[1837])  名は行、字は天民。通称、柳太郎。詩仏は、その号。常陸の人。その父は日本橋銀町で小児科医を開業。十代後半に江戸に出て、山本北山(名は信有。宝暦2年[1752]~文化9年[1812])の奚義塾に学ぶととにもに市河寛斎の江湖詩社に加盟した。東陽より10歳下。  詩仏との最初の出会いについて、揖斐高氏の「大窪詩仏年譜稿」には、「9

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(5)

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(4)

          著者 二宮俊博 江戸での交友―江湖詩社の詩人、市河寛斎・柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山ほか 我が江戸今日の詩、河寛斎之を唱し、柏如亭・窪詩仏・池五山之に和す。風流俊采、皆一代の選なり。因って時人之を概称して江戸四家と曰ふ。以て南宋の范・陸・楊・尤の四大家に媲ぶと云ふ。  ここに示したのは、亀田鵬斎が文化十12年(1815)刊の『今四家絶句』に寄せた序文の冒頭部分である。天明7年(1787)、市河寛斎は江湖詩社を開き、柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山らがその門下に集まった。この

          覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(4)