覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(7)
著者 二宮俊博
文人・儒者―大田南畝・亀田鵬斎・朝川善庵
大田南畝(寛延2年[1749]~文政6年[1823])
名は覃、字は子耜。通称は直次郎。南畝は、その号。名・字および号は『詩経』小雅「大田」の「我が覃耜を以て俶て南畝に載とす」から取られている。代々、御徒を務める御家人で、江戸牛込の生まれ。狂詩狂歌の作者として寝惚先生・四方赤良の筆名を用いたが、享和元年(1801)大坂銅座に赴任して以降は蜀山人とも号した。江戸を代表する文人である。市河寛斎とは同甲で、東陽より8歳上。
七絶に「戯れに大田南畝に和す三首」(『詩鈔』巻九)がある。
靡俗淫風世態移 靡俗淫風 世態移り
人家生女喜浮眉 人家 女を生まば喜び眉に浮ぶ
肄歌學舞都如妓 歌を肄ひ舞を学ぶ都て妓の如し
爭向侯門作侍兒 争って侯門に向て侍児と作す
◯靡俗淫風 淫蘼な風俗。◯生女 楊貴妃が玄宗の寵愛を擅にし楊氏一族が隆盛を極め民間では「男を生むも喜ぶ勿れ女にても悲しむ勿れ、君今看よ女の門楣を作す」と歌われたという(『資治通鑑』巻二一五、玄宗天宝五載の条)。白居易も「長恨歌」(『白氏文集』巻十二)に「遂に天下の父母の心をして、男を生むを重んぜず女を生むを重んぜしむ」という。◯侯門 諸侯の門。大身の旗本や大名の屋敷。
其二
梨園扮戲品評揚 梨園の扮戯 品評揚る
最是新年第二塲 最も是れ新年の第二場
燈火比隣樓上女 燈火比隣 楼上の女
春風未曉已成粧 春風未だ暁ならざるに已に粧を成す
◯梨園扮戯 歌舞伎のこと。〈梨園〉は、もとは唐の玄宗が宮中に設置した歌舞練場。白居易の「長恨歌」に「梨園の弟子白髪新たなり」と。〈扮戯〉は、扮装して演じる芝居。◯品評 評判。当時、役者評判記が数多く出版された。◯第二場 二番目名題のことで、世話物狂言を指すのであろうか。◯比隣 隣合ってならぶ。◯楼上女 「古詩十九首」其二(『文選』巻二十九)に「盈盈たる楼上の女、皎皎として牎牖に当たる」と。◯未暁 芝居の興行が明け六つ(午前六時頃)から始まることによる。
其三
風流總見貴游驕 風流総べて見る貴游の驕
注意斯文自寂寥 意を斯文に注ぐは自ら寂寥
棋客茶僧消永日 棋客茶僧 永日を消し
剰邀歌舞夜喧囂 剰へ歌舞を邀へて夜喧囂
◯風流 ここでは藝事をさしていうか。◯貴游 身分の高い旗本や上級武士をいう。◯斯文 儒学。◯寂寥 見る影もないさま。◯消永日 一日暇つぶしをする。晩唐・鄭谷の七絶「永日有懐」詩に「能く永日を消するは是れ摴蒱」と。◯剰 その上、さらに。◯喧囂 やかましく騒ぐ。
こうした歌舞伎に熱を上げ歌舞音曲に明け暮れる江戸の華美な風俗は、東陽のほかの詩にも詠じられており、「江戸雑咏六首」(『詩鈔』巻九)と題する七絶(但し、実際は五首)の二首目には、
豔曲絃歌到處樓 艶曲絃歌 到る処の楼
夙教兒女溺風流 夙に児女をして風流に溺れしむ
劇場尤盪人心盡 劇場 尤も人心を盪し尽くす
百錬剛為繞指柔 百錬剛も指を繞るの柔と為る
◯艶曲絃歌 三味線に合わせて男女間の色恋をうたう歌。◯風流 ここでは色恋をいう。◯百錬剛 ここでは、堅固な心の喩え。西晋・劉琨「重ねて盧諶に贈る」詩(『文選』巻二十五)に「何ぞ意はん百錬剛、化して指に繞るの柔と為らんとは」と。
という。
当時の世相や風潮については、武陽隠士なる人物が文化13年序の『世事見聞録』(岩波文庫に本庄栄治郎校訂・奈良本辰也補訂本を収む)の「歌舞伎芝居の事」において、「すべて武士を始め、世間一統に放蕩なるものは遊芸を好み、遊芸を好むものは極めて放蕩なり(中略)またその日過ぎの者までも、娘を持てば身上限りの遊芸を仕付くる事になり」、「末々町人は、娘さへ持てばまづ遊芸を仕込み、実子なきは養女などいたしてよき娘を拵ふる事を欲し、たとひ困窮人といへども歌浄瑠璃・三味線・踊り狂言・鼓・太鼓・胡弓などの稽古致させ、生ひ育つを遅しと待ちかね、いまだ年の至らざるに、あるいは遊芸者といたし、あるいは囲い者とする事を急ぐなり」云々と、これを詳細に記述している。
東陽が伊賀上野で教授していたときの作、七絶「伊州雑賦、津城の知友に寄す二十首」其十二(『詩鈔』巻八)には、「人家女を養ふに絃歌に工ならざるを以て耻と為す。此れ則ち天下滔滔として、独り伊州のみならざるなり。吁かはしい哉」と自注を附して、
直置閨門具禮難 直置に閨門 礼を具ふること難し
誰家内則更堪觀 誰が家か内則更に観るに堪へん
三絃淫靡鴾兒玩 三絃淫靡にして鴾児玩び
艶曲安教室女彈 艶曲安んぞ室女をして弾かしめんや
◯直置 六朝以来の俗語。釈大典『詩語解』巻上に「直若・直置は只箇の一条他件を須ひざるを言ふなり」とし、「タダニモ」「タダサヘ」「タダニ」の和訓をあてる。◯閨門具礼 家庭内に礼によるけじめがそなわっていること。『古文孝経』閨門章に「子曰く、閨門の内、礼を具ふるかな」と。◯内則 家庭内のきまり。家庭生活の礼法。『礼記』に内則篇がある。◯三絃 三味線。◯鴾児 妓女。明清の俗語(『称異録』巻三十、倡)。釈大典『学語編』巻上、人品類に、この語を挙げ「イウジョ」と左訓。◯室女 嫁入り前のむすめ。
と詠んでいる。
東陽も武陽隠士同様、かかる風俗を決して快く思っていなかったことを窺わせる内容だが、さらに文政6年(1823)自序、同8年刊の『孝経発揮』において広要道章の本文「風を移し俗を易ふるは楽より善きは莫し」(〈風〉に「ナラハシ」、〈俗〉に「シクセ」、〈楽〉に「ウタヒモノ」と左訓)に注して、
蓋し声楽の人を感ずること切なり。其の效、肌に淪し体に浹くして自ら知らざるに至る。所謂黙して風俗を成して潜に人心を移す者、其の理誣ふる可からざるなり。古者民間の俗楽は今の優伶の為す所の如し。故に小民と雖も、以て風動感化す可くして風俗之が為に移り易るなり。窃に慨く近世歌舞する所は尤も鄙褻に禁へず、綺艶媚惑の辞を以て淫流盪の行ひを叙し、淫絃嘈雑之を駕して以て行ふ、皆婬を誨へ邪を誘ふ、毒を流し禍を胎するに非ざるは莫し。其の人心を盪し士気を傷るの甚しきこと、百錬の剛をして繞指の柔と為さしめ、風俗の壊る、勝て嘆ず可けんや。然りと雖も其の行はること既に久し。未だ以て驟に停む可けんや。若し其の淫声の甚しき者を去って専ら孝悌忠義節烈の事を取って、以て士気を振るひ以て民俗を厲まさば、則ち今の楽、猶ほ古の楽のごとく、其の世道を鼓吹するに於いて、未だ必ずしも一助為らずんばあらざるなり。
◯淪肌浹体 清朝の朱子学者、李光地の「楽を聞き徳を知る論」(『榕村全集』巻十五)に「言ふこころは其れ性情に本づき、変化に流れ、其の效、肌に淪し体に浹くして自ら知らざるに至る」と。〈淪〉は、じわじわ染み込む。◯所謂…… 前掲「楽を聞き徳を知る論」に「所謂黙して風俗を成し而して潜に人心を移す者、其の理誣ふる可からざるなり」と。◯優伶 歌舞伎役者。◯鄙褻 下品で猥褻。◯淫佚 男女間のみだらな交際。◯流盪 落ちぶれさまようこと。畳韻語。◯淫絃 ここでは、煽情的な三味線の音色。◯嘈雑 騒々しくうるさい。『抱朴子』外篇・刺驕篇に「或いは曲晏[宴]密集し、管絃嘈雑す」と。◯百錬剛 前掲、「江戸雑咏六首」其二の語釈参照。◯鼓吹 勢い付け、奮い立たせる。
と述べ、長編叙事詩「孔雀東南飛行」(別名「焦仲卿の妻の為に作る」)および「木蘭の辞」に漢文による注解を施した『古詩大観』(文政12年[1829]刊)に附した「追書古詩大観後」において、
夫れ男女の情、恩義の聚まる所、礼を以て之を節せずんば、性命を誤るに至る。近世流俗日に汚れ、淫風大いに煽り、人家の子女、口尚ほ乳臭、情竇已に開き、踰墻鑽穴、動もすれば辱を所生に貽す。乃ち非耦を以て事諧はず、進退維れ谷まらば、雉経双斃、自ら以て節と為す。蓋し沈魄浮魂、重ねて後身の縁を結ぶと云ふ。愚惑いて恥無く、醜も亦た甚だし矣。好事の閑漢、其の事を収拾し、歌曲を捏造す。艶語麗詞、巧みに人耳を悦ばしめ、冥果を粉飾し、愚俗を簧鼓し、紛紛木に災ひし、毒を里巷に流す。聞く者甘心す焉。是に於いて梨園の徒、遂に専ら淫戯を演じ、以て時好に投ず。風俗の頽、豈に慨嘆せざる可けんや。
◯性命 天から授かったもちまえ(『易経』乾卦・彖伝)。◯流俗 世間のならわし。『孟子』尽心下。◯口尚乳臭 まだほんの子供。無知で世間知らず。もとは『漢書』高祖紀に見える。『故事成語考』身体に「口尚乳臭、世人年少の知無きを謂ふ」と。◯情竇已開 すっかり情欲がきざす。色気づく。◯踰墻鑽穴 かきねを乗り越え、壁に穴をあける。男女が人目を忍んで逢引すること。『孟子』滕文公下に「丈夫生まれては之が為に室(つま)有るを願ひ、女子生まれては之が為に家(おっと)有るを願ふ。父母の心、人皆之有り。父母の命、媒妁の言を待たず、穴隙を鑽りて相窺ひ、牆を踰えて相従はば、則ち父母国人皆之を賤しまん」と。◯所生 父母をいう。◯非耦 夫婦ではないこと。もとは、婚姻の釣り合わぬことをいう(『左氏伝』桓公六年)。ちなみに『書言故事』巻一、婚姻類に「婚を成すを辞するを敢て非耦を辞すと曰ふ」と。◯進退維谷 にっちもさっちもいかなくなる。『詩経』大雅「桑柔」に見える語。◯雉経双斃 首を括って心中する。◯沈魄浮魂 死後をいう。人は死ぬと、〈魂〉は肉体を離れ天に上り、〈魄〉は屍とともに地に帰すとされた。◯結後身縁 生まれ変わって来世で夫婦の縁をむすぶ。白居易の七絶「微之の十七のとき君と別る、及び朧月花枝の詠に和す」(『白氏文集』巻五十八)に「恐らくは君更に後身の縁を結ばん」と。◯冥果 あの世での果報。◯簧鼓 言葉巧みに惑わす。『書言故事』巻六、讒侫類に簧鼓の条あり、「妄言衆を惑はす者を指して簧鼓と為す」とした上で、『荘子』駢拇篇に「天下の耳目を簧鼓す」というのを引く。◯紛紛 雑多なさま。◯災木 有害無益な書物を刊行する。災梨。〈木〉は、版木。◯甘心 満足する。あるいは、あこがれる。◯梨園徒 歌舞伎役者。
ということからも窺えよう。
そもそも、かかる追書をしているのは、父親に代わって男装して戦に出た木蘭が手柄を立てて無事に郷里に戻ってくるという「木蘭の辞」については問題がないものの、「孔雀東南飛行」と言えば、その序に「漢末、建安中、廬江の小吏焦仲卿が妻の劉氏、仲卿が母の遣る所と為り、自ら誓って嫁せず。其の家、之を逼る。乃ち水に没して死す。仲卿之を聞き、亦た庭樹に自縊す。時人之を傷み、此の辞を作るなり」というように、婚家の姑から憎まれ無理やり離縁させられ実家から再婚を迫られた元夫婦が暗に示し合わせて互いに自死するといった内容であることから、それを配慮しての措辞でもあるわけだが、ここに述べられているのは江戸での体験によって生まれたものではなくとも、より強められた認識であろう。だからといって、東陽自身が歌舞音曲や芝居そのものを敵視したり否定したりしているわけではなかった。伊賀上野での作、七絶「扮戯を観る」詩(『詩鈔』巻八)には我が子と一緒に歌舞伎を観て「世態人情無限の事、老涙拭いて還た催すを禁ぜず」と詠んでいる。
それはともかく、東陽が江戸の風俗を詠じた作を南畝に示したのは、おそらく南畝の原作がそうした内容であったのに酬答したことにもよるだろうけれども、もとより南畝を雅俗に通じ江戸文化を体現している代表とみなしていたことが大きかったのであるまいか。そして詩題にわざわざ「戯れに」と加えて冗談めかし、非難がましい口吻に受け取られないよう配慮したのであろう。
ところで、南畝の『杏園詩集』巻五(『大田南畝全集』第五巻所収)に「洞津の津坂達拙脩、都下の諸賢を邀へ、百川楼に宴す。時に歴代絶句類選刻新たに成る」と題する七絶が二首ある。
瀬與洞津々與瀬 勢と洞津と 津と勢と
互為唇齒以財雄 互ひに唇歯と為って財を以て雄なり
書窓別有陳詩者 書窓別に詩を陳ぬる者有り
唐宋元明清國風 唐宋元明清国の風
◯勢 伊勢。◯洞津 津のこと。◯唇歯 互いに持ちつ持たれつの密接な関係。『左氏伝』僖公五年に「諺に輔車相依り、唇亡びて歯寒しと謂ふ所の者は、其れ虞・虢の謂なり」と。◯陳詩 もとは地方の歌謡を採取して民の風俗を観察する意。『礼記』儒行篇に「大師に命じて詩を陳ね、以て民風を観る」とあり、鄭玄の注に「詩を陳ぬとは、其の詩を采りて之を視る」と。
又
送春詩酒會名流 春を送って詩酒 名流を会す
新著編成任客求 新著編成って客の求むるに任す
欲讀子雲千首賦 子雲千首の賦を読まんと欲すれば
須登東海百川樓 須らく東海の百川楼に登るべし
◯送春 白居易に「三月三十日、春帰り日復た暮れる」と始まる「春を送る」詩(『白氏文集』巻十)がある。◯子雲云々 東陽の「歴代絶句類選序」(『文集』巻一)に「昔桓君山、賦を楊子雲に学ぶ、子雲、千首の賦を誦せしむ」と。〈桓君山〉は後漢・桓譚(字は君山)、〈楊子雲〉は前漢・揚雄(字は子雲)のこと。桓譚『新論』(『意林』巻三所引)に「楊子雲賦に工なり。〈中略〉子雲曰く、能く千首を読まば則ち賦を善くす」と。また『西京雑記』に「或ひと楊雄に賦を為ることを問ふ、雄曰く千首の賦を読まば乃ち能く之を為さん」と。
其一の起句と承句は俗謡の歌詞「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」をふまえた表現。
この詩は、東陽の子、拙脩が唐宋元明清の七絶を主題別に選んだ『歴代絶句類選』の出版記念の祝宴を日本橋浮世小路の料亭百川で開いたというもので、其二の「送春」の語を文字通りに解釈すれば、文化12年3月晦日の作となる。南畝の「収得書誌」(『全集』巻十九)には丙子〈文化12年〉の条に『今四家絶句』二巻とならんで『歴代絶句類選』二巻が見える(ちなみに『大阪天満宮御文庫国書分類目録』に文化11年刊本[稽古精舎蔵版]を記載するが、未見)。これは全部で21巻になる『(歴代)絶句類選』のうち最初の2巻を開版したものであろうか。全巻が上梓されるのは、文政7年(1824)のことである。
津坂治男氏によれば、拙脩は天保8年(1837)に50餘歳で卒したというから、この時、齢30は越えていたと思われる。この宴は、かねて我が子拙脩の協力のもと歴代絶句の選集編纂を進めていた東陽が、江戸出府を絶好の機会とみて、とりあえず最初の二巻を急遽開版し、拙脩を江戸の詩人や文人墨客に披露紹介する意図を込めて催したものではなかったかと愚考するのだが、如何であろう。
※大田南畝の評伝については、濱田儀一郎『人物叢書 大田南畝』(吉川弘文館、昭和39年。新装版は昭和61年)、沓掛良彦『ミネルヴァ日本評伝選 大田南畝』(ミネルヴァ書房、平成19年)参照。濱田儀一郎・中野三敏・日野龍夫・揖斐高編による『大田南畝全集』(岩波書店、昭和61~平成2年)がある。
亀田鵬斎(宝暦2年[1752]~文政九年[1826])
名は翼、後に長興、字は穉龍。通称は文左衛門。鵬斎は、その号。江戸の人で、父は日本橋にある鼈甲商の番頭。井上金峨(享保17年[1732]~天明4年[1784])に学んだ。同年の山本北山とは同学。東陽より5歳上。寛政異学の禁に反対し、生涯、市井の儒者として、その立場を貫いた。
下谷金杉中村に鵬斎の寓居を訪ねた詩がある。五絶「夜、鵬斎丈人を訪ぬ」詩(『詩鈔』巻六)がそれで、文化12年の作。
叡麓斜北𢌞、林巷自風致 叡麓 斜北𢌞り、林巷自ら風致あり
燈影漏竹房、幽人寐不寐 燈影 竹房より漏る、幽人寐ぬるや寐ね
ずや
◯叡麓 東叡山上野寛永寺のふもと。◯林巷 中唐・銭起の五古「小園招隠」詩に「斑衣林巷に在り、始めて覚ゆ羈束無きを」と。◯風致 おもむき。◯竹房 竹林にある房室。あるいは竹で作った家。初唐・宋之問の五古「法華寺に游ぶ」詩に「竹房閑にして且つ清し」と。◯幽人 隠士。『易経』履卦に「道を履む坦坦たり、幽人貞にして吉」と。
〈丈人〉とは、老人に対する敬称。東陽が江戸で出会った自分より年長の人物のうち、鵬斎に対してのみこの語を用いていること、また鵬斎の「儒侠」(後出の菅茶山が鵬斎との奇遇を詠じて神辺の廉塾に留守居する北条霞亭に報じた「余、亀田鵬斎と未だ始めは相識らず……」詩に「儒侠の名は旧く耳に在り」とある)としての一面ではなく、孤高の隠者風にこれを詠じているのが、興味深く思われる。
※亀田鵬斎については、鈴木英治『亀田鵬斎』(近世風俗研究会、昭和53年。後に三樹書房より昭和60年に再刊)、同じく『亀田鵬斎詩文書画集』(三樹書房、昭和57年)、『亀田鵬斎の世界』(三樹書房、昭和60年)、倉田信靖・橋本栄治『叢書・日本の思想家㉕井上金峨・亀田鵬斎』(明徳出版社、昭和59年)、渥美國泰『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』(藝術出版社、平成7年)、徳田武注『江戸漢詩選Ⅰ文人』(岩波書店、平成8年)参照。なお、徳田氏の『江戸詩人伝』(ぺりかん社、昭和61年)には論考「亀田鵬斎」を収める。
朝川善庵(天明元年[1781]~嘉永2年[1849])
名は鼎。字は五鼎。善庵は、その号。江戸の人。実父は片山兼山。兼山亡き後、母が朝川黙斎に再嫁し、黙斎に養われた。東陽より24歳下。15歳上の大窪詩仏とは山本北山の奚疑塾に学んだ同門で、詩仏の『西游詩草』に序を寄せている。
七絶に「朝川五鼎に別る」詩(『詩鈔』巻九)がある。文化12年の作。
相逢雖則自今春 相逢ふは今春自りすと雖則も
意氣相投似故人 意気相投ずること故人に似たり
遠信月三憑邸便 遠信 月に三たび邸便に憑る
斯文講究是比隣 斯文講究是れ比隣
◯故人 旧友。◯邸便 江戸の藩邸からの定期便。◯斯文 儒学。◯比隣 隣同士。
これをみると、善庵とは一度ならず顔を合わせたようで、すっかり意気投合したらしい。
当時、善庵はすでに『古文孝経定本』(文化6年[1809]刊)および『古文孝経私記』(文化8年刊)の著があり、同じ『孝経』でも今文を善しとする東陽とは見解を異にするものの、経義を講究するのに相応しい相手と認めたのであろう。善庵は文政元年(1818)10月、津藩の江戸藩邸に召し出されたが、これは東陽の藩主藤堂高兌への推挙によるという。
※朝川善庵については、佐藤一斎に「朝川善庵墓碑銘」(『事実文編』巻六十一)がある。森銑三「朝川善庵」(『森銑三著作集第八巻 人物篇』中央公論社、昭和46年)も参照。
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