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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(2)

著者 二宮俊博

同郷の先輩―久保希卿・橘南谿

 橘南谿(宝暦3年[1753]~文化2年[1805])

 名は春暉はるあきら、字は恵風。南谿はその号。伊勢久居の人。明和2年(1765)京に出で医術を学び、天明2年(1782)には九州・四国を、同四年には北陸・奥羽をそれぞれ遊歴。東陽より四歳上。
 詩末に「恵風は久居の産。わかくしてゆゑ有って郷を去る」と自注を附した七絶「橘恵風の伏水に客死するを悼む」詩(『詩鈔』巻八)がある。東陽49歳の作。

  西望雲山惨落暉  西のかた雲山を望めば落暉惨たり
  蜀魄聲悲泪濕衣  蜀魄声悲しくなみだ 衣を湿らす
  春風芳草萋萋色  春風芳草 萋萋せいせいたる色
  竟使王孫去不歸  つひに王孫をして去りて帰らしめず
◯落暉 落日の光。◯蜀魄 ホトトギス。蜀の望帝が死後この鳥に化身したという。◯芳草 香草。◯萋萋 草木の盛んに茂るさま。◯王孫 貴公子。前漢・劉安「招隠士」(『楚辞』巻十二、『文選』巻三十三)に「王孫遊びて帰らず、春草生じて萋萋たり」と。

 津坂治男氏の『津坂東陽伝』によれば、恵風との交りは、「在京後期、東陽が一家を成した後」に始まったらしい。天明期の後半である。いずれも七絶で「和して橘恵風に答ふ」、「橘恵風琴を携へて過らる」、「伏水の梅仙翁に寄す」(『詩鈔』巻七)の各詩がある。「和して橘恵風に答ふ」詩には、

  春風江上發梅花  春風江上 梅花発す
  乗興扁舟路不賖  興に乗じて扁舟 路はるかならず
  宴賞相期月明夕  宴賞相期す月明の夕べ
  梦魂先自到君家  夢魂に君が家に到る
◯乗興 東晋の王子猷(名は徽之)が山陰(紹興)にいたとき月明りに照らされた雪景色を見て、剡渓せんけいにいる友人の戴安道(名は)を思い出し、直ちに小舟に乗って彼のもとを訪ねたが、門前に到って会わずに引き返した。人からその理由を問われて「興に乗じて来たり興尽きてかへる」と答えたという(『世説新語』任誕篇)。『書言故事』巻四、送行類に、この語を挙げ「往く所有るを興に乗ずと云ふ」として、王子猷の故事を引く。◯扁舟 小舟。宋・恵洪の七律「誼叟の北に帰るを送る」詩(『石門文字禅』巻十二)に「扁舟興に乗じて一たび相尋ねん、燈青竹屋風雨の夕」と。◯賖 東陽の『夜航詩話』巻五に「賖は又た遥と訓ず。然れども但だ遠きをふに非ず。(中略)隔てて及ばざるを言ふなり」と。◯夢魂 前掲、「菰野の諸子、西山の鳳蹟楼に邀宴す」詩〈別魂〉の語釈参照。

 「橘恵風琴を携へてよぎらる」詩には、

  庭院夜深風露清  庭院夜けて風露清し
  有時烏鵲繞枝鳴  時有りて烏鵲枝をめぐりて鳴く
  琴徽照徹松窓月  琴徽照徹す松窓の月
  彈盡高山流水情  弾き尽す高山流水の情
◯庭院 中庭。◯風露清 中唐・白居易の七律「夏夜宿直」詩(『白氏文集』巻十九)に「人まれにして庭宇むなしく、夜涼しくして風露清し」と。◯烏鵲 カササギ。三国魏・曹操「短歌行」に「月明らかにして星稀に、烏鵲南に飛ぶ。樹をめぐること三さふ、枝の依る可き無し」と。◯琴徽 ことじ。琴柱。ここでは、この二字で琴をいう。◯松窓 松に臨む窓。◯高山流水 伯牙は琴を善くしたが、高山をイメージして奏でると、親友の鍾子期が「峨峨として泰山のごとし」といい、流水だと「洋洋として江河のごとし」といって讃えたという(『列子』湯問篇)。

「伏水の梅仙翁に寄す」詩には、

  湖雲鶴唳夕陽斜  湖雲鶴唳 夕陽斜なり
  仙興孤山處士家  仙興孤山 処士の家
  一番東風解凍雨  一番東風 解凍の雨
  半篙春水訪梅花  半篙はんかうの春水 梅花を訪ぬ
◯湖雲 伏見の西方、ぐら池に浮かぶ雲を言うのであろう。◯鶴唳 鶴の鳴き声。◯仙興 仙界の興趣。◯孤山 杭州の西湖にあり、北宋・林逋(和靖)が隠棲した地。ここで林逋は梅を植え鶴を飼って楽しんだという。◯処士 仕官せずにいる士。◯解凍 氷をとかす。『礼記』月令に「(孟春の月)東風こほりを解く」と。◯半篙 棹の半分(の水かさ)。金・李節の七律「漁父」詩(『中州集』巻七)に「半篙の春水世塵遠く、一笛の晚風山雨晴る」と。

と、それぞれ詠じられている。
 ちなみに、龍草盧(名は公美、字は君玉、通称彦二郎。正徳4年[1714]~寛政4年[1792])の七絶「ヤマシロフシ十二境詩」(享和元年[1801]刊『草盧集七編』巻三)の其三に「亀谿ヲゝカメタニ梅香」の自注に「伏見山の北に梅樹多し」とあることからすれば、南谿の居もその辺りにあったのであろうか。もっとも、南谿は伏見での住まいを何度か変えており、寛政年間、伊賀上野での作、五絶の「寄せて橘恵風の伏水に卜居するを賀す二首」(『詩鈔』巻六)には、次のように詠じられていて、町中に居住したことが窺える。

  形勝古名邑、通津占自由  形勝 いにしへの名邑、通津 自由を占む
  門前京洛道、屋後浪華舟  門前 京洛の道、屋後 浪華の舟
◯名邑 名だたる街。◯通津 四方に通じる渡し場。◯京洛道 竹田街道。◯浪華舟 いわゆる三十石舟の発着場。

   其二
  銷夏滄浪水、静窓蘋末風  銷夏 滄浪の水、静窓 蘋末の風
  浦頭凉月色、天地玉壺中  浦頭 月色涼しく、天地 玉壺の中
◯銷夏 夏の暑さをしのぐ。◯滄浪水 青々とした川をいう。戦国楚・屈原の作とされる「漁父の辞」(『文選』巻三十三、『古文真宝』後集巻一)に「滄浪の水まば、以て吾が纓をあらふ可し」とあり、隠者と縁の深い語でもある。◯蘋末風 蘋(みずくさ)にそよぐ風。中唐・劉禹錫「楚望の賦」に「蘋末風起り文有りて声無し」と。◯浦頭 水岸。◯玉壺中 晩唐・鮑溶の五古「峨眉山の道士と期して尽日至らず」詩に「玉壺天地を貯へ、歳月亦た已に長し」と。

 その後、南谿は伊賀上野に東陽を訪ね泊まったこともあった。寛政6年(1794)の作とおぼしき七律に「橘恵風まさに駕を命ぜんとするを聞き、げうへず、因って此の寄有り」と題する詩(『詩鈔』巻五)がある。その年の三月、津藩の重役で文雅の嗜みが深く聴雨と号した俳人でもあった岡本景淵(字は士龍、号は聾山、通称五郎左衛門。寛延2年[1749]~文化11年[1814])に招かれたおり、その帰途に寄ったのであろうか。その当否はともかく、この詩は南谿が訪ねてくると知って、待ちきれずに寄せた作である。〈翹俟〉は、今か今かと爪先立って待ち望む意。

  良朋將自遠方來  良朋まさに遠方り来らんとし
  入夢跫音興已催  夢に入る跫音 興すでに催す
  病榻未曽縁客起  びゃうたふ未だかつて客にって起きざるも
  愁襟方是待君開  愁襟まさに是れ君を待って開く
  閑中富貴書千巻  閑中の富貴 書千巻
  身後功名酒一盃  身後の功名 酒一盃
  預要款留能幾日  あらかじめ要す款留く幾日ぞ
  離情話盡十年哀  離情かたり尽さん十年の哀しみ
◯良朋 好き友(『詩経』小雅「常棣」)。◯自遠方來 『論語』学而篇に「朋有り遠方り来る、亦た楽しからずや」と。◯跫音 足音。◯病榻 病床。〈榻〉は、長椅子・ベッドの類。北宋・文同の五律「憂居」詩(『丹淵集』巻五)に「蔬盤客の至るに羞ぢ、病榻人の語るを厭ふ」と。◯愁襟 愁懐。◯閑中富貴 南宋・方岳の七律「人日」二首其一(『秋崖集』巻八)に「閑中の富貴は陽和の月」と。◯身後功名 李白の雑古「笑歌行」に「君は愛す身後の名、我は愛す眼前の酒。酒を飲み眼前に楽しむ、虚名何れの処にか有らん」と。◯款留 客をもてなし家にとどめること。◯離情 別離の情。

「何日くらいこちらに御滞在いただけますか、この十年積もり積もった思いを語り尽したく存じます」。〈十年〉とは概数でもとより実数ではないものの、長らく面晤歓談の機会なく、南谿の訪問を心待ちにしていた東陽は彼がやってくると早速、七律「恵風至る。筆を走らせて喜びを紀す」詩を詠じた。

  舊好歡迎遠客尋  旧好歓迎す遠客の尋ぬるを
  年來別恨豁幽襟  年来の別恨 幽襟をひら
  文才卓犖陵雲氣  文才卓犖たくらくたり陵雲の気
  仁術殷勤濟世心  仁術殷勤たり済世の心
  明月清風堪勸酒  明月清風 酒を勧むるに堪へ
  高山流水入鳴琴  高山流水 琴を鳴らすに入る
  四方遊盡男兒志  四方遊尽するは男児の志
  勝話相忘夜漏深  勝話相忘る夜漏の深きを
◯旧好 古なじみ。◯幽襟 胸中奥深くに秘めた思い。杜甫の五排「厳鄭公の庁事にて岷山沱江の図画を観奉る」詩に「絵事功殊絶なり、幽襟興激昂す」と。◯卓犖 卓越する。畳韻語。後漢・孔融「禰衡を薦むる表」(『文選』巻三十七)に「英才卓躒」と。〈卓躒〉は、卓犖と同じ。畳韻語。◯陵雲 雲をしのぐ。気概の盛んなるをいう。◯仁術 医術をいう。◯殷勤 ねんごろ。畳韻語。◯済世心 世の人々の難儀を救いたいという思い。宋・恵洪の七律「朱世栄が臨川に守たり、新たに軒を開く。…」詩(『石門文字禅』巻十一)に「几にりて忘れ難し済世の心」と。◯明月清風 前出、石川太一に贈った詩の語釈参照。◯高山流水 前出「橘恵風琴を携へて過らる」詩の語釈参照。◯勝話 すばらしい話。◯夜漏深 夜が更けること。〈漏〉は、水時計。

 「貴兄が実際に見聞した諸国の奇事異聞の類に耳を傾けるうち、夜がとっぷりと更けたのも忘れてしまいました」。
 この詩には「恵風、遊を好み足跡ほとんど天下にあまねし。著す所の東西游記各おの十巻、世に行はる」との自注を附している。当時、南谿の旅行記『西遊記』五巻五冊が寛政5年(1793)5月に、『東遊記』5巻5冊が同年8月に刊行されていたのである。両者は好評を博し、後編続編として寛政9年に『東遊記後編』5巻5冊が、翌10年には『西遊記続編』5巻5冊が出版された。
 そしてこの時の作にもう一首、五言排律の「京師の橘恵風訪宿す」詩(『詩鈔』巻三)がある。

  秋風吹落木、山郭一蕭條  秋風 落木を吹き、山郭いつに蕭条
  地窄難伸脚、官卑苦折腰  地せまくして脚を伸ばし難く、官卑くして腰
               を折るに苦しむ
  倦游唯舌在、怨別殆魂消  游に倦んで唯だ舌の在るのみ、別れを怨ん
               でほとんど魂消ゆ
  長嘆偏惆悵、相思坐鬱陶  長嘆 ひとへに惆悵ちうちやうし、相思 そぞろに鬱陶た
               り
  親朋迎莫逆、款話慰無聊  親朋 莫逆を迎へ、款話 無聊を慰む
  剪盡寒窓燭、轉憐聴雨宵  り尽す寒窓の燭、うたた憐れむ雨を聴く宵
◯山郭 山のまち。杜甫の七律「秋興八首」其三に「千家の山郭朝暉静かなり」と。ここでは、伊賀上野を指す。◯蕭条 ひっそり物寂しいさま。畳韻語。◯折腰 上役にぺこぺこする。『宋書』隠逸伝・陶潜伝に「吾れ五斗米の為に腰を折り郷里の小人につかふる能はず」と。◯倦游 他郷での仕官にあきあきする。前掲、「郷に還り感を誌す」詩の語釈参照。◯舌在 戦国魏の人で後に連衡策を説いた張儀は、かつて楚国で宰相の璧を盗んだと疑われたが、笞打たれてもこれを認めず釈放されたとき、妻に「吾が舌を視よ、ほ在りやいなや」と問い、在るというと、それで充分だと答えたという(『史記』張儀列伝)。中唐・白居易「書に代ふ詩一百韻、微之に寄す」(『白氏文集』巻十三)に「耳垂れて伯楽無く、舌在りて張儀有り」と。◯魂消 極めて深い悲しみをいう。◯惆悵 いたみ悲しむ。双声語。◯鬱陶 心塞がり胸痛むさま。六朝・斉の謝朓「中書省に直す」詩(『文選』巻三十)に「朋情以て鬱陶たり、春物まさに駘蕩」と。◯莫逆 『荘子』大宗師篇に「(子祀・子輿・子犂・子来の)四人相視て笑ふ。心に逆らふことし、相ともに友り」と。『書言故事』巻三、朋友類にも挙げる。◯款語 うちとけた話。◯無聊 やるせなさ。後漢・王逸「九思」逢尤(『楚辞』巻十七)に「煩憒として意無聊」と。南宋・陸游の七律「亀堂独り坐して悶を遣る」詩に「髪巳に凋踈し歯巳に揺らぐ、高談誰とともにか無聊を慰めん」と。◯剪 〈燭を剪る〉とは、ロウソクは芯の燃えかすがたまると暗くなるので、それを剪って明るくすること。

 ちなみに、東陽の文章のなかには橘南谿の直話やその著述から題材を取ったものが幾つかある。『文集』巻八の「たく能毒の事を記す」には、能登のとある浦で漁民が捨てたフグの腸をカラスが啄んで死にそうになったが、橐吾(つわぶき)を食べて毒が解け元気に飛び去ったので、それから人々が試したところ効能があったという話を挙げ、「京師の橘恵風かつて其の地に遊んで聞く所、余が為に之を語る」という。
 同じく『文集』巻八の「鴻池氏の主管の事を記す」は、大坂の豪商鴻池のあるじが寛政4年(1792)の大火で焼けた自宅を新築するのにもとの土を三尺掘り捨てて新しい土に入れ替えようとしたのを、それは高貴なお方のすることだと番頭が諫めたものの聞き入れられず自死した話だが、これは南谿の文政8年(1825)刊の『北窓瑣談』巻二に見える。
 さらに『夜航詩話』巻二には、寛政7年(1795)の冬、仙台の海浜に清国蘇州の漁船が漂着し、漁民が仙台城下に逗留することになったおり、見物にやって来た人々から墨跡を乞われたり詩を寄せられたりして困惑するのをみかねて担当役人の志村勝蔵が彼らに詩の作り方を教えたという話を収めるが、これも『北窓瑣談』後編巻一に見える。なお、『瑣談』では志村藤蔵に作り、「先年諸国漫遊して、京師にも久しく逗留せし学者なり。仙台侯の儒員なり」という。これは通称を東蔵といった志村とうしょ(宝暦2年[1752]~享和2年[1802])のことであろう。
 東嶼については、富士川英郎『菅茶山』上(福武書店、平成2年)の第34節に「天明2年、31歳にして京都に遊んで、久米訂斎に見え、それより6年間、中国、四国を周り、さらに九州に渡って、薩摩や肥後や筑前を経て、故郷へ帰った。享和元年、幕府に召されて、頼春水、赤崎海門とともに、昌平黌で経を講じた」という。もっとも、奥州に漂着したのは広東人で、これを長崎に護送したのは東嶼の兄弟で同じく仙台の儒員志村五城(名は実因、字は子環。延享3年[1746]~天保3年[1833])と石渓(名は弘強、字は仲行。菊隠と号す。明和6年[1769]~弘化2年[1845])とであった。ちなみに、石渓のことは『菅茶山』第66節に引く備後神辺の藤井士晦の行状を記した「暮庵先生行状略記」に見え、五城のことは長崎の儒者吉村迂斎(名は正隆、字は子興。寛延2年[1749]~文化2年[1805])の『吉村迂斎詩文集』(昭和47年刊)に附された吉村栄吉編「吉村迂斎関係略年譜」に記されている。

※橘南谿の伝記については、佐久間正圓『橘南谿』(橘南谿伝記刊行会、昭和46年)がある。また宗政五十緒『東西遊記』(平凡社東洋文庫、昭和49年)および新日本古典文学大系『東路記 己巳紀行西遊記』(岩波書店、平成3年)の解説参照。『北窓瑣談』は、『日本随筆大成 新装版第二期第15巻』(吉川弘文館、昭和49年)に収録。
 志村東嶼については、高橋博巳氏の『画家の旅、詩人の夢』(ぺりかん社、平成17年)の「一八〇〇年(寛政十二)、奥州への旅」に言及されているのを参照。


覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(1)
覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(3)


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