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覚書:津阪東陽とその交友Ⅱ-文化11・12年の江戸-(9)

著者 二宮俊博

おわりに


 以上、本稿では東陽の江戸滞在期における展墓の作ならびに詩人や文人墨客との交友を示す詩を取り上げてきた。
 竹馬の友で桑名藩儒の平井澹所との三十数年ぶりの再会を果たした後、国元の妻が逝去するという不幸に見舞われ喪に服していた関係もあってか、当地での交友は歳が改まってから活発になるのだが、その際、東陽にとって一番の収穫は11歳下の大窪詩仏との出会いであったろう。そして、その詩仏を通して更に新たな人の輪が広がったように思われる。在京時代からその盛名を聞き及んでいた菅茶山とも顔を合わせることができた。その一方で、江戸の学界でそれなりの地歩を築いているはずの澹所からその交友関係を紹介された形跡が見当たらぬのは、どうしたわけであろうか。今や官学派の最高実力者となっている古賀精里とは安永の昔にかつてともに巨椋池に遊んだことがあったのに、面会を果たさずに終わった。そこには「寛政異学の禁」の餘波ともいうべき学派学統の問題が微妙に絡んでいるのかもしれない。
 さらには、歌舞音曲に明け暮れ歌舞伎に熱を上げる江戸の華美な風俗をまのあたりにしたことも、東陽にとっては得難い体験にちがいない。そのことは、『孝経発揮』広要道章の注や『古詩大観』に附した「追書古詩大観後」に色濃く反映されている。
 なお、交友関係でいえば、本稿および前稿で取り上げなかった他の人物、例えば橘南谿・大原雲卿などについても、いずれ補遺として書き留めておきたい。今回はこれまでに増して調べが足らず、詩文の読みも心もとない文字どおりの蕪稿であって不備な点が多いが、万が一にでも博雅の士の目に留まり、ご教示を忝うすることができれば、幸いである。

【資料篇①】伊藤東涯「義士行」

 (『紹述先生文集』巻二十一)

一片義氣蓋壌間、白虹貫天氣如神。碧血千年磨彌明、誰識而今目撃真。憶昔匠作犯不韙、杜郵期迫命委塵。忿滀不散身先隕、宿草空掩夜臺春。遺臣四散宗兵盡、喬木青社事亦新。一夫倡義衆左袒、糾率四十又六人。深謀秘筭誰能覺、東漂西羈飽艱辛。詭迹曽逃花柳巷、託名暫竄屠酤津。張未得狙撃便、武陽欲進徒逡巡。仇家一旦弛警備、方夜酣醼會衆賓。謀人速報好消息、抹額袴槢束裝頻。四更更盡寒漏徹、梯屋斧闉驚四鄰。冥捜炬索認暗號、利戟快刀地燭燐。主人竄伏不知處、人氣餘煖在臥茵。行履尋到薪炭廠、甘心始得宿憤伸。慇懃祭首舊主墓、誰何無人夜向晨。投牒有司去自首、進止唯命件件陳。有司執法且拘縶、東武官邸託四鎮。朝野自是争嘩傳、萬口齊唱是忠臣。諸鎮聞忠館待厚、留止荏苒十旬餘。公義私情難両全、盤水加劍倶殉身。君不見古来豢養偸生者、賣降投款毎相因。了得是君未了事、千古公論不可泯。
*郎は、良の誤字か。

(一片の義気 蓋壌の間、白虹天を貫き 気 神の如し。碧血千年磨して弥々いよいよ明らかなり。誰か識らんこん 目撃真なるを。憶ふ昔 匠作 を犯し、杜郵期迫り命 塵にゆだぬ。忿滀ふんちく散ぜず身先づち、宿草空しく掩ふ夜台の春。遺臣四散し宗兵尽き、喬木青社 事た新たなり。一夫義をとなへ衆左袒し、糾率す四十又六人。深謀秘算誰か能く覚らん、東漂西羈 艱辛に飽く。あといつはりてかつて逃る花柳の巷、名を託して暫し竄す屠酤の津。張良未だ得ず狙撃の便、武陽進まんと欲していたづらに逡巡。仇家一旦警備をゆるめ、夜にあたって酣醼衆賓を会す。謀人すみやかに報ず好消息、抹額しふ束裝しきりなり。四更更尽きて寒漏徹す、屋にはしごし闉に斧して四鄰を驚かし、冥捜炬索 暗号を認む。利戟快刀 地燭燐、主人竄伏 ところを知らず。人気の餘煖 臥茵に在り。行履尋ね到る薪炭廠、甘心始めて宿憤の伸ぶることを得。慇懃首を祭る旧主の墓、誰何人無く夜 晨に向ふ。牒を有司に投じきて自首す、進止唯命 件件ぶ。有司執法且つ拘縶こうちう、東武の官邸 四鎮に託す。朝野是れり争って嘩伝、万口ひとしく唱ふ是れ忠臣。諸鎮忠を聞き館待厚し、留止荏苒じんぜん十旬餘。公義私情両つながら全くし難し、盤水剣を加へてともに身を殉ず。君見ずや古来くわんやう生をぬすむ者、売降投款 つねに相因る。是の君が未だ了せざる事を了し得て、千古の公論ほろぶ可からず。)

◯蓋壌 天地。◯白虹貫天 精誠が天を感動させる。『史記』魯仲連鄒陽列伝に「昔者荊軻燕丹の義を慕ひ、白虹日を貫き、太子是れを畏る」とあり、裴駰『集解』に応劭の「精誠天を感ぜしめ、白虹之が為に貫日を貫くなり」というのを引く。◯碧血 『莊子』外物篇に「萇弘 蜀に死し、其の血を蔵す、三年にして化して碧と為る」と。中唐・李賀「秋来」詩に「恨血千年土中の碧」と。◯而今 如今。いま。◯目撃 まのあたりにする。『荘子』田子方篇に「目撃して道存す矣、声を容るる可からず」と。◯匠作 浅野内匠頭のこと。◯犯不韙 よくないことをしでかす。『左氏伝』隠公二年に「五不韙を犯して以て人を伐つ」と。◯杜郵 戦国秦の名将白起が秦王から死を賜った地(『史記』白起王翦列傳)。◯忿滀 鬱積すること。『莊子』達生篇に「れ忿滀の気散じて反らざれば、則ち足らずと為す」と。◯宿草 一年たった草。『礼記』檀弓上に「朋友の墓、宿草有れば、すなはち哭せず焉」と。◯夜台 墓あな。◯宗兵 一族の兵。◯喬木 故国をいう。『孟子』梁恵王下に「所謂いはゆる故国とは、喬木有るのいひふに非ざるなり。世臣有るの謂なり」と。◯青社 周代、四方の諸侯を封じた際、その土地の色の土を白茅に包んで与え、諸侯は社を立てたという。◯一夫倡義 〈倡〉は唱と同じ。◯左袒 左の片肌をぬぐ。賛同する意(『史記』周勃伝)。◯張良 漢の高祖に仕えた軍師。秦の始皇帝暗殺ためハンマー投げの力士に狙撃させたが失敗した(『史記』留侯世家)。◯武陽 戦国燕の秦武陽のこと。荊軻とともに秦王暗殺に赴いたが、怖気づいて失態を演じた(『史記』刺客列伝)。李白「結客少場行」に「武陽死灰の人、いづくんぞともに功を成す可けんや」と。◯屠酤 ここでは魚屋と酒屋。◯酣醼 酒宴を開くこと。〈醼〉は宴と同じ。◯抹額 はちまきを締める。◯袴槢 馬にのるためのはかま。◯四更 午前二時頃。◯斧闉 屋敷の門を斧で打ち破る。◯臥茵 しとね。◯甘心 満足する。◯慇懃 ねんごろに。◯誰何 (門番が)不審者の姓名などを問いただすこと(『史記』陳渉世家)。◯投牒 書き付けを差し出す。◯有司 担当の役人。大目付のこと。◯進止唯命 身の処し方は命ぜられるままに従
う。白居易の「固継集の重序」(『白氏文集』巻六十)に「進退唯だ命のままにす」と。◯拘縶 とらえる。拘禁。◯東武 江戸をいう。◯官邸 幕府を指す。◯四鎮 四つの大名家。下文の諸鎮も同じ。◯嘩伝 騒ぎ伝える。◯館待 屋敷での待遇。◯荏苒 歳月がゆるゆると過ぎるさま。畳韻語。◯盤水加剣 水を盛った盤(たらい)に剣を載せる。自決すること(『漢書』賈誼伝、『孔子家語』五刑解)。◯君不見 楽府や歌行体に用いられる、相手に呼びかけ同意を求める表現。◯豢養 利益で誘惑する。◯売降 利益を得て敵に降る。◯投款 敵方に投降する。◯了 最後までやり遂げる。まっとうする。◯君 主君。◯千古公論 永遠にかわらぬ正論。

※ちなみに、この詩は、大田南畝がその随筆『一話一言』巻三十一(『大田南畝全集』第十四巻)にも書き留めている。

【資料篇②】「論野子賤復讎論」

 (『文集』巻四)

赤穗義士之舉、唯是爲舊主脩怨➎遺憤于地下而已。豈敢復讎云乎哉。五井子祥嘗駁太宰德夫之説、辨之詳矣。野子賤不審義士心曲、徒泥於世俗之説、以復讎議粗已甚矣。但其動兵都下、肆戮朝貴、此乃犯法之辜、義不可逃、故不肯卽自殺、束身自歸于官以聽罪焉。亦以見故君平生敬上之志云。嗚呼感慨殺身易、從容就義難。斯其非精乎義者、而能若是乎。子賤乃曰、自伏讐法之罪。嗟夫義士之徒、何曽讐法乎。蓋叨〃數百千言、率徒拾德夫餘唾耳。且初稱述佐藤直方持論、而至後乃曰、此豈世之道学先生所能知哉。夫直方道學之尤者、亦何其之言牴牾耶。余嘗閲永田善齋膾餘雜錄曰、君父以義見殺、孰得讐之。若或爲人所陷以死、忠臣孝子所不容已。此而可忍、則非人矣。昔唐開元中、御史楊汪誣殺嶲州都督張審素、審素二子瑝琇遂殺汪以復讎、時張九齡爲相、欲矜宥之、李林甫不可、必欲正典刑。二子竟論死、民怜之、爲作哀誄、榜於衢路。君子小人自相水火、可以見其是非矣。此數十年前、似預爲赤穗之獄道、惜乎當時不見取用也。蓋夫赤穗君以罪死國亡、雖固所自取、吉良子之虐實致之。雖謂彼殺之可也。臣子於君父一也。義士之敵乃愾、若以復讎議、亦以是斷之。豈可謂其所讎非讎也。於戲義士之舉大節、炳焉如掲日月、忠烈之氣、凛〃乎百世不可得而冺焉。復何容於論説哉。子賤之昧乎義也、眞所謂腐儒瞽説、固不足挂齒牙耳。然借經義以爲説而紫朱相奪、吾恐其或惑人、不可以不辨也。

(赤穂義士の挙、唯だ是れ旧主のために地下に怨ををさめ遺憤を慰むるに敢へて讎を復すると云はんや。五井子祥かつて大宰徳夫の説を駁し、之を辨ずることつまびらかなり矣。野子賤は義士の心曲をつまびらかにせず、いたづらに世俗の説になづみ、復讎を以て議す、粗なることすでに甚だし矣。但だの兵を都下に動かし、ほしいままに朝貴をころす。此れすなはち法を犯すのつみ、義としてのがる可からず。故に肯へてすなはち自殺せず、身を束ねて自ら官に帰し以て罪を聴く焉。た以て故君が平生しょうを敬するの志をあらはすと云ふ。感慨して身を殺すはやすく、従容として義に就くは難し。れ其れ義に精なる者に非らずして、能くかくごとくならん。子賤すなはち曰く、自ら讐法の罪に伏すと。義士の徒、何ぞかつて法に讐せん乎。けだ叨〃たうたうたる数百千言、おほむいたづらに徳夫の餘唾を拾ふのみつ初めに佐藤直方の持論を称述し、而して後に至ってすなはち曰く、此れに世の道学先生が能く知る所ならんと。れ直方は道学の尤なる者、た何ぞ其の言のていするや。余かつて永田善斎が膾餘雜録を閲するに曰く、君父義を以て殺さる、たれか之を讐するを得ん。し或いは人の陥れて以て死する所と為れば、忠臣孝子の容れざるところのみ。此れにして忍ぶ可くんば、則ち人に非ず矣。むかし唐の開元中、御史楊汪、すゐ州都督張審素を誣殺す、審素の二子瑝・琇つひに汪を殺して以て讎を復す。時に張九齢相り、之を矜宥せんと欲す、李林甫かず、必ず典刑を正さんと欲す、二子つひに論死す。民之をあはれみ、ために哀誄を作り、衢路に榜す。君子小人自ら相水火たり、以て其の是非を見る可し矣。此れ数十年前、あらかじめ赤穂の獄のためふに似たり。惜しいかな、当時取用せられざるなり。蓋しれ赤穂君罪を以て死し国亡ぶ、もとより自ら取る所と雖も、吉良子の虐、実に之を致す。彼れ之を殺すとふと雖も可なり。臣子の君父に於ける一なり。義士のの愾にあたる、し復讎を以て議すれば、亦た宜しく是れを以て之を断ずべし。豈に其の讎とする所は讎に非ずと謂ふ可けんや。義士の大節を挙ぐ、炳焉として日月を掲げるが如く、忠烈の気、凛〃乎として百世得てほろぶ可からず焉。復た何ぞ論説を容れんや。子賤の義にくらきや、真に所謂いはゆる腐儒の瞽説、もとより歯牙にくるに足らざるのみ。然れども経義を借りて以て説を為して而して紫朱相奪ふ、吾れ其の或いは人を惑はさんことを恐れ、以て辨ぜざる可からざるなり)

◯五井子祥 五井蘭洲(字は子祥。元禄10年[1697]~宝暦12[1762])のこと。◯大宰德夫 太宰春台のこと。◯心曲 心のくま。心底。古くは『詩経』秦風「小戎」に見える語。◯束身 自らその身を縛る。◯聴罪 罪に服する。古くは『書経』高宗肜日に見える表現。◯感慨殺身易・従容就死難 『近思録』巻十、政事類に「感慨して身を殺すことはやすく、従容として義に就くことはかたし」と。これは、程明道(顥)の言葉。『程子遺書』巻十一に見える。〈感慨〉は、一時の激情。〈従容〉は、ゆったりとしたさま。◯叨叨 多言のさま。うだうだ、くどくど。◯佐藤直方 山崎闇斎の門人(慶安3年[1650]~享保4年[1719])。「四十六士論」十五編がある。◯牴牾 食い違う。◯永田善斎 名は道慶、字は平安。林羅山の推挙により和歌山藩儒となる(慶長2年[1597]~寛文4年[1664])。◯膾餘雜録 慶安5年[1623]自序、承応2年[1624]刊。巻四の曽我兄弟の敵討ちを記した条に、張審素の二子、瑝・琇の仇討ちの話を載せるが、「君父義を以て殺さる。……則ち人に非ざるのみ」というのは見あたらない。◯開元中… 『資治通鑑』巻二一四、玄宗の開元23年に見える。その処罰をめぐっては「議する者多く言ふ、二子の父死せしは罪に非ず。稚年孝烈にして、能く父の讐を復せり。宜しく矜宥を加ふべしと。張九齢も亦た之を活さんと欲す。裴延卿・李林甫おもへらく、此の如くせば国法を壊らんと。しょうも亦た然りと為す」云々と。〈矜宥〉は、哀れんで無罪とする。◯典刑 常刑。『書経』舜典に「象るに典刑を以てす」と。◯論死 死刑に処する。〈論〉は、罪を決定する意。◯民怜之 『資治通鑑』に「士民皆之を憐み、為に哀誄を作り、衢路に牓す」と。◯水火 相容れないものの喩え。◯臣子云々 『白虎通德論』卷二、誅伐に「子の父の為に讎を報ずることを得る者、臣子の君父に於ける其の義一なり」と。◯敵愾 『左氏伝』文公4年に「諸侯、王の愾する所に敵して其の功を献ず」と。◯炳焉 あきらかなさま。◯瞽説 道理にはずれた説。『漢書』谷永伝に「皆瞽説の天を欺く者なり」と。◯挂歯牙 取り上げて問題にする。◯経義 経書およびその義理。◯紫朱相奪 『論語』陽貨篇に「紫の朱を奪ふをにくむ」と。〈紫朱〉は、正邪の意に用いる。

※この文章は『赤穂義人纂書』未収録。

【資料篇③】松崎慊堂「澹所先生平井君墓表」

 (『慊堂全集』巻十)

勢之菰野、出文學之彥、曰平井君直藏、諱業、字可大。又字君敬、自號澹所。其先出北畠庶族。織田公入勢、降爲土豪。數世曰德兵衛義房。生嘉左衛門義景。義景四子、季曰文助義知。義知娶同郡贄氏。是爲君考妣。君幼有至性、四歲喪母、悲慕如成人。六歳就塾師受句讀。日兼他生所肄、作詩輒超等
輩。伏水江村綬選時人詩、爲一集行之、採君十三歲詩數首。年十九游大府、受經關松窓修齡、學文平澤旭山元愷。二子愛其才辯、升諸林門、入昌平國學、修詩古文辭。同舍生莫能及者。分講仰高門、聽者促席忘倦焉。寛政初、德音徴諸老宿。佐子林子*、作新學政。君以布衣爲生員長。時大修文廟、益廣庠舍、比年試業、五載一大比。文敎煥發、風動四方。君與有勞、前後三賜白銀奬之。十年、學政大成。諸學官皆用朝士、學生充以朝士子弟。君處士、例應罷去、特賜員長俸五年。君因應桑名城主之聘。城主傾心嚮之。享和壬戌、以位長柄奉行、永襲秩二百石。署君學職、謀行言聽。文化十年、從城主就國、建言修國校、凡立三舘、曰進修、曰醫學、曰兵法。舘各有長、君總督其事。桑名之士、翕然興起。當是時、大府諸封君、請君受經者六七十公。授業弟子益衆。城主使君遞年就國、以兩便其事。葢異數也。十四年、將赴桑名、得氣疾、連三歳、遂不起。年五十九。以文政庚辰八月十九日壬寅、終大府小川町私宅。越四日乙巳、其子簡策等葬君四谷鹽町全勝寺之原。弟二人、繼母森氏所出。一爲幕府先隊寄騎。一守菰野先廬。配大庭氏。先五歳沒。繼娶某氏。三子、簡襲君職、策以蔭爲騎。範未仕。二女、琴・歌、皆適士族。孫女一人。君性溫藉、然遇事有是非可否、不苟骩骳、學最邃四子書。善講説、語響亮。詩文據唐宋正派、能爲後生叩發管籥。平生矻矻排異敎、而獨喜悉曇之説。著四書要解韵鏡指揮及詩文若干種。疾亟、嘆曰、吾事止是耶。不以未定之説誤後生、取諸著焚之。廉夫泣止之。僅留詩文三卷、曰澹所遺稿。子林子聞曰、可大譚經論文玅一時。吾久倚仗、吾門稱多桃李、如可大其霜松雪柏耶。今折矣。可惜。遣門生來治喪。諸封君賻贈營葬。城主命有司、就家致祭。復少君九歲、爲同門晩生。熟君言論風采、殆三十餘年。遺言曰、爲吾表墓。因掇廉夫狀、間以復所聞見者。序述如是。嘻君之德業、伸於知己、猶未大行於世。其遺書亦皆就燼。吾懼其久泯滅也。仍又效柳河東碣例、畧擧鉅人勝流知君最深者、以繫表後。使後之君子有所考焉。柴栗山邦彥、讃岐人。尾藤二洲肇*、伊豫人。岡田寒泉恕・黑澤雪堂直、江戶人。古賀精里樸、肥前人。倶以宿儒徴*列朝。立原翠軒萬、水戶人。市河子靜世寧、上毛人。菅太冲晉帥、備後人。大藏仲謙謙*、江*戶*人。大島無害維直、加賀人。廣瀨以寧典・大槻士繩準、陸奧人。皆邦國名士。

(勢の菰野、文学の彦を出す。曰く平井君直蔵、いみなは業、あざなは可大。又の字は君敬、自号は澹所。の先は北畠の庶族に出づ。織田公、勢に入り、降って土豪とる。数世德兵衛義房と曰ふ。嘉左衞門義景を生む。義景の四子、季を文助義知とふ。義知、同郡のにへ氏をめとる。是れ君が考妣り。君幼にして至性有り、四歳にして母を喪ふ、悲慕すること成人の如し。六歳にして塾師に就きて句読を受く。日に他生のならふ所を兼ね、詩を作らばすなはち等輩を超ゆ。伏水の江邨綬、時人の詩を選び、一集を為して之を行ふ、君が十三歳の詩数首を採る。年十九にして大府に遊び、経を関松窓修齡に受け、文を平沢旭山元愷に学ぶ。二子の才辯を愛し、これを林門に升し、昌平国学に入らしむ。詩古文辞を修む。同舎生能く及ぶ者し。仰高門に分講し、聴く者席を促して倦むを忘る焉。寛政の初め、徳音もて諸老宿をす。子林子をたすけ、学政を作新す。君は布衣を以て生員の長と為る。時に大いに文廟を修め、益々庠舍を広め、比年に業を試み、五載に一たび大比す。文教煥発して、四方を風動す。君あづかりて労有り、前後三たび白銀を賜り之を奨す。十年、学政大いに成る。諸学官は皆朝士を用ひ、学生はつるに朝士の子弟を以てす。君は処士にして、例としてまさに罷め去るべきに、特に員長の俸を賜ふこと五年。君因りて桑名城主の聘に応ず。城主心を傾けて之をむかふ。享和壬戌、長柄奉行に位するを以て、永く秩二百石を襲ふ。君を学職に署す、謀行はれ言聴かる。文化十年、城主に従ひて国に就き、建言して国校を修む。凡そ三館を立つ、曰く進修、曰く医学、曰く兵法。館に各々長有り、君は其の事を総督す。桑名の士、きふ然として興起す。の時に当り、大府の諸封君、君に請うて経を受くる者六七十公。授業の弟子益々おほし。城主、君をして逓年ていねん国に就かしめ、以て其の事を両便す。けだし異数なり。十四年、まさに桑名に赴かんとして、気疾を得、連ぬること三歳、遂に起たず。年五十九。文政庚辰八月十九日壬寅を以て、大府小川町の私宅に終はる。越えて四日乙巳、其の子、簡・策等、君を四谷塩町全勝寺の原に葬る。弟二人、継母森氏の出だす所。一は幕府の先隊寄騎と為り、一は菰野の先廬を守る。配は大庭氏。先だつこと五歳にして没す。継娶某氏。三子、簡[字は廉夫]君が職を襲ひ、策は蔭を以て騎と為る。範は未だ仕へず。二女、琴・歌、皆士族にとつぐ。孫女一人。君は性温藉うんしゃ、然れども事に遇ふに是非可否有らば、いやしくせず。学は最も四子書にふかし。講説を善くし、語は響亮たり。詩文は唐宋の正派に拠り、能く後生の為に管籥くわんやくを叩発す。平生矻矻こつこつとして異教を排す、しかれども独りしつたんの説を喜ぶ。四書要解・韻鏡指揮及び詩文若干種を著す。疾すみやかなり、嘆じて曰く、吾が事是れに止まるか。未定の説を以て後生を誤らずと。諸著を取りて之をく。廉夫泣いて之を止む。僅かに詩文三巻を留む、澹所遺稿と曰ふ。子林子聞きて曰く、可大、経を譚じ文を論ずること一時にめうたり。吾れ久しく倚仗す。吾が門、桃李多しと称するも、可大の如きは其の霜松雪柏ならんか。今折れり矣、惜しむ可しと。門生をして来りて喪を治めしむ。諸封君ぞうして葬を営む。城主、有司に命じて、家に就きて祭を致す。復は君よりわかきこと九歳、同門の晩生り。君が言論風采に熟すること、ほとんど三十餘年。遺言に曰く、吾が為に墓に表せよと。因て廉夫の状を掇り、まじふるに復の聞する所の者を以てす。序述かくの如し。ああ、君の德業は知己に伸ぶるも、猶ほ未だ大いに世に行はれず。其の遺書も亦たみな燼に就く。吾れ其の久しく泯滅するををそるるなり。よつて又た柳河東の碣例にならひ、ぼ鉅人勝流の君を知ること最も深き者を挙げて、以て表後に繫ぐ。後の君子をして考する所有らしむ焉。柴栗山邦彦、讃岐の人。尾藤二洲肇、伊豫の人。岡田寒泉恕・黒澤雪堂直、江戸の人。古賀精里樸、肥前の人。ともに宿儒を以て、されて朝に列す。立原翠軒万、水戸の人。市河子静世寧、上毛の人。菅太冲晋帥、備後の人。大藏仲謙謙[譲]、江戸[信濃]の人。大島無害維直、加賀の人。広瀬以寧典・大槻士繩準、陸奧の人。みな邦国の名士)。

◯文学彦 学問に優れた人物。◯北畠 南北朝以後、伊勢国司・伊勢国守護となり、南勢を支配、戦国末に織田信長によって滅亡した。◯至性 天賦のすぐれた品性。◯考妣 亡くなった父母。『礼記』曲礼下に「生きては父とひ母と曰ひ妻と曰ふ。死しては考と曰ひ妣と曰ひ嬪と曰ふ」と。◯伏水 伏見と同じ。◯江邨綬 江村北海(正徳4年[1714]~天明8年[1788])。◯十三歳云々 『日本詩選』および『続日本詩選』に平井澹所の名は見あたらない。訛伝であろう。◯年十九 市河三陽『市河寛斎先生』に、澹所の長男簡が記した行状によって「年二十にして此年三月四日伊勢を発して出府し関松の紹介で旭山の門に入り、翌天明二年更に昌平に入学せるもの」という。◯大府 江戸。◯関松窓 川越の人。本文中に既出。◯平沢旭山 山城宇治の人。本文中に既出。◯林門 平沢旭山の取次で天明2年[1782]六月朔日、林家に入塾。揖斐高ほか編「林家門人録『升堂記』(都立中央図書館本)の翻刻と索引」(「成蹊人文研究」第2号、平成6年)参照。なお、三村竹清「平井澹所」には林錦峰(明和2年[1765]~寛政5年[1793])の門人になったという。◯詩古文辞 〈辞〉は、『事実文編』にはない。おそらく衍字。古文辞は、明・李于鱗らが提唱し、我が国では荻生徂徠がこれを鼓吹した。◯仰高門 聖堂入口にある門。百姓町人を含む一般向けの公開講座が開かれた。◯促席 座席を近づける。◯徳音 幕府の命令。もとは天子の言葉をいう。『漢書』董仲舒伝に「陛下徳音を発し、明詔を下す」と。◯諸老宿 天明8年に柴野栗山が御儒者となり、寛政2年には岡田寒泉、同3年には尾藤二洲が就任。同四年には古賀精里が経書講義を始め、同8年代官として転出した寒泉に代わって御儒者に就任した。〈老宿〉は、学徳すぐれた老儒者。◯子林子 林述斎(明和6年[1769]~天保14年[1843])のこと。姓氏の上に冠した〈子〉は、門弟の師に対する敬称。◯作新 刷新する。『書経』康誥に「天命にり、民を作新せよ」と。◯布衣 庶人。無位無官の者。◯生員長 都講をいう。三村「平井澹所」によれば、寛政3年(1791)のこと。◯文廟 孔子を祀る大成殿。寛政8年に改修の議が起こり、同11年に落成。〈文廟〉は、唐代、孔子に文宣王の称号をおくり、その廟を文宣王廟と称したが、その略称。◯比年 毎年。◯大比 試験を行う。もとは3年ごとに官吏の成績を考査すること(『周礼』地官・郷大夫)。◯文教 学問や教育による感化。古くは『尚書』禹貢に見える語。◯煥発 (成果が)輝やき現われる。◯朝士 ここは幕臣。◯桑名城主 松平下総守忠和(宝暦9年[1730]~享和2年[1802])のこと。寛政10年(1798)澹所を聘して講書とした。◯長柄奉行 槍奉行のこと。◯翕然 一斉に起こるさま。◯逓年 毎年。◯簡襲君職 『事実文編』は、〈簡〉字の下に〈字廉夫〉の三字がある。◯温藉 度量があり、おだやか。◯骪骳 (迎合して)曲げること。畳韻語。◯四子書 大学・中庸・論語・孟子の四書。◯管籥 関鍵。◯悉曇 梵語の学。◯疾亟 病状が急に重くなる。◯桃李 優れた門人。初唐の狄仁傑が則天武后に姚元崇はじめ優れた人材を推挙し、「天下の桃李、ことごとく公の門に在り」といわれたとい(『資治通鑑』巻二百七、久視元年の条)。◯霜松雪柏 松・柏(ヒノキの一種)は常緑樹で、冬も葉の色を変えない。◯賻贈 喪主への贈りもの。香奠。◯柳河東 中唐の柳宗元。河東(山西省)の人であるから、かく称する。その父、柳鎮の墓道に建てた「先の侍御史府君神道表」の裏面に「先君の石表の陰の先友記」を刻した(『柳河東集』巻十二)。◯鉅人勝流 名だたる優れた人々。〈鉅人〉の語、韓愈「唐の故相権公墓碑」(『韓昌黎集』巻三十)に「天下愈々いよいよ推して鉅人長德と為す」と。◯柴栗山邦彦 栗山は号。幕府の儒官(享保19年[1834]~文化4年[1807])。◯尾藤二洲肇 二洲は号。〈洲〉字の下〈肇〉字の上、おそらく〈考〉字を脱す。『事実文編』は〈孝肇〉に作る。幕府の儒官(延享4年[1747]~文化10年[1813])。◯岡田寒泉恕 寒泉は号。幕府の儒官(宝永5年[1740]~文化13年[1816])。◯黒沢雪堂直 雪堂は号。昌平黌教授(宝暦8年[1758]~文政7年[1824])。◯古賀精里樸 精里は号。幕府の儒官(寛延3年[1750]~文化14年[1817])。◯立原翠軒萬 翠軒は号。水戸藩儒(延享元年[1744]~文政6年[1823])。◯市河子靜世寧 号は寛斎。本文参照。○菅太冲晋帥 号は茶山。本文参照。◯大藏仲謙謙 仲謙は字、号は龍河。柴野栗山の門人、儒医(宝暦7年[1757]~弘化元年[1844])。名の〈謙〉字、『事実文編』は〈譲〉に作り、〈江戸〉を〈信濃〉に作るが、その方がよい。◯大島無害維直 無害は字。号は贄川。加賀藩儒(宝暦12年[1762]~天保9年[1838])。◯広瀬以寧典 以寧は字、号は蒙斎。柴野栗山の門人。桑名藩儒(明和5年[1768]~文政12年[1829])。◯大槻士縄準 士縄は字、号は平泉。古賀精里の門人。仙台藩儒(安永2年[1773]~嘉永3年[1850])。◯邦国 諸国。

※語釈で言及した以外にも、五弓雪窓『事実文編』巻五十四に収めるものとかなり異同がある。

【資料篇④】「詩佛西遊編序」

 (『文集』巻二)

往余于役江戸、與詩佛相識。款曲莫逆、深悅其為人。時及瓜期、交一臂而失之、良可憾也。今茲戊寅之秋、詩佛西遊京師、因過我津城。留寓再閲月、余為左右之、周旋諸大夫之筵、交歡詩酒之間、益深悅其為人。葢天資雅量、襟韻瀟灑、與人交眞率磊落、毫無畦畛、好酒豪飲、大聲劇談。到處款洽、為爛漫之遊、人皆心醉焉。詩佛才名滿天下、三十年于茲。其與人酬和、衝口成咏、大小珠玉如噴、雖欠精鍊工夫、要為一世詩伯、名下果無虚士也。醉酣興至、好作墨竹、天趣飄逸、風生雨灑、妙傳此君之神、專門畫手不能及也。又夙善草書、刻意孫虔禮、深得其風骨、長箋巨幅、信筆揮霍、雲烟撩亂、龍蛇飛動、令人爽然。其齡垂耳順、猶孜〃臨學、日課三百字、毎必陵晨而起、卽旅游中未嘗有廢也。天假之年、當為我草聖矣。於戯一人之身、奄擅三絶、可不謂風流人豪哉。夫邂逅相遇、償交臂而失之憾、快觀妙技、勝會罄歡、至今追懷其樂、尚在心目間也。京師書賈版其西遊詩什、以弘諸四方。詩佛既歸江戸、千里馳書、需予序之、乃書交場所見、報莫逆之云。

さきに余、江戸に于役するや、詩仏と相識る。深くの人とりを悦ぶ。時に瓜期に及び、一臂を交へて之を失す、まことうらむ可きなり。今茲戊寅の秋、詩仏西のかた京師に遊び、因て我が津城にぎる。留寓すること再閲月、余ために之を左右し、諸大夫の筵に周旋す、交歓詩酒の間、益々深く其の人とりを悦ぶ。蓋し天資雅量、襟韻瀟灑せうしゃ、人と交はる真率磊落、毫も畦畛けいしん無し。酒を好んで豪飲、大声劇談す。到るところくわんかふ、爛漫の遊を為し、人皆心醉す焉。詩仏の才名天下に満つること、ここに三十年。其の人と酬和す、口を衝いて咏を成す。大小の珠玉噴くが如し。精錬の工夫を欠くと雖も、要するに一世の詩伯り。名下に果して虚士無きなり。酔ひたけなはにして興至れば、好んで墨竹を作る。天趣飄逸、風生じ雨そそぐ、妙にの君の神を伝ふ。専門の画手も及ぶこと能はざるなり。又たつとに草書を善くす。意を孫虔礼に刻し、深く其の風骨を得、長箋巨幅、筆にまかせて揮霍す。雲烟撩乱、龍蛇飛動す。人をして爽然たらしむ。其の齡耳順になんなんとして、猶ほ孜〃として臨学し、日に三百字を課し、つねに必ず晨をしのいで起き、たとひ旅遊中も未だかつて廃すること有らざるなり。天これに年をさば、まさに我が草聖と為るべし矣。、一人の身にして、たちまちに三絶をほしいままにす、風流の人豪と謂はざる可けんれ邂逅して相遇ふて、臂を交へて失するのうらみを償ふ。妙技を快観し、勝会歓をつくす。今に至って其の楽しみを追懐し、尚ほ心目の間に在るなり。京師の書賈、其の西遊の詩什を版して、以てこれを四方に弘む。詩仏既に江戸に帰る、千里書を馳せ、予に之を序をすることをもとむ、乃ち交場の見る所を書して、以て莫逆の誼を述ぶと云ふ)

◯于役 『詩経』王風に「君子于役」がある。〈于〉は、行く意。◯款曲 うちとけて親しくする。双声語。◯莫逆 心に逆らうことなく気が合う。『荘子』太宗師篇に「四人相視て笑ひ、心に逆らふことく、遂に相ともに友と為る」と。◯瓜期 任期満了の時期。春秋斉の襄公が臣下を瓜の熟する頃に守備に遣わして明年瓜の実るときに交代させようといった故事(『左氏伝』荘公八年)に基づく。◯交一臂而失 出会ってすぐに別れる。『荘子』田子方篇に「吾れ身を終ふるまでなんぢともにせんも、一臂を交へて之を失す、哀しまざる可けんや」と。◯戊寅 文政元年(1818)。◯再閲月 2か月。◯左右 助ける。◯周旋 とりもつ。世話する(『左氏伝』文公18年)。双声語。◯襟韻 胸のうち。◯瀟灑 さっぱりとしたさま。双声語。◯磊落 心が広く細かいことに拘らぬこと。双声語。◯畦畛 分け隔て。北宋・黄庭堅「東坡墨戯の賦」に「其の胸中を視るに、畦畛無し」と。◯劇談 快談。西晋・左思「蜀都の賦」(『文選』巻四)に「劇談戯論、腕を扼し掌をつ」と。◯款洽 うちとける。双声語。◯爛漫遊 はめをはずして遊ぶ。◯詩伯 詩壇の領袖。◯名下果無虚士也 閻立本が張僧繇の画を評した語(『唐語林』巻三)。◯此君 竹のこと。晋の王徽之が竹を指して「何ぞ一日としての君無かる可けんや」といった故事(『晋書』王徽之伝)による。◯刻意 苦心して学ぶ。◯孫虔礼 初唐の書家。名は虔礼(一説に名は過庭、字は虔礼)。草書を善くし、著に『書譜』がある(『書断』巻下、『宣和書譜』巻十八)。◯風骨 精神品格。◯揮霍 すばやく手を動かす。双声語。◯耳順 六十歳。『論語』為政篇の「六十にして耳順ふ」から出た語。◯草聖 草書を極めた最高の達人。後漢の張芝は草聖と称せられ、盛唐の張旭は杜甫の七古「飲中八仙歌」に「張旭は三杯にして草聖と伝へられ、帽を脱ぎて頂を露す王公の前」とうたわれた。◯三絶 詩・書・画の三つにわたって優れていること。◯風流人豪 『二程外書』卷十一に「邵堯夫の詩に曰く、〈梧桐 月 懐中に向いて照らし、楊柳 風来りて面上に吹く〉と。明道曰く、真に風流の人豪と」と。◯勝会 盛会。◯云 文章を締め括る表現。

※文政二年刊『西遊詩草』に「西遊詩草序」として載せるが、刊本の序では「詩仏」を「詩仏翁」に作るなど、少しく異同がある。また刊本には制作時を示す「文政紀元臘月」の文字がある。『西遊詩草』の刊本は、汲古書院刊『紀行日本漢詩第二巻』(平成3年)に佐野正巳氏の解題を附してその影印を収める。

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