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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(4)

著者 二宮俊博


尾張の儒者・隠士―恩田仲任・岡田新川・秦滄浪/西河子発

 尾張は東陽が15の歳から3年間、村瀬氏に就いて医術を学んだ曾遊の地である。また天明8年(1788)の大火に遭って京での暮らしが立ち行かなくなり一旦帰郷したあと、一時逗留した場所でもあった。その間の東陽の動静や交友関係はよくわからない。ただ東陽の集には、恩田仲任・岡田新川それに秦滄浪といった尾張名古屋の儒者および海西郡鳥地とりかんじの隠士西河子発の名が見えるので、彼らに贈った詩を挙げておく。

 恩田仲任(寛保3年[1743]~文化10年[1813])

 名は維周、字は仲任。号は蕙楼。松平君山(名は秀雲、字は士龍。元禄11年[1697]~天明3年[1783])に師事。尾張藩士岡田宗愛の子。継述館総裁となり明倫堂教授を兼ねた。次項に挙げる岡田新川の実弟。東陽より14歳上。
 京都遊学中の作に七絶「寄せて尾張の恩田仲任に答ふ」(『詩鈔』巻七)がある。

  德性本淳才氣揚  徳性と淳にして才気揚ぐ
  紛綸經學煥文章  紛綸たる経学 文章煥たり
  大邦自足良師友  大邦自ら足る良師友
  休問洛儒鞭賈妝  問ふをめよ洛儒鞭賈のよそほ
◯德性 『中庸』に「君子は、徳性を尊びて問学にり」云々と。◯紛綸 学問が広く深いこと。前掲、「懐を文卿に寄す」詩の語釈参照。◯煥文章 〈煥〉は、輝く。晩唐・杜牧「華清宮三十韻」詩に「星斗文章煥たり」と。◯大邦 大藩。ここは尾張藩六十二万石をいう。◯洛儒 京都の儒者。◯鞭賈妝 むちを売る商人が、粗悪なむちを高級品らしく見せかけて売り、そのむちを買った金持ちの話が中唐・柳宗元の「鞭賈」(『柳河東集』巻二十)に見える。

「大藩たる尾張名古屋には良き師友がたくさんおいでになる、京洛の儒者なんぞは見掛け倒しにすぎません」。
 仲任から在京の東陽に、自分は尾張名古屋の田舎儒者だが、京のみやこには名の知られた鴻儒碩学が多くおり、貴君は恵まれた環境のなかで学問ができて羨ましい、といった内容の詩が寄せられたのに答えたものらしい。
 また七律に「恩田仲任をよぎりて話して別る」(『詩鈔』巻四)がある。

  相逢幾日展交情  相逢ふこと幾日ぞ交情をぶるも
  又復匆匆賦遠征  又復た匆匆そうそうとして遠征を賦す
  只合杯樽消別恨  只だまさに杯樽別恨を消すべし
  莫教絃管作離聲  絃管をして離声をさしむるかれ
  霜楓秋冷山中宿  霜楓秋冷ややかなり山中の宿
  雲月宵寒海上行  雲月宵寒し海上の行
  悵望空勞各天夢  悵望して空しく労す各天の夢
  何時久要慰平生  いづれの時にか久要 平生を慰めん
◯相逢幾日 南宋・楊万里の七古「劉覚之の蜀に帰るを送る」詩(『誠斎集』巻三十一)に「相逢ふこと幾日ぞ又た相別る」と。◯匆匆 あわただしいさま。◯遠征 ここは遠遊の意。◯離声 送別の宴での音楽。六朝宋・鮑照「東門行」(『文選』巻二十八)に「離声客情を断ち、賓御皆涙つ」と。◯霜楓 こここでは紅葉をいう。杜甫の五排「東屯月夜」詩に「青女霜楓重く、黄牛峽水喧し」と。◯海上行 桑名と宮とを結ぶ七里の渡し。◯各天 遠く離れた空の下。前掲、「和して久保希卿に答ふ」二首其一の語釈参照。◯久要 旧い約束。『論語』憲問篇に「久要平生の言を忘れず」と。◯慰平生 北宋・邵雍「東軒の消梅初めて開き客に酒を勧む二首」其二(『伊川擊壤集』卷六)に「辞することかれ行楽して平生を慰めることを」と。

拙稿「津阪東陽『寿壙銘』訳注稿」において、天明8年の大火後、京から郷里にもどり江戸に赴こうとして故あって途中で引き返しそのまましばらく尾張に留まっていた時期の作としたが、具体的な場所は特定できない。名古屋の自宅ではなく出先に仲任を訪ねたおりに詠じたもののようだ。

 岡田挺之(元文2年[1737]~寛政11年[1799])

 名は宜生、通称は仙太郎。字は挺之。新川はその号。松平君山に師事。明倫堂教授、継述館総裁を経て寛政4年(1792)、明倫堂の督学となった。東陽より20歳上。
 寛政4年頃の作とみられる七律に「和して岡田挺之に答ふ」詩(『詩鈔』巻四)がある。これは新川から寄せられた詩に唱和して答えたもの。

  昨遊廻首邈滄溟  昨遊かうべめぐらせば滄溟はるかなり
  日夜相逢眼自青  日夜相逢うて眼自ら青し
  嚄唶難當堅白辯  嚄唶くわくさく当たり難し堅白の弁
  紛綸堪著大玄經  紛綸著すに堪ふ大玄経
  筆鋒揮去雲烟勢  筆鋒ふるひ去る雲烟の勢
  棋子拾来龍鳳形  棋子拾ひ来たる龍鳳の形
  見眎新詩多故實  しめさるる新詩 故実多く
  叮嚀解與塾生聴  叮嚀ていねいに解与し塾生に聴かしむ
◯昨遊 以前の遊歴。◯廻首 振り返る。◯滄溟 大海原。◯眼自青 快く受け容れられることをいう。『蒙求』巻下の標題に「阮籍青眼」がある。なお、『書言故事』巻三、会遇類に青眼の語を挙げ、「人の愛厚を荷ふを極めて青眼青眄をかたじけなうすと云ふ」と。◯嚄唶 多弁のさま。畳韻語。『史記』信陵君列伝に「晋鄙は嚄唶たる宿将」とあり、索隠に「嚄唶は、詞句多きを謂ふ」というが、『史記』の注としては妥当ではないものの、ここはその意味。◯堅白弁 戦国趙の公孫龍は堅白同異の弁を唱えた。『史記』孟子荀卿列伝に「趙に亦た公孫龍有り、堅白同異の弁を為す」と。◯紛綸 学問が広く深いこと。前掲「懐を文卿に寄す」詩の語釈参照。◯大玄経 前漢・揚雄が『易経』になぞらえて著した書物。楊雄の「解嘲」(『文選』四十五)に「哀帝の時(中略)、時に雄はまさに大玄を草創し、以て自ら守ること有りて泊如たるなり」と。この句、新川が揚雄のような大学者であることをいう。◯雲烟勢 筆勢のさまをいう。◯棋子 碁石。◯龍鳳形 晩唐・段成式『酉陽雜俎』巻十二、語資に「晋の羅什、人と碁す。敵の死子を拾ふに空処龍鳳の形の如し」と。◯故実 故事、典故。◯叮嚀 繰り返し、仔細に。丁寧と同じ。中唐ごろからの俗語で、畳韻語。

新川は、弁舌が立ち書に秀で囲碁を善くした人物であったらしい。「貴殿の詩には典故表現が多く用いられており、塾生に解説しながら聞かせております」。
 ところで、「博覧記誦を崇んだ érudit 」(神田喜一郎『日本填詞史話』上、第十二節)と評される松平君山を師と仰いだ新川には寛政11年(1799)刊の和文随筆『秉穂録』があり、東陽にはこれをふまえて書いた記事がある。例えば、先の橘南谿の条で言及した「橐吾能毒の事を記す」で、前半は橐吾の効能の話だったが、それには続きがあり、後半には尾州のとある村でその毒にあたって亡くなった塾のこどもと手習いの師匠との話を記しているが、これは『秉穂録』第一篇巻下に見えるのによるものである。
 また『秉穂録』のほか、寛政7年(1795)刊の『彼此合符』(『日本藝林叢書』四に収録)があり、その博識ぶりを発揮して和漢の類似する故事逸話を抄出するが、こうした新川の著述は東陽にも刺激を与え、『薈瓉録』などにも影響を及ぼしているではないかと思われる。

※岡田新川については、同門同甲の磯谷正卿(字は子相、通称覚左衛門、号は滄洲。元文2年[1737]~享和2年[1802])に「新川先生遺愛碑」があり、『芳躅集』(『名古屋叢書』第二十五巻、雑纂編(二)に翻刻)の人部に収載。『秉穂録』は、『日本随筆大成 新装版第一期第20巻』(吉川弘文館、昭和49年)に収録。
 なお、新川に関する論考として田中秀樹『朱子学の時代―治者の〈主体〉形成の思想』(京都大学出版会、平成27年)第五章「一八世紀後半、尾張藩儒石川香山と岡田新川とのあいだ」、高橋博巳「尾張文人と朝鮮通信使」(「国語と国文学」平成29年11月号)がある。田中・高橋両氏の論考からは、新川のみならずその周辺の人物やそれに関する伝記資料などについて多大の教示を得た。

 秦滄浪(宝暦11年[1761]~天保2年[1831])

 名は鼎、字は士鉉、滄浪はその号。三河刈谷藩儒秦峨眉の子。寛政2年(1790)尾張藩に仕え、明倫堂典籍、教授並となる。同9年辞職。東陽より4歳下。
 『詩鈔』巻十に「尾藩の秦士鉉海を渡って旧を訪ぬ。留歓すること累日、景山大夫の別墅に邀宴し、韻を分かちて惜春を賦す。士鉉明日まさに告別せんとす。余、年は古希に近く、士鉉も亦た耳順をゆ。再会期す可からざるなり」と題する七絶がある。景山大夫は、藤堂高芥(天明5年[1785]~天保11年[1840])のこと。詩の配列からすると、文政4年(1821)の作で、時に東陽64歳、秦滄浪は60歳。

  芳園伴客醉花茵  芳園 客に伴ひ花茵に酔ふ
  五十餘年久要親  五十餘年 久要の親
  莫怪老懐向隅泣  怪しむことかれ老懐隅に向って泣くを
  惜春併惜欲帰人  春を惜しみ併せて帰らんと欲する人を惜しむ
◯芳園 花咲く庭園。李白「春夜桃李の園に宴するの序」(『古文真宝』後集巻三)に「桃李の芳園に会して天倫の楽事を序す」と。◯花茵 美しい敷物。◯久要親 古い付き合い。◯老懐 老人ならではの感傷。◯向隅泣 西晋・潘岳「笙の賦」(『文選』巻十八)に「衆堂に満ちて酒を飲めども、独り隅に向って涙を掩ふ」とあり、李善注に『説苑』貴徳篇に「今、堂に満ちて酒を飲む者有り、一人独り索然として隅に向ひて泣く有らば、則ち一堂の人は皆楽しまざるが如し」というのを挙げる。

「華やかな宴席の隅で涙にくれているのを怪訝に思わないでほしい。行く春と去る君との別れがせつないのだ」。
 この詩によれば、東陽が15の歳から3年、医術を学ぶため尾張に遊学していたころに知り合ったらしいが、その経緯詳細は不明。このことは、すでに津坂治男氏に指摘がある。また同氏によれば、津藩の有造館設立に際し、東陽は文政2年(1819)夏に尾張藩校明倫館を見学に訪れたことがあり、その節は秦鼎のつてを頼って願い出たらしい。(『小治田之真清水』第一巻、学館乃起源)
 なお『詩鈔』では、この次に「送別」詩があるが、滄浪との別れを詠じた作であろう。

  白髪相逢自有涯  白髪相逢ふは自らかぎり有り
  咽來老涙惨離懐  咽び来たる老涙 離懐惨たり
  河梁囘去渾如病  河梁かへり去ってすべて病むが如し
  一向蒙衾臥雨齋  一向衾を蒙りて雨斎に臥す
◯離懐 別れのつらさ。盛唐・岑参「六月十三日水亭にて華陰の王少府が県に還るを送る」詩に「失路情は適ふ無く、離懐思ひは堪へず」と。◯河梁 送別の地をいう。前漢・李陵の作とされる「蘇武に与ふ三首」其三(『文選』巻二十九)に「手を携へて河梁に上る、遊子暮れにいづくにかく」と。◯一向 ずっと。◯渾如病 中唐・姚合「白賓客を辞して帰りし後に寄す」詩(『全唐詩』巻四九七)に「家人我を怪しむ渾て病むが如きを」と。◯蒙衾 布団をかぶる。

「貴君とここで別れてからはすっかり気ぶせいて、ずっと布団をかぶったまま書斎に臥して雨音を聞いていることでしょう」。

※岡田新川・恩田仲任・秦滄浪については、前掲、細野要斎『尾張名家誌』に小伝がある。『名古屋市史 人物編第二』(名古屋市役所、昭和9年)の記述はおおむねそれに拠る。なお、尾張漢字の全体像ならびに特徴については、佐野公治氏の「尾張の漢字」(「新しい漢字漢文教育」第34号、平成14年)に簡にして要を得た紹介がある。

 西河子発(享保19年[1734]~寛政6年[1794])

 名は瑛・景瑛、字は子発。通称甚助。号は菊荘。もとは名古屋の人で、浅井氏。海西郡鳥地とりがんじ村(現、弥富市鳥ケ地)の西河景長の養子となり、尾張藩家老志水甲斐に仕えた。著に『孝女曾与伝』『尾藩孝子伝』がある。東陽より17歳上。
 東陽が京に遊学する以前、尾張での作に七律「夏日、西河子発が隠居に題す」詩(『詩鈔』巻四)があり、「半仙」と称して世間から半ば身を退き、詩琴酒を楽しみ仏法僧に帰依した彼の姿を詠じている。さらに天明の大火後、郷里にもどり仕官のつてを求めて各地を遊歴していた(とはいっても尾張がほとんどのようだが)時期には士発のところに寄宿したことがあった。「途中小雨、夕べに至って快晴」と自注を附した七律「尾州鳥地村にて西河子発の隠居に寓宿す。士発、佐野生等を招き小集す。因って四韻を成す」詩(『詩鈔』巻四)に云う、

  湖海忘機與世疎  湖海 機を忘れ世とうと
  閑中樂事只耽書  閑中の楽事 只だ書に耽る
  菰烟蘆雨漁人路  菰烟蘆雨 漁人の路
  竹塢梧垣隱士居  竹塢梧垣 隠士の居
  縱是先生常閉戸  たとひ是れ先生常に戸を閉ざすも
  能無長者自𢌞車  能く長者の自ら車をめぐらす無からんや
  高亭風月凉天夕  高亭の風月 凉天の夕
  觴咏相留興有餘  觴咏相留りて興餘り有り
◯湖海 江湖。民間。◯忘機 機巧の心をなくす。俗念を忘れる。李白「終南山を下り斛斯山人を過ぎる」云々と題する詩に「我酔へば君も亦た楽しみ、陶然として共に機を忘る」と。◯与世疎 世間(官界)と疎遠になる。南宋・劉克荘の七絶「真舍人の江西に帥たるを送る八首」(『後村先生大全集』巻二)に「身已に民と為りて世と疎し」と。◯菰烟蘆雨 水辺のこもあしにかかる靄や雨。明末清初・銭謙益の七絶「戊戌新秋の日、吳巽之が孟陽の画扇を持して題を索む。為に賦す十絕句」其四(『有学集』巻九)に「菰烟蘆雨白紛紛」と。◯竹塢 竹を植えた土塁。晩唐・劉滄の七律「友人の郊居を訪ぬ」詩に「竹塢莎庭故居に似たり」と。◯梧垣 梧桐の垣。銭謙益の七絶「戊戌の中元(中略)偶々王孟端の画竹を見てみだりに題す二絶」其二(『有学集』巻九)に「竹埤梧垣久しく陸沈す」と。◯閉戸 『蒙求』巻上の標題に「孫敬閉戸」と。◯長者 高貴なお方。『史記』陳丞相世家に「家はすなはち負郭の窮巷、弊席を以て門と為す。然れども門外多く長者の車轍有り」と。杜甫の五律「雨に対して懐を書し走らせて許主簿をむかふ」詩に「座に賢人の酒に対し、門に長者の車を聴かん」と。◯高亭 (見晴らしのよい)高い亭。◯觴咏 酒を飲み詩を詠む。〈咏〉は、詠と同じ。東晋・王羲之「蘭亭の記」(『古文真宝』後集巻四)に「糸竹管絃の盛無しと雖も、一觴一詠、亦た以て幽情を暢敘するに足れり」と。

この人は『尾藩孝子伝』に掲げられた松平君山の天明3年87歳の序に「西河子発は余が門人なり」というようにその門下で、君山の七律に「鳥地に遊んで西子発に和す」詩(『弊帚集』巻五)がある。もっとも、中年にして世を避け、晩年は子供相手に書を教えていたらしい。やはり序を寄せた同門の岡田新川には、その死を悼んだ七律「西河子発を哭す」詩(『ちやう園詩草』巻四)があり、次のように詠じている。

  擔嚢笈負事吾師  嚢をになひ笈を負ひて吾が師につか
  藝苑周旋彼一時  藝苑周旋す彼も一時
  早謝塵紛稱隱逸  早く塵紛を謝して隠逸と称し
  晩將書法課群兒  晩に書法をもつて群児に課す
  生前自適忘憂物  生前自適す忘憂の物
  身後猶留入夢詩  身後猶ほ留む夢に入る詩
  何料奄然登鬼録  何ぞはからん奄然えんぜん鬼録に登らんとは
  空含涕涙勒新碑  空しく涕涙を含んで新碑をろく
◯擔嚢負笈 宋・祝穆『古今事文類聚前集』巻二十三、人道部、師に「擔囊負笈」の条あり、「吳商は故の鄣人。学は五経百氏に通ず。四方の学ぶ者囊を擔ひ笈を負ふ、げて数ふ可からず」と。『書言故事』巻三、遊学類に「遊学を笈を負ひて師に従ふと曰ふ。漢の蘇章、笈を負ひて師を追ふ。千里を遠しとせず」とあり、「笈は書箱」と注する。◯吾師 松平君山のこと。◯周旋 立ちまわる。◯彼一時 あの時はあの時。『孟子』公孫丑下に「彼も一時、此れも一時なり」と。◯塵紛 ごたごたとした俗世間。◯忘憂物 酒のこと。晋・陶潜「飲酒」其七(『古文真宝』前集巻二に「雜詩」として収載)に「此の忘憂の物にうかべ、我が遺世の情を遠くす」と。◯入夢詩 後述の新川の碑文に亡くなる前に「夢中に句を得」それが絶筆となった逸話を載せる。◯奄然 たちまち。◯登鬼録 死ぬこと。〈鬼録〉は、冥界にある死者の名簿。鬼籍。『東坡志林』巻六に「二君皆已に鬼録に登る」と。◯勒 石に彫る。なお、子発の墓は鳥ケ地の弥勒寺にあり、法号は「海徳院騰雲石龍居士」。岡田新川の碑文を刻す(『芳躅集』の天部に収載)。

 ところで、西河子発の住む鳥地村は、伴藁渓『近世畸人伝』巻一に登場する竹の画を善くした儒者宮崎筠圃(名は奇、字は士常。通称常之進。享保2年[1717]~安永3年[1774])の出身地で、18(後述『尾藩孝子伝』では17)のとき父母に従い京に遷るまで過ごしたところであった。孝行で知られた筠圃については『尾藩孝子伝』に伝があり、それによれば子発は筠圃の「外戚の従弟」である。ちなみに、新川に五絶「西河氏の画竹に題す」詩(『鬯園詩草』巻四)があるように、子発もよく竹を画いたらしい。また東陽に「宮筠圃の事を記す」(『文集』巻八)があり、森銑三「宮崎筠圃」」(『森銑三著作集第四巻人物篇四』)に書き下し文を載せる。

※西河子発の『孝女伝』や『尾藩孝子伝』については、市橋鐸『なごや本綴足』(文化財叢書48)に解題があり、『孝子伝』は愛知県海部郡十四山村教育会編『宮崎筠圃先生伝』(昭和13年刊)に紹介され、『愛知県教育史 資料編近世二』(愛知県教育委員会、昭和59年)に翻刻が収められている。また宮崎筠圃については、福井小車の条に挙げた中村幸彦「宮崎筠圃と古義堂」も参照。


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