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覚書:津阪東陽とその交友Ⅲ-同郷の先輩から女弟子まで-(9)

著者 二宮俊博


附㈢ 女弟子―富岡吟松

 女弟子と言えば、清・袁枚(字は子才、号は簡斎。1716~1797)のそれが有名で、『随園女弟子詩選』が刊行されており、我が国では頼山陽の例もよく知られているが、東陽にも彼に師事する女性がいた。それが次に紹介する富岡吟松である。

※中国における〈女弟子〉についての研究に、合山究『明清時代の女性と文学』(汲古書院、平成18年)の「第五篇 男性詩人と女弟子」がある。

 富岡吟松(宝暦12年[1762]~天保2年[1831])

 初名は文、後に徳章、号は吟松。伊勢津の人。東陽より5歳下。
 『詩鈔』巻十に七絶「女弟子富岡文娘に贈る」詩がある。文政元年(1818)から3年の間の作。

  三冬文史理家餘  三冬の文史 家ををさむるの餘
  微爾孤兒奈邈諸  なんぢかりせば孤児 べうしょいかんせん
  彤管風流殊不易  彤管とうくわん風流 ことやすからず
  才名欲喚女相如  才名 ばんと欲す女相如と
◯三冬文史 冬三か月の農事の暇に勉学すること。『漢書』東方朔伝に「上書して曰く、臣朔、わかくして父母を失ひ、長じて兄嫂に養はる。年十二、書を学び、三冬文史用ふるに足る」と。◯微爾 この表現、杜甫の五古「北征」詩に「爾微かりせば人ことごとく非ならん」と。〈微〉は、もし…がなかったならば、の意。古くは『論語』憲問篇に「管仲微かりせば」云々と。◯邈諸 弱小であること。〈邈〉は藐と同じ。〈諸〉は語助辞。『左氏伝』僖公9年に「初め献公、荀息をして奚斉にたらしむ。公む。之を召して曰く、の藐諸孤を以て、かたじけなく大夫に在り。其れ之を若何いかんにする」と。◯彤管 紅い筆筒。古代の女史が用いた。『詩経』邶風「静女」に「静女其れ孌たり、我に彤管をおくる」と。ここでは、女流の意。◯女相如 前漢の司馬相如は辞賦に優れていたので、詩文の才ある女性を女相如と称した。晩唐・馮贄「南部煙花記」(『重較説郛』第六十六)に隋の煬帝から合歓水果を賜った呉絳仙が紅牋に詩を書して謝意を示したところ、帝は「絳仙の才調は、女相如なり」と讃えたという話を載せる。

 この詩には、「文娘は府下の商家のむすめ、兄弟つとに歿し、善く親につかを幹し孤を撫す。家すたるるを得ず、業益々興隆し、称して中興と為す。真に女丈夫なり矣。わかり学を好み、詩を能くし書を善くす、亦た以て女博士と為す可きなり」という自注が附されている。〈幹蠱〉は、事を取り仕切る意。もとは『易経』蠱卦・初六に「父の蠱を幹す、子有ればちちも咎無し」とあるのから出た語。〈蠱〉は、(壊敗した)事の意。〈女博士〉の語については、三国魏・曹丕のけん皇后に、「九歳にして書を善くし、字を視ればすなはち識」った甄后が兄から針仕事を習え、学問して女博士になるつもりかと言われた逸話がある(『三国志』魏書・甄皇后伝の裴松之注に引く『魏書』)。
 吟松がいかなる人であったかは、この自注からもあらかたは知られよう。女手ひとつで衰退していた家業の吳服店を切り盛りし商売繁盛をもたらしたばかりか、学問を好み詩をよくし書にも秀でた教養豊かな女性であったのである。
 さらに、これより先、七絶に「(ママ)岡文娘が詩巻に題す」詩(『詩鈔』巻八)がある。

  清心玉映美名芳  清心玉映 美名芳し
  彤管風流藻思揚  彤管風流 藻思揚ぐ
  許爾女中詩博士  なんぢに許す女中の詩博士
  金針度與繍鴛鴦  金針度与す繍鴛鴦
◯清心玉映 心ばえが清らかで玉のように輝く。『世説新語』賢媛篇に「顧家の婦は清心玉映、自ら是れ閨房の秀なり」と。◯彤管風流 前掲、「富岡文娘に贈る」詩にも同様の表現。◯藻思 詩文の才。◯詩博士 清・吳偉業の七律「西泠の閨詠四首」其二に「紫府の高閑 詩博士、青山の遺逸 女尚書」と。◯金針云々 〈金針〉は、中唐・白居易に『白氏金針詩格』三巻の著(『宋史』藝文志八)があるとされたことから、作詩の秘訣をいう。〈度与〉は、人に与える、伝授する意。宋・恵洪の七絶「韓子蒼に与ふ六首」其四(『石門文字禅』巻十五)に「鴛鴦繡出するは看るにす、金針をりて人に度与することかれ」と。

「そなたは女性の詩博士といってもよいでしょう、作詩の秘訣を教授してから目をみはるようなよい詩を作られるようになりました」。この詩は、文化5年(1808)の作。
 同じく七絶に「文娘の春暁に和す」詩(『詩鈔』巻八)がある。

  玉漏丁東曉夢醒  玉漏丁東 暁夢醒め
  碧梅香撲插花瓶  碧梅 香はつ插花の瓶
  春烟殘月西窓柳  春烟残月 西窓の柳
  勾引嬌鶯枕上聞  嬌鶯を勾引して枕上に聞く
◯玉漏 水時計の美称。初唐・蘇味道「正月十五夜」詩に「金吾夜を禁ぜず、玉漏相催すことかれ」と。◯丁東 水時計の音。双声語。晩唐・温庭筠「織錦詞」に「丁東として細漏瓊瑟を侵し、影は高梧に転じて月初めて出づ」と。◯碧梅 色鮮やかな梅花。『夜航詩話』巻四に「詩に碧字を用ゆ、多く鮮明の貌を称す。色を謂ふに非ざるなり」として、杜詩の二例を挙げ「其の清麗を謂ふなり。白雲白桃を碧雲碧桃と曰ふも、亦た此の義なり」と指摘。◯嬌鶯 かわいらしいウグイス。杜甫の七絶「江畔に独り步み花を尋ぬ七絶句」其六に「留連する戯蝶は時時に舞ひ、自在なる嬌鶯恰恰に啼く」と。◯勾引 引き寄せる。杜甫の七古「風雨に舟前の落花を看て戯れに新句を為る」詩に「影は碧水に遭ひてひそかに勾引せられ、風は紅花を妬み却って倒吹す」と。

「明けがた夢から覚めてうつらうつらしていると、花瓶に挿した梅花の香に引き寄せられてウグイスが枕元で囀る」。
 また吟松は詩会を催すこともあったようで、七絶「吟松女史、諸詞客をむかへて、雨中桜花を賞す」詩(『詩鈔』巻九)には、次のように詠じられている。

  春院無風静雨聲  春院風無く雨声静かなり
  好將觴咏暢幽情  觴咏しゃうえいもつて幽情をばさん
  夕陽似與詩人慰  夕陽 詩人に慰めを与ふるに似たり
  略放花梢一片晴  ぼ放つ花梢一片の晴
◯春院 〈院〉は、屋敷の中庭。◯觴咏 酒を飲み詩を詠む。〈咏〉は詠と同じ。下文の語釈参照。◯幽情 心の奥底にある憂い。東晋・王羲之「蘭亭の記」(『古文真宝』後集巻四)に「糸竹管絃の盛無しと雖も、一觴一詠、亦た以て幽情を暢敘するに足れり」と。

「しとしと降る雨に静かに飲み詩を吟じ心のびやかにしている間に、夕陽から詩人への贈り物、梢の花を照らしてくれました」。
 このほか五絶に「文娘の春興に和す」(『詩鈔』巻六)があるが、これは省略する。
 吟松が東陽に教えを乞うようになったのは、文化4年(1807)11月に東陽が津に召還されて以降のことらしく、そのことはすでに津坂治男氏が説いておられるが、富岡の家業もその数年前には女史の奮闘努力のかいあって旧に倍する繁盛ぶりをみせるようになっていたようだ。その一端は皆川淇園の文化2年作「富岡氏藏集書画冊の首に書す」という一文からも窺える【資料編④】。
 東陽は「書を善く」した吟松女史に、讃岐丸亀の人で京極家に仕え才女の誉れが高い井上通女(万治3年[1660]~元文3年[1738])の五律と和歌とを書き写させたことがあった。通女が江戸で仕えた藩主の母堂養性院が津の第三代藩主了義公高久の姉にあたり、弟に宛てた礼状として代作したのが伝わっていたのである(『文集』巻七、[留春巻に跋す])。ちなみに、通女については『夜航詩話』巻五にも取り上げるが、そこには女史についての言及はない。
 ところで、吟松女史が晩年意を尽くした事業があった。それは東陽の遺著の一つ『古詩大観』を上梓することである。
 美濃大垣の女流詩人江馬細香(名は多保、裊とも表記。号は湘夢。天明7年[1787]~文久元年[1861])に七律「吟松女学士の七十を寿ことほぐ」詩(『湘夢遺稿』巻下)がある。〈女学士〉は、才学ある女性の称。

  讀書千巻力堪支  読書千巻 力 支ふるに堪ふ
  當日曾逢傾厦時  当日かつて傾厦に逢ひし時
  興業正聞因女手  業を興すはまさに聞く女手に因ると
  持家何必在男兒  家を持すは何ぞ必ずしも男児に在らん
  半生娯樂閑風月  半生の娯楽 閑風月
  百歳脩齡小鶴龜  百歳の脩齡 小鶴亀
  隔世關心事鐫梓  世を隔てて関心すせんを事とするを
  木蘭孔雀兩篇詩  木蘭孔雀 両篇の詩
◯読書千巻 盛唐・岑参の七古「独孤漸と別れをふ長句、兼ねて厳八侍御に呈す」詩に「憐れむ君白面の一書生、読書千巻未だ名を成さず」と。◯当日 そのかみ。◯傾厦 ここは家業が傾く。◯持家 家業を維持する。『三国志』魏書・王昶伝に「未だ名をもとめ利を要し、欲して厭はず、而して能く身を保ち家を持し、永く福禄を全うする者有らざるなり」と。◯閑風月 風流閑雅な世界。『詩人玉屑』巻十九、龍洲道人の条に「筆下に閑風月を放開し、胸中に旧甲兵を収斂す」と。◯脩齡 長寿。◯鶴亀 中国でも長寿の象徴として併称した例は、中唐・柳宗元「端午綾帛衣服を賜るを謝する表」(『柳河東集』巻三十八)に「仙衣を被て鶴亀も寿を斉しくす」とみえる。◯隔世 時代を隔てる。◯関心 気にかける。◯鐫梓 上梓する、刊行。

 この詩には「近ごろ孔雀東南飛・木蘭二詩を刻する有り」という自注を附す。細香の師たる頼山陽は「両首、僕の常に喜び誦する所、吟松は何人ぞ。能く之を表章す、真に可人なり」との評語を加えている。〈可人〉は、才徳ある人物の意。
 東陽には、長編叙事詩「孔雀東南飛行」(別名「焦仲卿の妻の為に作る」)と「木蘭の辞」とに漢文による訓釈を施して上下二巻として『古詩大観』と名づけた著述があった。それぞれ巻末に後世の評論を載せるほか、「木蘭の辞」の場合は、唐人王惲『幽怪録』の「尼妙寂」(東陽は明示していないものの、明・陶宗儀輯『重較説郛』一一七に収録。なお、この「尼妙寂」は、中唐・牛僧孺『玄怪録』にも見えるが、もとは晩唐・李復言『続玄怪録』から出るものらしい)や『説郛』(『重較説郛』一二一)に見える中唐・李公佐「謝小娥伝」それに清・張潮編の『虞初新志』巻七に載せる徐仲光「奇女子伝」などを附し、清・趙翼(1727~1814)の『陔餘叢考』巻四十二、「女扮為男」の条から女性が男装した例を挙げるのを引くなどしている。本書には天明戊申(8年)冬至除夜の自序があるものの、『陔餘叢考』は乾隆55年すなわち寛政2年(1790)の刊で、舶載されたのが寛政10年であることからすれば、東陽が目睹したのは、それよりももっと遅くなるはずで、折々に加筆したものと思われる。さらに下巻末には「追って古詩大観の後に書す」という一文を附している。追書の内容については、「文化十一・十二年の江戸」の大田南畝の項で紹介したので、ここでは改めて取り上げないが、「孔雀東南飛行」が無理やり仲を引き裂かれた元夫婦の情死を主題にしたものだけに、一藩の文教に関わる立場からすれば、公刊するにあたっては「演劇院本(浄瑠璃や歌舞伎)の、鶉奔狐綏じゅんぽんこすいの行(男女間の乱れた行い)を叙し、風教に害有る者」に類するものではないこと明確にし、取り扱いを慎重にせざるを得ないとの判断が働いたと思われる。〈鶉奔〉は『詩経』よう風「鶉之奔奔」、〈狐綏〉は衛風「有狐」をいう。
 吟松は、師東陽から校正を委嘱されたこの著述を上梓するのに尽力したのである。文政13年(1830)に刊行をみた本書には、東陽が初代督学を務めた藩校有造館において後に第三代督学となる斎藤拙堂が文政9年作の後序を寄せており、その中で次のように記している。

津阪東陽先生、かつて孔雀・木蘭の両篇を訓釈し、末に又た隋唐以降奇女子の木蘭に類する者を附載し、名づけて古詩大観と曰ふ。女弟子富岡氏、命を受け其の書を校す。先生没するに及び、てて此れを刻し、予に題言をもとむ。劉氏、女子の貞をくし、木蘭、大夫の節を以て、皆人倫の変に処す。奇と謂ふ可し矣。但だ劉氏の節、情に出で、所謂いはゆる婦人吉なる者なり。木蘭の孝義憤発、巾幗きんくわくを脱して鉄衣をけ、父に代はりて遠征するに至りては、則ち豪勇を幹し、婦女子を以て視る可からず、之を千古の奇と謂ふも可なり矣。むべなり先生特に意を此に致すや。(中略)又たひそかに疑ふ富岡氏、先生の命を受けて此の書を校する、女子の事に非ずと。これを識る所の人にふに、すなはち其の事業此れに止まらざるなり。氏、名は徳章、号は吟松。府下の大賈某のむすめなり。けい歳始めて書を読む。父母に請ふに処子を以て終はらんと。強いて後ゆるさる。刻苦益々甚だし。吟詠筆札、鬱として閨中の秀と為る。年三十をへ、父母皆没す。二弟及び婦も亦た相継いでく。其の家と素封、三年、五喪連なり、げつ無きに至る。家産愈々益々堕つ。氏、慨然自ら奮ひて曰く、先鬼まさえんとす。優游自適の時に非ずと。自らちうを操り、門戸に当たり、又たかさになくつみ、往来して上国に回易して、貲貨の出入り米塩しんすうの細に至る、みな当を失せず。家僮数百指、帖然聴命、敢へて力をつくさざるし。養ふ所の義弟已に長じ、ために婦を娶り祀を承け、ほ看護十餘年、家愈々益々富み、父の時に倍す。すなはち一室に退棲し、復た旧業を修め、風流自ら娯しむ。未だかつて佗志有らず。或いは其の終身寡居、中道に非ざるを議す。然れども孝義器幹、先業を既に堕ちたるに振るひ、自ら一副の女丈夫と為る。木蘭の事無しと雖も、木蘭の節有り。先生の付託、人を得たりと謂ふ可し矣。(後略)
◯婦人吉 『易経』恒卦、六五に「其の徳を恒にして貞し。婦人は吉なれど、夫子は凶なり」と。◯巾幗 女性の髪飾り。◯鉄衣 よろい。◯幹蠱 事に任ずる。◯捐貲 資金を拠出する。◯笄歳 十五歳。『礼記』内則に「(女子は)十有五年にしてかうがいし、二十にして嫁す。故有れば二十三年にして嫁す」と。◯処子 未婚の女性。◯閨中秀 『世說新語』賢媛篇に「顧家の婦は清心玉映、自ら是れ閨房の秀なり」と。『書言故事』巻二、女子類に閨秀の条がある。◯素封 大資産家。『史記』貨殖列伝にみえる。◯孑遺 のこり。◯先鬼将餧 跡継ぎがおらず、供え物をしてまつる者がいないと先祖の霊は飢え苦しむことになる。◯牙籌 ここは算盤のこと。『晋書』王戎伝に「戎、性興利を好み、毎日牙籌を執り、昼夜算計し、恒に足らざるがごとし」と。◯擔簦 かさを荷う。『史記』虞卿伝に「蹻をみ簦をになひて、趙の孝成王に説く」と。◯上国 上方。京大坂。◯回易 自国の産物を持ってゆき、先方のそれと交換して持ち帰ること。◯薪芻 たきぎとまぐさ。◯家僮 使用人。◯帖然 従うさま。◯看護 見守る。後見。◯中道 道義にかなうこと。◯器幹 仕事の能力。◯一副 ひとそろい。ここは一箇の意に用いる。◯女丈夫 女傑。

 後掲の『三重先賢伝』によれば、吟松は自ら「嘯月亭吟松墓」と墓表の文字を書し、裏面に東陽の七絶「女弟子富岡文娘に贈る」詩とその自注とを刻させたという。それは、吟松にとって迂余曲折はあっても己れの志した文雅の道を生きた証であり、東陽から女弟子として認められたことは自らの誇りとするところであった。

※富岡吟松については、浅野松洞『三重先賢伝』(昭和6年。後に東洋書院から昭和56年に復刊)参照。『津市史第三巻』(津市役所、昭和36年)第五章第十四節「富岡吟松と定礎」に見える吟松の記述はおおむね拙堂の文章によっている。さらに門玲子『江戸女流文学の発見』(藤原書店、平成10年)にも吟松への言及がある。なお、井上通女のことは、天囚西村時彦『学界乃偉人』(梁江堂、明治44年)に詳しいが、門氏の前掲書にも一章を割いて詳しく取り上げられている。また門氏には『湘夢遺稿』の訳注『江馬細香詩集「湘夢遺稿」』上下(訂正版、汲古書院、平成6年)ある。


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