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「ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観ろ」とDMをくれたあなたへ、感謝の手紙を送りたい。

拝啓

日増しに寒さもつもり、かじかむ指に風情を感じるこの季節、いかがお過ごしでしょうか。私といえば、先日ご紹介いただきました『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を鑑賞し、情緒はグチャグチャになり、目は腫れ夜も眠れず、この頃ずっと「愛」について考える日々を送っております。

どうしてくれるんですか。あなたのせいです。

 それは9月の中頃、夏の終わりを認めないかのように強情に着込んでいた半そでのシャツをとうとうクローゼットにしまい、長袖へと衣替えを迎えた季節、一通のDMが届いた。

「ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観ろ」

 いや、まずは名乗れよ。誰なんだお前。未だに信じられないことですが、神絵師でもえっちな自撮り投稿が趣味の女の子でもないこの私に、見知らぬ何者かがDMを送り付けてきたのです。「ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観ろ」という、あまりに直球で飾り気もない、それ以前にマナーや常識も無いこのDMを一旦は無視し、見なかったことにした私。ですが、あまりに強烈な出来事とセットで目にしたせいか、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』なる単語を刷り込まれた私は日に日にその作品のことが気になり始めていたのです。

 名前だけは知っていた。劇場で予告編を観たことがあった。劇場版が公開されるやいなやTLのみんなが号泣し始めた。みな口々に「ヴァイオレット・エヴァーガーデンはいいぞ」と言い始めた。今度はリアルでお会いしたことのあるアカウントの主から熱烈な推し文書が届いた。今思えば、ネタバレに最大限配慮しつつ、作品の世界観や設定を解説し隙あらば同じ沼に私を陥れようとしていた。その間、最初に怪文書を送り付けてきた謎の人物からの音沙汰は何もなかった。誰なんだお前は。推し作品のプレゼンの前におまえのプレゼンをしろよ。

 一度だけ、DMの相手に返信を送ったことがあった。なぜ私なんですか。どこかで絡んだことがありましたか。あなたが思う『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』の魅力とは何ですか。なんだか怖くて、出来るだけ丁寧な文章を添えて送った初めてのDMに、お返事は来なかった。なんでだ。オタクにとって初見の感想は最高のご馳走じゃなかったのか。それを目当てに私に近づいたんじゃないのか。あなたは私のnoteのファンじゃなかったんですか。私がその『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観て狂う様を、ブランデー片手に見物するのが愉悦じゃなかったんですか。お望みのものを見せてあげるから、返事をくださいよ。

 とは言ったものの、足取りは重い。現在進行形で世界を蝕むご存じ“アレ”のせいで未だかつてないレベルで仕事が忙しくなり、労働基準法を逸脱しながら消耗する日々を送る始末。それに、「必ず泣ける」と薄々感づいている作品を観るのって、なんかしんどくないですか???泣くのって体力がいるし、そうした作品は咀嚼するために必要なエネルギーが物凄いのは、シャニマスで痛いほどわかっていた。それ相応のコンディションが整わないと食指が伸びず、忙しいを理由に本編を観ないまま、9月と10月は光の速さで過ぎていきました。

 そして季節は11月。ずっと気がかりだったその作品が、なんとドルビーシネマで公開されるという。まさに天啓、青天の霹靂。日本の新作劇場用アニメーションのドルビーシネマは初公開! の売り文句に惹かれ、今度こそヴァイオレットを観ようと決意するに至りました。全13話と30分のTV未放送話と、90分の外伝。それすら観る時間がないくらい日々のほとんどを職場で過ごしていたものの、最後に人が売り渡せるのが時間と臓器、これは古事記にも書いてある。そして寝る間も惜しんでヴァイオレットちゃんに会いに行き、本当に眠れぬ夜を過ごしました。責任を取ってほしい。長くなりましたが、ここからが本編です。どうか最後までお付き合いください。

「“愛してる”の欠片に触れるまで」のTVシリーズ

 19世紀のフランスやドイツによく似た、架空の世界のとある国々は、長きに渡る戦争が終わったばかりだった。その戦争で「武器」として扱われ、戦闘兵器として数々の戦歴を挙げた少女ヴァイオレットは、自らの両腕と大切な人を失った。戦うことしか知らず、まるで感情が欠けたようにさえ見えるヴァイオレットは、恩人であるギルベルト少佐の陰を追うことしかできない。彼女の心に残るのは、別れ際に聞いた「愛してる」という言葉。
 その言葉の意味を知りたくて、でもそれさえ叶わない。退院したヴァイオレットは、少佐の友人であるホッジンズ元中佐が興した郵便会社で働くことになる。そこには、手紙の代筆を行う自動手記人形【ドール】と呼ばれる女性が働いていた。依頼人の伝えたい気持ちを汲み取り、文字にしていくドールのお仕事。「愛してる」を知りたいヴァイオレットは、ドールとして働きたいと社長のホッジンズに直訴する。

「お客様がお望みなら、どこでも駆けつけます。自動手記人形サービス、ヴァイオレット・エヴァーガーデンです。」

 大きな戦争が終わった直後の世界。そこでは字を書く能力を誰しもが持つわけではなく、そうした人たちのために「代筆家」が必要とされた時代でした。タイプライターを武器に、社会で働くために能力を磨き美麗な語句を並べる女性たち。そんな代筆家の女性たちはみな「ドール」と呼ばれ、その宣伝文句には「ステキな女性」とあるように、何やら容姿も問われる職業らしい。そこになんだか一抹の“イヤなもの”を抱きつつ、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがその世界に飛び込んできた。

 ヴァイオレットの仕事は、“作業”としては申し分ありませんでした。タイプは早くて正確、疲れ知らずゆえに休憩を取らずに長時間の作業が可能。命令に従うのが使命である「軍人」として生きてきたヴァイレットは、人間離れした体力と集中力であっという間にタイプを習得、目にもとまらぬ早さで正しい文言を並べることが出来るように。ですが、代筆家としてはそれでは失格。ドールに求められるのは依頼主の言葉をただ正確に書き記すのみにあらず、その言葉の裏に隠された本音や、本当に伝えたい想いを汲み取って、「手紙」という形に仕立て上げるというもの。戦場に生きてきた、感情表出も表現も不器用なヴァイオレットには、お世辞にも向いているとは言えません。

 当初のヴァイレットは、ありていに言えば人の心が「わからない」女の子でした(なんと推定14歳!!)。人がどういう時に悲しみ、何に喜びを感じるのか。感情が無いのではなく、心の中に浮かんだ「それ」を何と呼んでいいのかわからない。戦争の道具として育てられ、ギルベルト少佐と別れるその寸前まで、ヴァイレットは命令に従うだけの「犬」でしかなく、生き抜くために必要ではなかった、人の心の機微を読み取るという高度な技能を求められます。人の気持ちは、時に言葉とは裏腹である。額面通り正確に言葉を受け取ってしまっては、代筆業は務まりません。

「…心を伝えるって、難しいね」

 人間とはこと不器用なもので、周囲に気を遣って本心を飲み込んだり、相手を大切に想うばかりに色んな感情が混ざり合って、本当に伝えたかった一つを見失ったりする生き物です。だからこそ人は、代筆業を訪ねたくなるのかもしれません。心の底に沈んでしまって取り出せなくなった本当の気持ちを、ドールが掬い上げ「手紙」として形に残してくれたとき、その想いは伝えたかったその人に届き、同時に依頼主は無くしてしまった本当の想いを取り戻すことができます。そのお手伝いをするのが自動手記人形【ドール】の真の役割と言えるのではないでしょうか。

「手紙だと届けられるのです。素直に言えない心のうちも、届けられるのです」

 ヴァイオレットのドールとしてのお仕事は、彼女が人間らしさを取り戻すための旅のようでした。クール前半の6話までは、ヴァイオレットは依頼人と真正面から向き合い、その本心を拾い上げようと少しずつ努力を重ねていく物語。誰にも言えない夢を持つ先輩と家族にごめんなさいを伝えたい先輩、結婚相手の本当の気持ちが知りたいお姫様、本当にやりたいことに踏み出せない青年。その人たちに寄り添い、まるでカウンセラーのように相手の心を解きほぐし、解放に導いていくヴァイオレット。ヴァイオレットは「手紙」の効力を知り、それが誰かの救いになることを肌で感じます。同時に、彼女の中に燻る中佐への想い、それを表す「ことば」をも学んでいく。

「私は、あの方と離れて『寂しい』と感じていた」

 想いを伝えたい相手に会えない、その時感じる胸の中の痛みを「寂しい」と呼ぶのだと、ヴァイオレットは知りました。それは、「愛してる」を知る重要な手がかりの一つになったはずです。想いを伝えたい相手が側にいない。会いたいけど会えない、だから「寂しい」と感じる。これは言わずもがなですが、ヴァイオレットが知りたいと切望していた「愛してる」は彼女自身の心の中にもあって、でも彼女自身はそれがそうであると気づいていない、わからないのです。だからこそ、本当は最初から持ち合わせていた感情こそが求めていたゴールであること、そこに一歩一歩ヴァイオレット自身が近づいていく様子に、私たちは狂おしいほどに愛おしいと感じるのでしょう。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を観る私たちは、ヴァイオレットがその気持ちに「愛」と名付けられるようになるその日を、祈りながら待ち続けていたのです。

「届かなくていい手紙なんて、ないのですよ」

 続く7話より、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品は、「手紙」という文化そのものの価値や尊さをも描いていきます。戦争の兵器という過去を背負うヴァイレットは、たくさんの命を奪った事実からは逃れられません。そしてそれは、誰かが想いを伝えたかった相手を殺し、その機会を永遠に奪ってしまったことを意味します。そのことに気づき、身を焼かれる苦しみを負うヴァイレオット。同時に、少佐は戦場から見つかることは無く、未帰還兵として処理され墓が建てられていた事実を知ります。

 自分に生きる意味をくれた人の喪失。大勢の命を奪った自分が、このまま自動手記人形でいてもいいのか、生きていていいのか。苦悩し続けるヴァイオレットを救ったのも、やはり「手紙」でした。

 手紙は、書いた人の想いが詰まったもの。ヴァイオレットを案じる人たちの想いがつまった手紙を受け取り、かけがえのない宝物を手にします。そしそれは、ヴァイオレットがこれまでに経験してきた旅ともリンクします。ヴァイオレットが手紙に救われたように、彼女の手紙で救われた人たちもたくさんいるということ。どんなにその手が血で汚れていたとしても、その事実もまた覆せません。そのことに気づき、少佐の最後の命令である「生きて、自由になりなさい」を全うするために、ヴァイオレットは再び歩き出します。消えそうになる想いを、繋ぎとめるために。

「エイダンを帰してくれて、ありがとう」

 そして10話と11話、ヴァイオレットは苦しみながらも、依頼人の最期に向き合い、想いを届けようと奮闘します。死期を悟った母親と、今まさに命の灯が消えそうな兵士。この二つのエピソードでは、親子愛と異性愛の二つが描かれ、その想いは手紙という形で届けられます。

 本来、「愛」とは抽象的で、目に見えないものです。だからこそロマンティックであり、同時に読み取るのも表現するのも難しい。その上で本作が「手紙」というモチーフを選んだことに意味が生じてくるからこそ、この二つのエピソードが大きく反響を呼ぶのでしょう。

 命は有限で、いつかは消えていってしまいます。愛してると気づいても、相手がそこにいなくては伝えることも叶いません。ですが、手紙とは「目に見えて、触れることができる“モノ”としての愛情表現」であることを、ヴァイオレットと視聴者は強く10話と11話で印象付けられます。たとえ命が尽きようと、届けたい愛をこの世に遺すことができる手段、それが手紙です。ヴァイオレットはその愛を運ぶ媒介者となり、哀しく苦い結末に直面し涙しながらも、たくさんの「愛」に触れ、それを自らの手で紡ぐ経験を得ました。痛みを伴うものの、彼女にとっては大きな成長のエピソードです。

 愛に触れ、愛を綴る。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品は一人の少女がたくさんの人の想いを背負い、誰かの心に寄り添い、自分を獲得する作品でした。ヴァイオレットが誰かを想って泣いた時、傷つきながらも成長していった彼女の姿に、親心が爆発してこちらも泣きだしてしまった。

 誤解を恐れず言えば、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はとにかくベタです。奇をてらった展開もなく、察しがいい人はなんとなくオチが想像できてしまうような、意地悪な言い方をすれば“手垢がついた”物語。ただそれでも、上質な映像と音楽、キャラクターの細かい仕草の表現や声優さんの熱演などなど、あらゆる要素が上質で、隙が無い。王道を真正面から描くことの破壊力を改めて思い出させてくれるのが、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』という作品の真骨頂に思えてなりません。胸のブローチの輝きのように「美しい」を極めた映像作品に、私も心を揺さぶられてしまいました。

愛おしいにもほどがある『外伝』

 ところで、本作にはTV未放送話の『スペシャル』と、初の劇場公開作品でもある『外伝-永遠と自動手記人形-』も併せて配信されているのですが、この外伝がヤバい。何がヤバいって、描かれる感情の全部がヤバい。

 みなさん、百合って好きですか???????

 すみません、誤解を受けそうな表現がありましたので訂正します。正しくは「恋愛や友情という言葉には収まらない、女の子と女の子の“とくべつ”な結びつきのお話は好きですか??????????????????」ですね。はいそこのあなた、正直でよろしい。

良家の子女のみが通うことを許される女学校。淑女たることを学び、求められるこの学園は、イザベラ・ヨークにとっては牢獄そのもの。周囲の学友も父親も、全てを疎ましいと感じながら日々を生きるイザベラの前に現れたのは、教育係として雇われたヴァイオレット・エヴァーガーデンだった。

 本作において、ヴァイオレットはドールとしてではなく、淑女を養成するための教育係として派遣されます。果たして務まるのか?と思ったのも束の間、おそらく前もってマナーや作法を勉強したのか、あるいは元軍人の規律じみた行動に馴染みがあるのか、ヴァイオレットは完璧な振る舞いで女学生たちの憧れの的に。そんなヴァイオレットに劣等感を抱くイザベラは、身体が弱く淑女の在り方も馴染まない。ヴァイオレットの存在を快く思わないイザベラでしたが、ふとしたきっかけで彼女の過去と境遇を知り、心を開き始めます。

 この。先生と生徒でありながら、同時に対等な友達、みたいな関係性がね、いいんですよね……(良い)。イザベラは学風には染まらない自分らしさでヴァイオレットに接し、ヴァイオレットも「友達なら当たり前」に触れ、少しずつ態度が柔らかくなっていく過程がね…。そして最高のシチュエーション、「お互いの髪を編む」ですよ!!!!!!!!!この威力!!!ここだけでワインが飲める。ありがとうございました。

 二人は、実は似通った境遇を持ち合わせていました。お互い、誰かに拾われた孤児である、という共通点。そしてイザベラは、血の繋がらない妹・テイラーの存在を明かします。ここからの怒涛の展開については、言うまでもないでしょう。TVシリーズで描かれた様々な愛のカタチに加え「姉妹愛」という新たなカテゴリーが、エモーショナルにも程があるストーリーと共に大胆なエントリー。離れ離れになってしまった姉妹が、「手紙」によって間接的に再会し、お互いが生きる希望を新たに胸に宿すエンディング。これに泣かない人類がいます???

 と、エモの馬力に打ち震えている中、実はこの外伝はTVシリーズから4年後の未来が描かれます。そうなれば必然、アン・マグノリアの元には亡き母からの手紙が少なくとも三度は届き、そしてヴァイオレットは少佐に会えなくとも自分の足で歩いて、ドールとして生き続けてくれました。それを踏まえて、いよいよ劇場版、決戦の朝を迎えました。

「ヴァイレット・エヴァーガーデン」という伝記のゴール、約束の地。『劇場版』

 ドルビーシネマ公開に向けて過去作を全て観ると決め、原作小説まで買いました(未読)。今日この日を迎えただけでも感無量、公開初の週末にファンが駆け付けたほぼ満席の劇場の中に一人、初見の私がいました。替えのマスクと厚手のタオルハンカチを持参して準備万端。そんな私が2時間半の上映終了後どうなったかは、皆さんも初見時を思い出してみてください。

 TVシリーズ、外伝から続く今回の『劇場版』は、たとえばヴァイレット・エヴァーガーデンという一人の女性の人生を描く伝記があるとすれば、その最後の章になるような、そんな物語でした。兵士として、自動手記人形として、数々の人の生と死に関わり、たくさんの人の想いを届け続けたドールが、親元を離れ最後の旅に出て、伝説になる。その伝記の語り手として登場するのは、なんとあのアン・マグノリアの孫だという少女デイジー・マグノリア。彼女の視点を通じて再映される第10話「愛する人はずっと見守っている」の光景に、劇場ではすすり泣きの大合唱が起き始める。

 本作はヴァイオレット・エヴァーガーデンが辿った功績を丁寧になぞり、彼女が三か月先まで予約でいっぱいの人気ドールに成長したことが明かされます。そしてその間、文明の発達に併せ電話や電灯が人々の生活に到来し、手紙やドールの優位性が脅かされる現実も映し出していく。ある意味、自動手記人形という存在そのものの死が迫る中で、手紙が、ドールができることとは何なのだろう。

 ある日、ヴァイオレットはC.H郵便社にかかった一本の電話をきっかけに、大病を患い余命わずかの少年ユリスからの代筆の依頼を受けることになる。ユリスは自分が死んだ後に両親と弟がそれを読んで、元気になる手紙を書いてほしいとヴァイオレットを頼る。しかし、どうやらもう一人、ユリスには想いを伝えたい相手がいることに気づくヴァイオレット。
 一方、ホッジンズは宛先不明の手紙が保管される倉庫の中で一通の手紙を見つけた。その筆跡と宛先から、未帰還となっていたギルベルト少佐の生存に一縷の望みを見出す。

 病に侵され余命いくばくもない人物が、家族へ手紙を遺す物語。冒頭の回想と併せて、「あざといな」と一瞬でも思った罪をお許しください。確かにTVシリーズ10話のシチュエーションを再利用したかに見える少年ユリスとのエピソードですが、10話では手紙を渡される側の少女アンの視点から描かれたのとは対照的に、今回は手紙を遺す=いずれ死す人物とヴァイオレットの交流を真正面から描いており、より重く心に圧し掛かります。ヴァイオレットはユリスの想いを受け止め、会社の規則を破って(到底足りない依頼料でも仕事を請け負った)でも代筆を行います。手紙が後世まで遺り、誰かの希望となり続けるのは、アン・マグノリアからその娘、そして孫のデイジーにまでヴァイオレットの存在が波及し続けていたこととも呼応します。

 ユリスから両親と弟への手紙を代筆し終えるヴァイオレット。ユリスは「自分が死んだ日にこれを渡して」と託し、二人は「指切り」で約束を交わします。しかし、ユリスにはもう一人、本心を伝えたい人がいました。追加で代筆を請け負うヴァイオレットでしたが、ユリスの体調が悪化し執筆は後日となった矢先、思いもよらぬ知らせを受けます。ギルベルト少佐が、生きているかもしれないー。

 代筆によって数多の人を救ってきたヴァイオレット。彼女が最終章たる本作で向き合うのは、他の誰でもない少佐自身でした。終戦後、ブーゲンビリア家にも戻らず世界を転々とし、今は遠いエカルテ島で名前を捨て教師として生きてたギルベルト。彼の心に暗い影を落とすのは、身寄りのない少女を育て、名を与え寵愛したにも関わらず、戦争の道具として使い、両腕を失わせてしまったこと。ギルベルトはその罪悪感に押しつぶされる寸前でした。そのことと真正面から向き合えず、島に来たヴァイオレットを追い返してしまいます。

 確かにそこにいるのに、家のドア一枚すら超えられないヴァイオレットとギルベルト。慟哭し、雨に濡れ身も心もボロボロになるヴァイオレットの姿はとても痛ましい。それでも彼女は、彼の身を案じ島を出る決心をします。ユリスの件があったにせよ、少佐が会いたくない/会えないのなら自分は会わないと、少佐の生存の事実を支えにこれからも生きていくことをホッジンズに申し出ます。これもまた、彼女なりのギルベルトへの「愛」の形でした。

 その代わり、ヴァイオレットは一通の手紙を少佐に残します。ギルベルトに会えるかもしれないとわかり不安に苛まれ、想いを伝えられないのではないかと悩んだ彼女が、いつも依頼人に諭したように、本当の気持ちを文章に綴りました。

「手紙だと届けられるのです。素直に言えない心のうちも、届けられるのです」

 その手紙によって、ギルベルトは真の意味で救われます。一人の少女の人生を奪った加害者、という側面は確かに消えません。ですが、ヴァイオレットの人生に意味を与えたのも揺るぎようのない事実なのです。ヴァイオレットはギルベルトを恨んでなどおらず、伝えたいのはただただ「愛してる」の一言だけ。その想いに突き動かされ、二人はついに再開を果たします。片腕が無く手紙を持ちながらでは「涙を拭ってあげられない」と語るギルベルトと、「手紙にしたら伝えられる」想いをいざとなっては言葉にできないヴァイレットのリアルな感情表現、二人が互いを想うがゆえの優しさに満たされたこのシーンは、今年観た映画の中でも最も美しい光景でした。

 展開は前後しますが、ユリスとのエピソードも、哀しくも美しい物語として観客の胸を打ちました。ヴァイオレットがエカルテ島を訪れている最中、ついにユリスが危篤となってしまう。約束を果たしたくとも、もう間に合わない。そこでヴァイオレットとホッジンズは、アイリスとベネディクトに全てを託します。ですが、衰弱しきったユリスではもう一人の手紙を送りたい相手であるリュカへの手紙の代筆を果たすことができず、想いが伝わらないままになってしまう。そこでアイリスは「電話」でユリスとリュカを繋ぎ、本来代筆するはずだった想いを言葉で紡ぐ様を見届け、その後ユリスは息を引き取り、ヴァイオレットとの約束は代理にて果たされました。

 電話の到来により手紙・ドール文化の衰退をいち早く感じ取っていたアイリス。そんな彼女が「電話」という手段を自ら選び取るシーンは、自動手記人形が手紙の代筆家ではなく「想いを伝えるお手伝いをする」という本来の役割に立ち返り、そのための手段は決して手紙のみにあらず、ということを示しています。だからこそ彼女は安堵と共に「良き自動手記人形の証」に触れ、その尊さを胸に刻んだのでしょう。

 一方で、手紙は文化として廃れようとも、その存在価値は変わりません。TVシリーズで描かれたように、手紙は後世に遺り、触れ、読み返せるものです。ユリスの想いは手紙として現世に留められ、両親と弟の支えとなるでしょう。ただ死を哀しみとしてだけ描くのではなく、これから生きる人のために最期に“自分”を遺そうとした人たちの思いやりに触れ、涙する。これもまた紛れもない、「愛」のかたちでした。

旅の果て。

 「ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観ろ」という一言から始まり、二週間のスピードラーニング。観始めるきっかけは不可解で、「noteのネタになるぞ」と動機も不純でした。でも今はハッキリと、「出会えて、よかった」と言えます。同時に、これだけ人の心を震わせる作品を紡いできた人たちが、理不尽な暴力で命を落としてしまった現実に、改めて激しい怒りを感じました。想いは伝えられる時に伝えなくてはならない。本作の印象的な台詞が今では、胸に突き刺さって消えません。

 手紙といえば小学校の授業で書いたきりで、今では封書といえば請求書か納品書を送るだけ。あくまで業務の一環で、誰かに想いを伝えるために手紙を書くなんてことは、メールアプリやSNSが手放せなくなった今、選択肢に挙がることすらありません。

 そんな時代でも普遍的に本作が人々の心に刺さるのは、私たちはコミュニケーションにおける過去の過ちから無意識的に「伝えたいことを正しく伝える」手段を希求し、誰かと気持ちを「繋げる」ことを求めてきたからでしょうか。勿論、ネットを介してずっと繋がり続けなければならない現代に窮屈を感じる側面もありつつ、疎外や孤独は何よりも恐ろしい。『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を通じて私たちは、想いが他者に届く瞬間に喜びを感じ、そこに秘められたエピソードに涙する。その極致として用意された劇場版のラストシーンは、「愛と愛」が正しく繋がり成就する、この世で最も美しいものでした。その尊さを知ってほしくて、人は「ヴァイオレット・エヴァーガーデンを観ろ」になるのでしょう。皆さんの熱いプレゼンに、心から感謝します。

 最後に、不思議なDMをくれた、このnoteを読んでくれているかさえわからないあなたへ、「ありがとう」が伝わりますように。

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