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「もしかしたら」を重ねたら

 キフライが嫌いだ。カキフライと言うよりも、牡蠣に火が通った食べ物が嫌い。
それなのに、今日は、カキフライが無性に食べたい。そんな気分になって、仕事の手をとめた。大体、いつも仕事中に思考の邪魔をするのは、自分の食欲だ。「お腹がすいた。」と言うゴングが静かに鳴らされ、頭の中は、それまで考えていた新規顧客の獲得方法や新しい事業の構想から少しずつ、食べ物に浸食されていく。

 しばし、考えた末、頭の中に浮かんでいるのは、恵比寿にある古い定食屋のカキフライだということに気づいた。定食セットで1300円ほどのカキフライは、店のメニューの中で一番高い値段がついている。

 定食屋へ昼間に行ったことはない。大抵は、休日の昼下がりか、仕事をサボろうと決めた夕方だ。
あの日も、その当時付き合っていた年上の彼と仕事途中で待ち合わせをした。「アジフライでも食べながら、ビール飲もうよ。」まだ外は明るくて、駅前はごった返していた。平日の16時というビジネスマンが一番忙しそうな時間帯に、ビールを飲む背徳感はたまらない。日が陰った夕方は、少し冷えてきて、茶色のファーのついた薄いグレーのダウンコートのポケットに手を突っ込んで、足早にお店に向かった。
 
 店は、恵比寿大通りの片隅にあるのに、街に置いていかれたような懐かしさを放っていて、コンクリの床、冬なのに開け放たれたドアとカウンター、深い緑のナイロンのかかった丸いすが並んでいる。寒さがそれほど気にならないのは、大きな厨房から、揚げ物やチャーハンを炒める火がついているからかもしれない。
 カウンターですでに飲み始めていた、ボサボサの頭の彼が手を振っていて、これは1日仕事をサボったなとニヤつきながら、コートのまま隣の椅子に座った。アジフライとポテトサラダはすでに、半分以上食べられていて、先を越された気持ちで「おじさん、瓶ビールをもう1本」と店の人に声をかける。
 しばらくして、シンプルなコップと大瓶のビールが出てきた。手酌でビールを注いでいると「次は、カキフライどう?」と聞かれた。どう?って、私が一番苦手とする食べ物じゃないかと思いつつ、ニッコリ「いいね。」と返した。私は、些細なことを伝えるのが苦手だ。

 出てきたカキフライは大きくて、その大きさに少しげんなりしながらも、屈託なく笑って口に含んだ。牡蠣のミネラルを感じる苦味とパン粉に染み込んだ少し酸化した油の味、ウスターソースが絡み合って、それは口全体に広がり、対処の仕方がわからなくなって私は慌てて飲み込んだ。カキフライはやっぱり嫌いだ。私は、些細なことを伝えるのが苦手だ。
その年上の彼とは、それから半年ほど付き合って別れた。

                ◇

 カキフライを食べてみたくなった欲求はどんどん高まって、それは同時に好きな人に会いたい欲求にもつながる。
 美味しいものは好きな人と食べたい。食という時間と共有することは、セックスをする時間と同じぐらい重要だ。あの咀嚼する口元を見てみたい。好きな人は、カキフライをどう食べるのだろう。

 夕食の時間には、まだまだ時間があるので、好きな人を食事に誘ってみた。
「カキフライ食べに行かない?」
電話口から一呼吸おいて、「カキフライ嫌い。」とかえってきた。彼は、いつも正直だ。
「なんかさ、カキフライだけは美味しいって思えなくて。ワインでも飲もうよ。」と尋ねられる。
「ワインいいね。私も実は、カキフライ嫌いなんだ。火を通した牡蠣が嫌いなの。」と答えたら、大笑いしながら「だったらなんで?」と聞かれた。
それもそうだ。誘っておいて嫌いなんて。
「たまに食べてみたくなるんだよね。もしかしたらって。」
「それって興味深いね。僕には無かった発想だ。」彼は、いつも正直だ。
結局のところ、私たちは、赤ワインと牛肉でその日の夜を過ごした。

「もしかしたら」は大抵期待を裏切ってくる。いつも、やっぱりねと落胆で終わるのだけど、それをわかってるくせに、「もしかしたら」がやめられない。
「もしかしたら」を重ねたら、ある時「すごく美味しい」って思うかもしれない。あの時別れた彼をまた「素敵だ」と思えるかもしれない。

 アンガス牛のステーキを口に入れて、雑な咀嚼する好きな人の口元とワインで少し濡れた口ひげを眺めながら、「もしかしたら、いつか私のことを好きになってくれるかもしれない。」と思った。

それは、彼には無い発想だ。

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