雨に濡れる窓、貴方の背中

35度を超える猛暑日が
昨日まで続いていた。
唸るような暑さに心身ともに
ダメージを負っていたからか
久し振りの雨は少し嬉しかった。
でもそういう日に限って営業で外回り。
お気に入りのパンプスはびしょ濡れで
ボーナスを奮発して買ったカバンも
雨粒のせいで、少し色が濃くなっている。
おまけに暑さも残っていたから
全身から力を奪うジメジメさも強烈だった。
会社に戻れば帰れると思っても
今の天気のように気分は晴れない。
そんな今日はプレミアムフライデー。
全く、プレミアム感はなかったけれど
それも日常だから、もう慣れた。
山手線のホームで電車を待ちながら
スマホを取り出し、LINEを確認する。
同僚の真由美からの合コンの誘いに
公式アカウントからの宣伝が届いていた。
真由美に返事を打ち込んでいるうちに
電車が到着するベルの音が聞こえてきた。
スマホの操作を一旦止めて
目の前に止まった電車の扉が開くのを待った。
押し出されたかのように勢いよく
下車する人たちはどこか行き急いでいる。
それくらい余裕のない表情ばかり。
乗車するなり、汗と香水を配合された
鼻につく匂いが嗅覚を刺激した。
少し顔を歪めてしまう。でも次の瞬間には
ちょうどいい感じに効いている
冷房の風を感じながら、空席を探していた。
もう社会人になって5年になるからか
どんな劣悪な状況でも空席を探すのが
癖になっていることに気付いた。
しかし下車した人の割に席は空いておらず
仕方がなく開かなかった扉の前に立つことにした。
雨が窓に映る私の姿に向かってぶつかるように
容赦なく打ち付けて、更に萎える気持ち。
LINEを開き、返信の文章を打ち込み送信。
すぐに返信が付くと思ったけれど
真由美からの返信おろか既読も付かなかった。
手持ち無沙汰でなんとなく顔を上げる。
車内案内表示装置ではニュースが流れており
猛暑日が続いているという情報が目に飛び込んだ。
そういえば学生の時は、猛暑日なんて言葉は
世間に流布されていなかった。
「将来の話だけどな、真夏日の上に
猛暑日ってのができるから覚悟しとけよ」
大半の生徒が机の上に突っ伏している
つまらないとされる地学の授業中に
先生は少しふざけた口調で言った。
誰一人返事をしない沈黙の時間が流れ
気まずい空気が教室に広がったけれど
先生は何も気にしていないように続けて
「もし、猛暑日って言葉が公式にできたら
オレの顔を思い出せよ。オレの予想は当たるから」
なんて言いながら見せた
クシャっとした笑顔にドキッとした。
背が高いのに猫背。
整っている顔に似合わない丸眼鏡。
少しくすんだ白衣。
バリエーションの少ないネクタイ。
意外に生徒から人気がなかったのは
恐らく地学と生物が担当だったからだろう。
英語とか体育なら少しは違っただろうに。
いつもそんな風なことを思って授業を受けていた。
正確には先生の後ろ姿を見つめていたんだけど。
「猛暑日」という単語で蘇ってきた思い出に
浸っているとスマホが震えた。
合コンのスタート時間と場所や
更にメンバー構成が簡潔に綴られている。
そのメッセージの後に真由美の意気込みが
送られてきたので、適当なスタンプを送った。
外を眺めるとさっきよりも雨は強くなっており
曇った空と遠くの方にはビル街が目に入った。
「はやく雨、止まないかなぁ」
そこからしばらく学生時代の思い出を
振り返りながら電車に揺られた。
雨の日になると先生は同級生が使うような
ボロボロで、小さめのビニール傘で登校していた。
「新しく大きい傘を買った方がいいですよ」と
何度か指摘したけれど、私が卒業するまで
ビニール傘を変えることはなかった。
「あぁ。よくなくすから、これでいいんだよ」
いつも子供っぽい言い訳を口にして
私の意見をサラリとかわしていたっけな。
確かに傘自体は何度も変わっていたけれど。
卒業式の3日前に都内の百貨店に行って
貯めたバイト代で黒いこうもり傘を買った。
卒業の日、お世話になった先生への
感謝の言葉と買ったこうもり傘を渡した。
生まれて初めての告白もこの日だった。
先生は一瞬困った表情を浮かべたけれど
私の頭を優しく撫でてくれた。
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど
お前の気持ちには応えられない。
それとこの傘も……」
先生が傘を返そうとしたのを拒むように
首を横に振り、内心泣きそうだったけれど
平静を装って用意していた言葉を伝えた。
「これは進路相談とか色々お世話になった
感謝の気持ちです。自分のバイト代で
買った傘なので気にしないでください。
でもよかったら使ってくださいね。
今使っている傘よりも絶対先生に似合いますから」
先生はさっきよりも困った顔になっていて
なんだか悪いことをした気がしたけれど
先生は私の心を見通したかのように頷き
差し出した傘を受け取った
「……大事に使わせてもらうよ。
あとな、これだけは言っておく。
こういう気遣いのできるお前は
絶対に幸せになる恋ができるよ」
授業で時より見せる笑顔を私だけに向けて
優しい言葉を送ってくれたことだけで
私は嬉しくて満たされた気分だった。
一礼して、私は踵を返して歩き出す。
涙でぐちゃぐちゃな顔を見せたくなかった。
すると先生の声が背中越しに聞こえた。
「オレの予想はよく当たるから、
これからお前はちゃんと恋をしろよ」
耳に残った言葉は、今も鮮明に思い出せる。
目的地手前の駅に到着し
私が立っている側の扉が開いた。
流れを邪魔しないようにしたが
思ったよりも下車する人が多くて
仕方がなく、私も降りることにした。
乗車の列の一番後ろに並んで
改札へと繋がる階段をぼんやりと眺めた。
スーツ姿ばかりの群れの中で
こうもり傘を持っている男性に目に入る。
階段を上る猫背には見覚えがあった。
「先生」
気付けば、小走りで階段に向かっていた。
人の波をかき分け、カラオケでも出さない
大きな声で「先生」と叫んだ。
誰もが私を一瞥し、すぐに視線を戻した。
ただ一人を除いては。
振り返った猫背の男性は
相変わらず似合わない丸眼鏡を掛けている。
バカみたいに叫んだ私の姿に気付いたのか
彼は持っていた傘を掲げ、笑顔を浮かべた。
手にもっているこうもり傘は間違いなく
私がプレゼントしたものだった。

文責 朝比奈ケイスケ

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