BAR自宅、梅酒のミルク割
バーには黒猫がいる。
テーブルの向こう側に座る、真っ黒ツヤツヤの毛並みと金色の目、くたくたのやわらかい体が自慢の、ねこが。
とくとくとく、と耳に心地よい音を立て、琥珀色の液体が透明なグラスに注がれていく。それはグラスの半ばほどを埋めたところでボトルの口を上げられて、ゆらりと揺れて光を映した。
6畳ひと間の1K。マットな質感の白いテーブルは小さいけれど彼女の厳選したお気に入りで、部屋の隅のアッパーライトがオレンジ色に丸く縁を染めている。
揃いで買ったスツールは背もたれともいえないわずかな湾曲があるだけで、寛ぐには少し辛いが、金曜の夜には満を持して出番となる。
座らされた黒猫は、ちょっとぐらついて落ち着かないなといつも思う。
こつりとテーブルに置かれたボトル。それから彼女は、準備してあったミルクポットを手に取った。琥珀の液体に、それをゆっくり垂らしていく。
マドラーでくるりくるりと混ぜれば、柔らかにとろみのついた梅酒のミルク割の完成だった。
金曜の夜、自宅はバーになる。
ドレスコードなし、チャージ料なし、マスターは相席の黒い猫――の、ぬいぐるみ。
飼い主の彼女は少し擦り切れたTシャツ姿で、まだ少し濡れた髪をかき上げて自分のためのとっておきの一杯を作っている。彼女はこの場の客であり、自身のためのバーメイドである。
「今日はね」
マドラーを置き、十分に混ざった梅酒を手にスツールに腰を下ろす。
淡い間接照明に揺らしながら行儀悪く肘をついても、ここでは咎める者もない。マスターとふたりきり、無礼講だ。
「朝起きて仕事に行って、残業もこなしてきた」
黒猫に向かって彼女は話す。猫は、ただ座っている。
「天才の所業だよ」
ひひひと笑って、お気に入りのグラスに口をつけた。くっと喉を反らして三分の一ほどを一気に飲む。それから長い溜息。
疲れを吐き出すようだった。
こういうとき、黒猫は少し苦しい。疲れた彼女を慰める言葉がなくて。
天才だ天才だと自分を褒めそやしながら、もうひと口酒を飲む。それから思い出したように冷蔵庫へ向かうと、ドライフルーツの袋を持ってきた。袋ごと置こうとしてから少し迷うそぶりを見せて、もう一度キッチンへ戻って白い皿を持ってきた。ふたつみっつ、可愛らしく並べる。
酔いたい気分ではないのだろう。猫はつまみの少なさからそう推察した。
もう半分ほどに減ってしまったグラスの中身をチビチビと飲みながら、イチジクを少しかじる。口元に一筋落ちかかるパーマの取れかけた髪を指先で耳にかけ、オレンジに染まるテーブルをぼんやりと眺めている伏せがちな目元に、薄く消えないクマ。
ヒトも猫のように、気楽に生きればいいのに。
どうやらそうはいかないらしい。
「……明日は休みだね」
ようやくだ、と言って、今日の客はほっとしたように笑った。
「ねこ」
彼女が呼ぶ。黒猫に名前はない。
「ねーこ」
愚痴聞き役のマスターは、ひょいと手に取られてただのぬいぐるみになった。呼ばれるまま、抱かれるままにその温かい腕の中にくったり収まって、火照った頬の頬擦りを受け入れる。グラスを握っていた手のひらだけはほんの少し冷たかった。
「今週もがんばったよ」
そうだね、と猫は応える。応えたつもりである。まあ飼い主に伝わらないことは知っているが、それで構わないのである。
週末開業のBAR自宅。マスターは真っ黒猫のぬいぐるみ。
バーメイドは彼女ひとり。
客もいつも彼女ひとり。
今夜は閉店。
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