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【S60】映画

 電話の相手は相良と名乗った。日曜の夕方で、幸子は娘と買い物に出掛けていて、家には俺しかいなかった。
 相良? 誰だっけ? と最初ピンと来なかった。高校名を言われて、ああ、あの相良か、同級だったやつ、と思い出した。しかし、もう10年以上、会ってない。
「思い出した。すげえ久しぶりだな。どうした?」
「実は山本にさ、折いって頼みたいことがあって」
 悪い予感がした。
「金、貸すとか無理だかんな。あと、変な投資話とか乗らねえぞ。あと、連帯保証人とか。あと」
「待てよ。そんなんじゃないって。変わらねえな。金には困ってねえよ」
 半笑いで対応された。
「じゃ、なんだよ」
「いっぺん会えないかと思ってさ。時間作れないか」
「あと、宗教関係もだめだかんな」
「わかってるよ。そういうんじゃないよ。無理ならいいんだ」
 言葉に冷えた何かがあった。高校時代の相良の仏頂面が浮かんできた。なにか、このまま断れないような感じがした。
「頼みってなんだよ」
「だから、会えたら、そこで話すよ」
「電話じゃ言えねえのか」
「顔を見て、話したいんだ」
「会えなかったら、話さねえでいいのかよ」
「よかないけど、諦めるよ」
 少し考えた。
「俺だけ? 幸子は」
「サッちゃんはいい。ていうか、サッちゃんには内緒にしておいて欲しいんだ」
 幸子に内緒とはどういうことだ。逆に興味が湧いてきた。
「次の金曜ならあいてるが」
「いいよ。時間と店はこっちで決めていいか」
「安いとこな。居酒屋とか」
「じゃあ、まかそうか」
「神木駅の北口に、焼き鳥のチェーン店ができたんだよ。"とりよし"ってさ。そこで7時でいいか」
「いいよ」
「てか、お前、今どこ住んでんだよ」
 相良は神木駅から四つ離れた駅の名前を言った。
「総合病院のあるところか」
「ああ、今、そこに勤めてる。内科医だ」
 そうだ。相良は、医学部へ進学したんだった。頭のいいやつだった。やっぱりあの仏頂面を思い出すな。やつはどうして、ああいつも不機嫌そうな顔をしていたんだろう。
 受話器を置いて、急に懐かしさがこみあげた。それは、相良だけへの懐かしさではなく、置き去りにした青春そのものへの懐かしさかもしれなかった。
 金曜日、約束の時間に、約束した居酒屋の暖簾をくぐった。

 相良はビールの注がれたコップを持ち直し持ち直しする。会ってみると、10年の時間は、あっという間にたくし込まれた。思い出話をしばらくした後、相良は俺への頼み事を語った。
 コップから溢れるばかりに立っていた泡はすっかり潰れ、ビールはもう麦茶のようだった。
「悪いな。馬鹿なお願いで」
「何が」
「サッちゃんはもうお前の奥さんだし」
「お前が幸子と会ったからって、どうこうなるなんて俺は思っちゃいないさ。それに、もう完全にお母ちゃんだぜ」
「それはそうなんだろうけど。変なこと言ってるなって、自分でもわかるけど」
「そんな気にするんなら、俺も行こうか」
「いや、二人で会いたい。お前は知らないことにして」
「おいおい。旦那に内緒で会いたいってか」
「だから、予めことわってる。お前が嫌なら会わない」
「そんなこと言ったって、幸子が俺に言ったら? 相良くんに誘われたって」
「サッちゃんがお前に言うなら、別にそれはいい」
 相良の申し出に、正直いい気持ちはしなかった。幸子のことをサッちゃんと言うのにもなんとなく腹が立つ。
「二人で会ってどうするんだよ」
「映画を一本見たいんだ」
「どんな」
「なんでもいいんだ。2時間。二人で映画を観れれば、それでいい」
 ぬるくなったビールを相良ははあおった。
「お前に言う話じゃないかもしれないけど、好きだったんだ。勿論、サッちゃんがお前を好きだとはわかっていた。そこまで鈍感じゃない」
「ああ、お前の気持ちは知ってた」
 知ってたが、知らないふりをしていた。それは幸子も同じだろう。
「どうして今なんだ」
「実は今度海外に行くことにしたんだ」
 相良は、紛争地帯へ医療支援に向かうと言う。もう何年も紛争が続いている土地だ。
「正気かよ」
「正気だ。もう決めたんだ。病院も三月で辞める」
「やめとけよ。命が幾つあったって足りねえよ」
「決めたんだ」
「決めたって、どれくらい行ってるつもりだ」
「それは、わからん」
「わからんって、帰って来れんのか」
「わからんが、帰って来れない覚悟はある」
「それはお前がーー」の後が続かなかった。
「ご両親は」
「勿論反対した。ただ最後は、お前がそうしたいんならすればいい。独り身だし、お前の人生は好きにすればいいって許してくれたよ」
「お前、爺さんの医者継ぐとか言ってなかったか」
「医院はとっくに廃業してる。爺さんも大学時代に死んじまった。全く、誰のために医者になったんだか」
 自嘲してビールを舐める。
「でも、やっぱ医者になれんのはすごいよ。俺なんか、しがない営業マンだよ」
「サッちゃんは」
「あいつは中小メーカーの技術職」
「でも楽しいだろ」
「そうだなぁ。毎日、疲れるが、楽しいちゃ楽しいかな」
「漫画はもう描いてないのか」
「描いてるさ。社内誌に四コマ漫画。評判なんだぜ」
「そうか。いいじゃない」
「だろ。捨てたもんじゃねえって。で、お前はどうなの」
「俺か? 俺はこないだの手術で、ヨッちゃんの知り合いの人を救えなかったよ」
「それって、もしかして」
「町田さんだ。俺が手術した。まあ、もう転移進んでたから、手術しても腫瘍は取りきれなくてさ。それよりも思ったより出血もあって」
「手術自体がうまくいかなかったのか」
「誰がやっても難しいだろう。土台、手術に耐えられるだけの体力もなかった。でも、本人がどうしてもって、意志が固かった。自分は戦うんだって言ってたな。もう逃げたり自分を責めたりする生き方はしたくないんだって。自分の人生の選択は自分がしたいって」

 手術後、ご家族に経緯を告げて、休憩に入った。疲れ果てて、ふらふら歩いて売店に向かったら、待合室の側のテレビが映っていた。紛争地のニュースだった。粗末な担架で次から次に人が運ばれていた。病院の中も映ったが、とても病院と言えるようなものではなかった。助からないな。漠然とそう思って、そう思った自分が急に怖くなった。こんなに冷静でいいのかって。勿論医者は常に冷静でなくてはいけないが、俺の冷静さには、血が通っていなかった。

 口を挟まなかった。挟めるものではなかったし。もしかしたら、相良は誰かに吐き出してしまいたかったのかもしれない。
「治療する医療スタッフも映った。薬がない。包帯もない。医者が足りない。医者は言っていた。私たちは毎日懸命に治療して、毎日沢山の人を見殺しにしているって」
 グラスを持つ相良の手を見る。繊細な女の手のように見える。だが、華奢なこの手が、多くの命を救ってきた。それは誇っていいはずなのに。
「毎日。毎日だ。恐らく彼に交代の要員はいない。次から次にくる患者を懸命に治療し、疲れて倒れるまで治療を続け、短い時間仮眠をとって、また治療を続ける。彼らは、外国からの支援チームだった。それを見てて、怖くなったんだよ。ここでこうしてテレビを見ている自分が怖くなった」
 わかる、とは言えなかった。わかるとは理解できるということだ。俺は相良ほどにその状況を理解しているとは言い難かった。たぶん同じようなニュースを、俺も見ただろう。何度も見ただろう。でも、俺はわからなかった。わかろうとしなかった。
「いつ、行く」
「五月だ。ヨーロッパのどこかでレクチャーを受けて、中旬には現地に入る」
「レクチャー?」
「紛争地だからな。知ってないと危険なこともある。それから、向こうは圧倒的に医薬品が不足している。その中で、どう治療を進めるか教わる」
「医薬品の支援はそんなにないのか」
「あるが、中抜きされて横流しされるんだよ。医薬品は高く売れる」
「そんなとこで、満足な治療なんてできないだろ」
「満足な治療をするために行くんじゃないさ」
 そうだ。その通りだ。俺はビールの追加を注文し、すっかり冷めてしまった焼き鳥を温めて直してくれるよう頼んだ。
「わかった。もう訊かないよ。でも、ひとつアドバイスがある。髭生やせよ。顔が怖くなる。不衛生かもしれないが、生やした方が役に立つだろう」
「わかった。アドバイスありがとう」
 笑った顔は、思いがけず人懐っこかった。
「それから映画の件な。なんで映画なんだ?」
「お前はもう忘れてるかもしれんがな。高校の時、お前がサッちゃんを、映画に誘ったんだよ」
「へえ、覚えてない。なんて映画だった?」
「ドラゴンへの道。ブルースリーの」
「げ。本当か」
「で、お前、サッちゃんだけ誘うのが恥ずかしいもんだから、俺も誘ったんだよ」
「そうかあ。いや、すまんなあ。そうかぁ」
「嬉しかったよ。学生時代の俺は、自分ながら本当に嫌なヤツだった。でも、俺が嫌なヤツのとき、ちゃんと喧嘩してくれて、そうじゃない時は、普通に話してくれたのは、お前とサッちゃんだけだったからな」
「そうかぁ。意識してなかったけどな。そうか、リーか。リーの映画はいいよな。あ、映画二人で観に行く件な、やっぱり無理がある」
「そうか。そうだよな。諦める。呼び出してまで、馬鹿なこと言ったな。忘れてくれ」
「三人で見に行くことにしよう。俺には直前で仕事の電話が入る」

「どうだった」
着替えて、夕飯の支度に取り掛かる幸子に訊いた。
「どうって。映画はまあ、それなりよ。いや、楽しかったかな。あんな映画、絶対自分じゃ観ないもの。選んだの、あなたでしょ」
「だろ? 面白かっただろ? "悪魔の毒毒ハイスクール"。ああ、俺も観たかったなあ」
「やっぱり、あなたが選んだんだんだ。神経、疑うわ」
「面白かったら、文句言わない!」
「面白かったけど」
「じゃ、いいじゃない」
「それより映画の後よ。あなたから聞いてたから、海外での医療活動のこと、もっと詳しく訊きたかったのよ。だから、終わって、どうですかお茶でもって誘ったの」
「結婚すると、女も図々しいな」
「図々しいわよ。いいじゃない、訊きたかったんだから」
 軽く睨まれた。でも、よかった。
「で、話したのか」
「それがね。準備で忙しいんだって。フラれたわ。地下鉄の入り口で別れたのよ。あなたによろしくって。あ、髭生やすって、何のこと?」
「さあ、何のことだろ」
 俺は、相良が明日飛び立つ空を窓越しに見上げていた。

            了

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