見出し画像

【短編小説】沙也加

 日曜日はよく晴れたが、さほど気温は上がらなかった。私は空色のセーターを着ていくことに決めた。
 喫茶店は空いていた。私ほどの年齢のものは誰もいない。入って沙也加が見渡せば、なんなく私がわかると思った。それでも目につきやすいように、入り口から近い席を選んだ。コーヒーを注文して、沙也加を待つ。11時までには、まだ15分あった。私は何度も冷水を口に運んだ。
「あの、失礼ですが香山さんでしょうか」
 言われて初めて、側に女性が立っていることに気づいた。どこを見ていたんだろう。私は彼女に全く気が付かなかった。
慌てて立ち上がる。
「はい。沙也加さんですか」
 沙也加は頷いた。綺麗になった。美しい女性に沙也加は育っていた。
 座って沙也加はオレンジジュースを注文した。
「初めまして。も、変ですけど」  
沙也加は微笑んだ。
「結婚するんですね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「あ、これ。少ないけど」
 ご祝儀袋をテーブルに置く。9万円入れた。もっと入れたかったが、それは下品なようにも思った。鞄には通帳も入っている。困っていると聞いたならそのまま渡したいと思った。後は年金を申請すればいい。こんなことしか、思いつかなかった。
 沙也加はちょっと困った顔をしていた。でも、ここで断るのは違うと思ったのか、ありがとうございます、と頭を下げて祝儀袋を受け取ってくれた。
 安心する。と、もう他に話すことがないように思えた。何もない。沙也加が覚えていてくれそうな思い出は、なにもない。
「幾つになりますか?」
 言ってしまってから、娘の歳も知らない自分を恥じた。まるで関心がなかったように聞こえはしまいか。
「29です。30前に籍を入れたいと思って」
 沙也加は屈託なく答えてくれた。
「あ、ああ。そう。そうですか。25年近く経ったんだ」
「ずっと連絡できなくてごめんなさい」
「いや、あなたが謝ることではありません。会いに行かなかったのは私です」
 コーヒーを飲んだ。会話が切れてしまうのが怖かった。
「仲良く暮らせていましたか」
 また言わないでいいことを言ってしまった。どこか不仲を期待しているように聞こえはしなかったろうか。
「はい。まだ両親と暮らしてます。コドオバですね」
 圭子は再婚したのか。
「コドオバ?」
「大人になっても親から離れられない男の人を、子供おじさん、コドオジって言うんです。だから私はコドオバ」
「おばさんていう歳じゃないでしょう」
「いえ、もういい歳ですよ。片付いて、我ながらやれやれです」
 二人で笑えた。話しやすい雰囲気を沙也加が作ってくれた。きっと賢い子供だったんだろう。
「私のことはいつ知ったの」
 雰囲気につられて、少し砕けた言い方になった。言ってしまってから、いけないと思う。沙也加はそれに気づかない様子で続けてくれる。
「母が再婚したのは小学校二年生の時でした。父を紹介されて、ああ私のお父さんがやっと来たって思いました」
「やっと来た?」
「お友達にはお父さんがいるのに、なぜ自分にはいないのか、ずっと疑問だったんです。あ、不愉快じゃないですか。こんな話」
「いや、全然。聞きたいし、話して欲しい」
「わかりました。じゃ、話しますね」
 楽しい。沙也加の顔を見ているだけで楽しい。この時間がずっと続けばいい。
「母は父のことを新しいお父さんって紹介しました。その時、私、"新しい"に反応しちゃって。じゃ、お母さん、"古いお父さん"はどこにいるのって」
 その無邪気さに、思わず声を上げて笑った。
「お母さん。香山さんのこと、ちゃんと話してくれなかったんです。私のお父さんはどこにいるのって訊いても、お出かけ、もうすぐ戻ってくるわ、とか誤魔化されちゃって」
 そうか。確かに、離婚のことを幼い子に説明するのは難しい。
「で、その時、"古いお父さん"のことは訊けたんですか」
「いいえ。古いも新しいもなくて、これがあなたのお父さん、とか言いくるめられちゃって」
「そうですか。それは残念」
 しかし、小学校二年の沙也加の頭に、一瞬なりとも私の存在が浮かんだことが嬉しかった。私はさっきの問いを繰り返した。
「じゃあ、私のことはいつ」
「ええと。中学生になってからです。お母さんが話してくれました」
「お母さんから」
「はい。きちんと話しておきたいし、もう理解できる年齢だと思うからって」
「どうお聞きになりましたか」
 沙也加はひと呼吸置いた。私も少しだけ緊張する。
「私には本当のお父さんがいること。事情があって別れたこと。音信不通であること。これからも関わるつもりのないこと。今のお父さんが、沙也加のお父さんであり続けること。つまり、何も変わらないこと。そんなことを言われました」
「ショックでしたか」
「いいえ。もう中学生でしたから、母が再婚していることは、わかっていましたし、お父さんとの仲も良かったので、ショックは感じませんでした。ただ、それよりも」
「それよりも?」
「それよりも、どうして"古いお父さん"は私に会いに来てくれないのか。それが知りたかった」
 すぐには答えられなかった。どうしようか、迷った。沙也加は軽くお腹に手を置いて、真っ直ぐに私を見つめている。
「お母さんに訊きましたか」
「はい。でも、香山さんの口から聞きたいんです」
 沙也加はオレンジジュースには手をつけなかった。冷水も飲まなかった。お腹に手を当てる姿勢のまま、私に対峙していた。
「もうこの歳ですから、ある程度のことは理解できます。結婚は他人が同じ空間で生活するのだから、うまくいかなくなることも、それはあるでしょう。離婚も仕方ない場合もあるでしょう。でも、子供と親の繋がりは、離婚しても切れないと思うんです。私はそう思いたかった。なぜ、会いに来てくれなかったのかを知りたいんです」
 視線を落とす。両手を慈しむようにお腹に当てる。そうか、会いたがった訳はこれだったのか。
「それを今日聞きに来たんですね」
「はい」
 思い詰めた目だった。私という存在を意識し始めた頃から、沙也加はずっとそのことを気にかけていたんだろう。新しい人生を踏み出すに当たって、どうしても確かめずにはいられなかったのだろう。自分は父親に愛されていたか否かを。
 やがて沙也加も人の親になる日がくる。その子は皆んなに愛される存在であって欲しい。子供は、皆んなの祝福を受ける存在であって欲しい。それを信じたいのだろう。
「失礼を承知で言いますが、もしかしたら、お腹に」
「はい。今時珍しくもありませんが」手を当てている自分のお腹に向けて、沙也加は言った。
 聞きたい理由は、生まれてくる子供のためなのだ。皆んなから愛されるはずの新しい命に、その祝福に影を落とす者は、いるとすれば、それは私なのだ。
 私は意を決した。改めて座り直し、姿勢を正した。
「お母さんからお聞きになっている通りです。私はあなたを虐待しました」
 深々と頭を下げた。
「おめおめとあなたにお会いするべきではなかった。その資格は私にはない。会いにいかなかった理由は、そういうことです。申し訳なかった。もう会うこともないでしょう。失礼します」
 伝票を取って立ち上がった。沙也加の顔を見ることはできなかった。急ぎ足で会計を済ませ、私は店を出た。
 道路に出ると、息を吸い、吐いた。これでいい。これでいいんだ。結局、通帳は渡せなかったな。それが心残りだった。
「香山さん」
 後ろから声をかけられた。振り向くと、沙也加がそこに立っていた。
「香山さん。本当のことを言ってください。母に訊いた時、母はこう言いました。
 あの人は悪くない。全部、私が悪い。お母さんは嘘つきだったって」


「あたし、嘘つきよ」
それを言わせるために呼び出したのに、あっさり圭子はそう認めた。
「どうして」
「決まってる。あなたが嫌いだから」

ーー電話はしない約束よ。
 五度目のコールで出た圭子は最初にそう言った。
ーーどうしても直接話したくて。
ーーだから、こうして話すことが駄目なのよ。わかってるでしょ。
ーー会えないか。
ーー切るわよ。
ーー直接、会いたい。
ーーはっ?
ーー直接会って話がしたい。
ーー何それ。そういうの弁護士通してよ。
ーーわかってる。だが、納得いかない。

 調停が成立して、私と圭子とは離婚することになった。財産分与に、私は拘らなかった。全部を圭子に渡しても異論はなかった。
「そんな気持ちの悪いことは、よしてくれないかな」圭子はそう言った。「きっちり二分の一にしましょう。あたしにも仕事はあるし、生活には困らない」
 そう言うのなら、別にそれはそれでもいい。私たちが住んでいた賃貸マンションは解約して、その頃、二人はもう別々に住んでいた。
 齟齬があったのは沙也加のことだった。
 親権は圭子が持つことになったが、そのことに異論はない。男親だけでは、身の回りのことに気がつかないことも多々あるだろう。圭子の両親もまだ健在だし、色々と面倒もみてくれる。沙也加も祖父母に懐いていた。
 齟齬があったのは、面会についてだった。5歳になる沙也加との別れは、私にとって辛いものだった。せめて月に一度、沙也加と会いたい。それが私のただ一つの願いだった。
「私の子供だ。それくらいはいいだろう。養育費もきちんと払う」
 だが、その申し出を圭子はにべもなく拒絶した。
「もう、すっかり切れましょうよ。あたしと沙也加のことは忘れて。養育費もいらない」
 しかし、これだけは譲れなかった。結婚する二人に価値観の違いがあったとしても、親子関係は違う。切ることはできない。離婚しても、自分の子に会うのは親の権利だ。私は折れなかった。
 すると、圭子は弁護士を立てた。それからは直接に会って話をすることができず、代理人の弁護士との話になった。
「圭子さんは、あなたが沙也加ちゃんを虐待していたと言っています」
 耳を疑うようなことを弁護士は言った。
「馬鹿馬鹿しい。何を根拠に」
「根拠ならあります。沙也加ちゃんは、一年前、腿に熱湯を被って医者に行っていますね」
「それは沙也加がどうしてもカップ麺が食べたいと言って」
 私が作ってやったものを沙也加がひっくり返したのだった。子供用のお椀に移し替えて冷まそうと、それを取りに行っている間に、沙也加が手を伸ばした。私の不注意だった。
 すぐに風呂場に行って冷水をかけた。氷で太腿を冷やしていた時、圭子が帰ってきて大泣している沙也加を連れて病院にいった。幸いなことに大事には至らなかった。火傷痕も残らなかった。弁護士は続けた。
「半年前には、沙也加ちゃんは階段で転落しています。これも通院記録があります」
 それも確かにあった。二階に行く私を追って、沙也加が階段を上り、足を滑らせて転落したのだった。これは圭子の実家での出来事だった。圭子の両親が大騒ぎして、沙也加を車に乗せ病院へ行った。勿論私もタクシーで追いかけた。こちらも打撲ですみ、大事には至らなかった。
 前者は明らかに私の不注意で、後者もついてくる沙也加に気づけなかったのは私の過失だ。だか、虐待ではない。それは絶対に違う。
「圭子さんは、いずれもあなたが虐待したものだと仰っています。通院はしなかったにせよ、虐待はほぼ日常的に行われていたと」
「嘘だ。そんなことするはずがない。馬鹿馬鹿しい。何言ってるんだ」
 私は弁護士を睨みつけた。しかし彼は平然として続けた。
「離婚後も、圭子さん親子に近づかないで頂きたい。こちらも、ことを大きくしたくはありません。が、用意はあると言うことです」
「そんな根も葉もないことを」
「根も葉もないか、あるか、それを決めるのは裁判所です。でも、圭子さんはそんなことはしたくない、と仰ってます。裁判になれば、あなたの社会的信用もなくなる」
「脅すのか」
「一般論です」
「沙也加に訊いてみればいい。私がどんな父親だったか」
「あの小さい子にですか」弁護士は鼻で笑った。「あなたは沙也加ちゃんが熱湯を被った時、側にいた。沙也加ちゃんが階段から転落した時、側にいた。これが事実です」
「沙也加に訊いてください」
「訊く必要はありません」

 結局、私の一人相撲だったんです。私は自分だけが頑張っているつもりで、他の誰も幸せにはできなかった。当時はまだ、ストーカー法もありませんでしたが、それに近い内容を、弁護士は要求してきました。
 私はあなたを諦めるしかなかった。それは、とても辛い選択でした。
 離婚後、私はがむしゃらに働いた。まるで働くことが償いのように。働いていれば、圭子のこともあなたのことも、瞬時忘れることができた。することのない、ポッカリした時間が嫌だった。つい思い出してしまわないように、ただ忘れるために働いた。気づけば両親は亡くなり、友人とも疎遠になった。定年を迎えて、立ち止まった時、私は砂漠にたったひとりで立っていたんです。
 再雇用の話を断り、私は死を待つ長い老後を迎えることにしました。
 私の人生は何も残せなかった。私の代わりはいくらでもいた。私でなくてはならないことを、会社で感じることはできなかった。それを意識しないためにがむしゃらに働いた。私はきっと迷惑な人間だった。多くの人には会社にある人生と、家庭にある人生がある。たとえ家庭がなくとも、それに見合う何かある人生を、人は生きる。はずだ。
 だが、私には何もなかった。私は何のために生きてきたんだろう。考えたくなかった問いかけが、いつも心によぎるようになっていた。

 今、仕事の代わりに、私は起きてから寝るまでテレビを見ています。番組が面白いとか面白くないとかはどうでもいいんです。ただ見続けて、考えないようにしているんです。毎日毎日、誰もいない家でテレビを見続けています。死ぬまで、そういう人生を送るのだと思っていました。

 あなたからのハガキは、そうした日々に配達されてきたのです。

 結婚します。でも、その前に一度お会いしたい。そういう内容のハガキでした。次の日曜日の11時。駅前の喫茶店で待ちます。もし都合が悪ければ電話してください、と携帯の電話番号も書かれてあった。私はハガキを小さく千切って、ゴミ箱に捨てました。行く気はなかった。だから、電話番号も必要なかった。

 でも、だめですね。あなたのハガキは乾いた砂に水を落とした。それを知ってしまった私は、もうあなたのことしか考えられなくなっていました。
 前日まで迷って迷って迷って、でもやはり行くことにしました。一度きり、一度きりだけ会おうと思ったんです。私の心の弱さなんだろうと思います。これまで私のいない人生をあなたは生きてきて、今更どうして私を必要とするのか。それを知りたいと思いました。
 いや、もしかしたら、必要とするような何かがあったのかもしれない。それで私に連絡したのかもしれない。そうであるならば、何か力になれるかも知れない。都合のいい言い訳めいた考えでしたが、私はその考えを捨てることができなかった。その考えにすがりたかった。むしろ、そうであってほしかった。
 会うとなると、みすぼらしい身なりは嫌だった。一度しか会わない父親を、みすぼらしい思い出にして欲しくはなかった。私は家にある、一番いいスーツを着てみてネクタイを締めました。それから、日曜日のお昼にスーツもないもんだと思い直し、洋品店に行ってセーターを買ったんです。今年は夏の暑さが秋になっても続いて、11月になっても25度を超える日があります。けれど、急に冷えて15度に落ち込む日もある。中に着るシャツも新しく買ってズボンも揃えた。暑ければセーターを着なければいい。色はとにかく明るい色を選びました。じじむさい燻んだ色であなたに会いたくはなかった。随分悩んで決めました。セーターの色は空色にした。こんなに心を躍らせて服を選んだことはついぞありませんでした。


 私の部屋で沙也加は話を聞いてくれた。
「すいません。長い話をしてしまって」
「いいえ。私たち親子が、香山さんの人生をーー」
 沙也加は泣いていた。
「そんなふうに考えないでください。あなた達は今、幸せだ。それが私はとても嬉しい。ほんとです。その幸せに、水をさすようなことを喋ってしまって」
 沙也加は激しく首を振った。
「この話は、私が聞かなければいけない話です。聞いて良かった。もし聞いてなかったら、私は一生香山さんを誤解して生きたと思うから」
「ひとつ、いいかな」
「はい」
「お母さんを、責めないで欲しい。お母さんが私の住所を教えたのも、きっと覚悟があってのことだと思う。深く悔いているのかもしれない。でも、今のお母さんは、私のところに来てはいけない。私はね、思うんだけど、本当のことが、いつも皆んなを幸せにするとは思えない。知ってても、敢えて知らないフリをすることも大事だと思う」
「なぜ、どうして母は嘘をついたんでしょう」
「分かりません。それは多分お母さんに訊いてもわからないと思います」
「でも」
「沙也加さん。あなたは今、一人の男性を好きになっている。なぜですか。たくさんの男性がいる中で、なぜその人なんですか。いろいろ理由はつけられるでしょうけど、結局それはわからない。好きだから好きなんではないですか。
 私は、嫌いも同じじゃないかと思うんです。結局理由はわからない。嫌いだから嫌い。行き着くところは、そこになる。
 私は改めてそれを圭子に思わせたくはないんです。改めてまた、圭子にそう思われたくはないんです」
「そんな」
「だから、お母さんに問い糺すのはやめてくださいね。さあ、もうお帰んなさい。皆んなが待ってるでしょう」
 沙也加は往復ハガキを鞄から出した。結婚式の案内状だった。「香山さん、式に出てください」
 押し付けるように私に渡した。受け取って、しげしげと見た。
「ありがとう。でも、私は式にはいきません」
 そう言い、玄関ドアまて沙也加を促した。
「今日はありがとう。よい家庭を築いてください」
「お父さん」
 はっと、胸を突かれた。
「香山さんじゃなくて、お父さんって呼びます。これからもずっと。ずっとです」
 視界が、滲んだ。
            了

この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?