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『実践 日々のアナキズム』挫折せずに二度読み精読してよかった本。【読書レビュ】

こんばんは、オオハシです。夜分に失礼いたしますが今週も投稿していきます。今週は『アナキズム』に関する本です。

やぁ難しい本だった。でも結果として二度読みした際には、かなりぐいぐい線を引いてしまうところが多く、精読してよかったなと。最近ビジネス書や小説など、比較的読みやすい本ばかり読んでいたからか、こうした研究者の方が書かれた、かつアナキズムという難しい概念だったこともあり、一回目はほんと心折れそうになったりしてました。「アナキズムとは特別な政治運動でも革命でもなく、日々の暮らしの中から社会を変えていく実践である」とカバー裏に書いてあって、読後だからなんとかその概念が腹落ちしましたが、読む前はなんだかよくわからないけれど引き込まれそうな印象、といったところですね。


実践 日々のアナキズム ―世界に抗う土着の秩序の作り方

ジェームズ・C.スコット著 清水展、日下渉、中溝和弥 訳
2017年9月の本

  原著のタイトル(大見出しのみ)は『Two Cheers for Anarchism』であって、僕はブレイディみかこさんの影響を受けて、これらアナキズムの勉強を興味本位で読み進めているのですが、『Two Cheers』というところがいかにもアナーキーで好きな印象。僕はラグビーをやっているので、試合後に「Three Cheers for …」と相手を讃える営みはよく経験しているのでその感覚がよくわかるのですが、そこで『Two Cheers』と言ってくるところ、あとがきにもあったけれど、「万歳三唱とまでは言わないけれど、『Two Cheers』ぐらいなアナキズムを実践していったら、世界はもう少しましになっていくんじゃねぇの?」というニュアンスがとっても好きでした。


 訳者あとがきから抜粋しておきます。

 P181 スコットが万歳を二唱するのは「プロセス重視」のアナキズムであり、「実践としてのアナキズムとでもいえるようなものを提示する」ことが本書の目的であると明言もしています。
 原著タイトルが意味するのは、アナキズムに手放しで万歳三唱することはできないけれど、それでも二唱はしたいという著者の思い入れと強い信念です。

実践 日々のアナキズム P181


 あとがきを抜粋していたら、やはりここのところを抑えてから読みなおしたほうが理解が進んだので、こちらも抜粋しておきます。

 P184 より良い未来のために期待するのは、階層秩序や国家支配に対抗するボトムアップによるゆるやかな協力関係(に支えられた柔らかな共同性)の形成とその維持存続です。そこでは、個人の自由と自主・自律、そして協力と連帯、相互扶助などの原理と道徳がきわめて重要な働きをしています。 
 
 スコットにとってアナキズムとは、上からの管理と支配、近代化プロジェクトの強要に対抗したり、これを上手く回避したりする、市井の人々の日常的な行動や不服従、面従腹背、そして相互性と強調・協力などのさりげない実践の総称なのです。

実践 日々のアナキズム P184


 なんとなく上からの押し付けとか均質化に対して、ゆるやかに抵抗し、自主・自律を守って人間らしく生きる、感覚的ですがサステナブルで自分とあっている概念だなぁと受けて止めております。

 さて、改めまして頭から引用です。(自分への咀嚼も含めているので今回も長いです、既に5000字近く行ってしまっているので、見出しで飛んでもらえるとよいかも)

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違法行為と秩序崩壊が民主的変化に寄与するという逆説

P20 通常、議会政治の特徴は重要な変革を促進することよりも、現状を固定化することにある。
 この評価がおおむね正しいならば、違法行為と秩序崩壊が民主的変化に寄与するという逆説に、私たちは正面から向き合わなくてはならない。(中略)
 失業手当制度、大規模公共事業、社会保障支援、農業調整法といった重大な政策変更がようやく実現したのは、世界恐慌という緊急事態があったからに他ならない。ただし、その政治的圧力を生み出したのは、経済的な緊急事態における所得や失業の統計データではなく、財界と政界のエリートをひどく恐れさせた激しいストライキ、略奪、賃料の支払い拒否、ほとんど力ずくによる救援物資配給所の包囲、そして暴動といった行動の頻発だった。(中略)
 この動乱はそもそも政党、労働組合、組織的な社会運動などによって展開されたわけではなく、また何ら理路整然と集約された政策課題ももたなかった。むしろ、まったく組織化されておらず、無秩序であるという点で、確立された既存の秩序に対する脅威に満ちていた。(中略)
 大恐慌によって解き放たれた社会勢力が、様々な改革の急速な進展を可能にしたのだった。社会勢力のうねりは、政治エリートや資産家だけでなく、とりわけ重要なことに労働組合や左翼政党でさえ統制できなかったようだ。エリートは、無理やり改革に着手させられたのである。

実践 日々のアナキズム P20

P22 自由民主主義諸国は、その諸制度を通じて、より不遇な市民にとって決定的に重要な経済的・社会保障的利益をしっかり保護することに歴史的にずっと失敗してきた。おそらく、これは自由民主主義諸国の最も深刻な失敗である。むしろ制度的枠組みの外側における大きな混乱こそが、民主的な発展と刷新をもたらすようだ。この事実は、制度化を通じて平和裏に変革を実現するという民主主義の約束と著しく矛盾する。民主主義の理論は、危機と制度的破綻こそが重要な社会・政治的変革を促進するにあたって中心的な役割を果たし、政治システムの正当性回復に寄与したことを、まったく理解していない。

実践 日々のアナキズム P22

P25 拡大する暴動とデモを抑え込もうとしたジョン・ケネディとロバート・ケネディの奮闘によって、長年にわたって棚上げされてきた法案が突如として議会をすばやく通過した。南部の暴力のためにアメリカが人種差別国家だと見なされかねないという、まことしやかな冷戦期のプロパガンダ合戦の文脈によって、彼らの決意は強固になった。大規模な混乱と暴力は、平和的な組織化とロビー活動が10年にわたって達成できなかったことを、すばやく成し遂げた。

実践 日々のアナキズム P25

いきなり冒頭から長い引用になってしましましたが、断続的・連続的な政治や経済の変化に対して、世界恐慌などの例を提示し、自由民主主義が飛躍的変化を遂げるのは、実は「制度的枠組みの外側における大きな混乱」によることが多い、という事象をあげている。前半の部分でかなり読み込んだところ。べつにだからと言って、そうした混乱を推奨しているわけではなく、民主的変化が非連続的に、飛躍的に発展した際には、そういう事実があった、ということを述べている。



均質化、標準化された学生を作り出す工場

P85 しかしながら公立学校制度の深刻な悲劇は、多かれ少なかれひとつの製品を生み出す工場になっていることにある。この傾向は、ここ数十年間で、標準化、測定、テスト、指導責任がより重視されるようになり、ますます加速する傾向にある。その結果生まれてくる学生、教師、校長、全学区の目標は、すべての努力を、制度設計者が定めた基準を満たす標準化された学生を作り出すことに向けることになった。
 これが生み出す製造物とは何だろうか。それは狭く想定された、テストによって測ることができると考えられるある種の分析力である。(中略)
 教育的な視野狭窄によって「分析力エリート」と推定される人びとに与えられる疑わしい特権と機会は、社会が被る損失や浪費に値するものなのだろうか。

実践 日々のアナキズム P85

P126 学校は、「単一の生産物」を作る工場へと変わってしまう危機にあった。その生産物は、狭い知識と受験技術を測るために作られた標準テストに合格できる生徒たちに他ならない。ここで学校という近代の制度は、初期の縫製工場とほぼ同時期に発明されたことを今一度思い起こしておくべきだ。どちらもが、生徒や労働者をひとつ屋根の下に集めて閉じ込めた。どちらもが管理と評価を簡単にできるよう、時間厳守の規律と業務の細分化を生み出した。どちらもが、信頼できる標準化された生産物を生み出すことを目的にしている。

実践 日々のアナキズム P126

P156 私たちは、民主的で多元的な社会で、教育の機会均等がいかに配分されるべきかについて、公共的に対話する契機を奪われている。私たちは、たとえば学校では大学進学適性試験ばかりを偏重する視野狭窄なカリキュラムのもとに押し込まれて、いかなる資質をエリートに求めるかについて討論する機会を奪われてしまっている。

実践 日々のアナキズム P156

学校教育に対するアナキスト的な課題提起。 一連の流れがとても刺さりました。グサグサきました。 最近の最近は、学校も少しずつ変わっていっているところだとは思いますが、「学校という近代の制度は、初期の縫製工場とほぼ同時期に発明されたことを今一度思い起こしておくべきだ。どちらもが、信頼できる標準化された生産物を生み出すことを目的にしている」というアナロジーに関しては、ほんとにそうだ、と思いました。そしてまた、いつもの通り、この違和感というか感覚は、サイマジョのあの感じなんだな、と思っていました。(また見てしまいました)
「先行く人が振り返り列を乱すなとルールを説くけどその目は死んでいる」



アメリカは最も監視社会

P155 アメリカは、査定と数量化を積極的に擁護する点では並はずれているようだ。アメリカほど、教育、戦争、公共政策、企業役員の報酬などにおいて、監査を熱狂的に活用してきた国は他にない。武骨な個人主義の国民という自己像とは対照的に、アメリカ人は世界で最も標準化され、監視されている人間である。

実践 日々のアナキズム P155

こちらの部分、ほかの引用とのバランスも考えると、ここだけ独立するのはなんか変な気もするのですが、「最も標準化され、監視されている人間」という表現が何とも批判的で、すごく感性にひっかかったので、抜粋しました。 自由を謳歌する、アメリカンドリームなどという言葉もあり、「武骨な個人主義の国民という自己像」がある中での、「最も標準化され、監視されている人間」というギャップ。監視社会。怖いですよね。もっと自由であっていいし、
君は君らしく生きて行く自由があるんだ、大人たちに支配されるな』と言いたいですよね。


まず行動、論理を後から引き出す

P160 ひとたび村人の個々人がそうした振る舞いをしたということは、すなわち一定の期間は難民を助けることに加担することを意味した。言い換えれば、彼ら自身が実質的に行った連帯の振る舞い―実際にとった一連の行動―から結論を引き出し、それを当然に果たすべき倫理的なことと捉えたのである。 彼らは、ある主義を言い立てて、それに基づいて行動したわけではなかった。逆に、まず行動して、その行動の論理を後から引き出したのだった。抽象的な主義は実際の行動の子であって、その親では決してなかった。

実践 日々のアナキズム P160

こちらの部分においても、なんだか自分を応援してくださっているようなメッセージだと勝手に受け止め、抜粋しています。会社仕事を進めていたり、それこそ学校での教育であっても、論理的思考、論理的行動を強く求められ、「なんとなく」という行動に関して、「それはなぜ?」を問われ続けることに息苦しさを感じている自分のなかで、「まず行動して、その行動の論理を後から引き出したのだった」という言葉は、自分にとって本当にありがたいと感じました。行動して起こった偶発的なことから、世の中を変えていくことにつなげていくことが出来るかもしれないのです。


革命だって偶発的

P164 私たちには、自身の行為や生活を説明するための首尾一貫した物語を創作しようとする自然な衝動があり、それがまったく偶発的であったかもしれない行為に対しても遡行的に秩序を押し付けようとする。(中略)
 すでに行動してしまった後には、自分のしたことを説明する物語を見つけ出さねばならない。しかしながら、このことは、なぜ彼がそうしたのかを説明することにはならない。むしろ、他のやり方では説明できないような行為について、遡行的に納得させてくれる―満足のゆく物語を創作する―のである。
 同じことが、歴史を形づくった重大な、しかし偶発的な出来事についても当てはまる。(中略)
 フランス革命は単一の出来事ではなく、一連の過程であった。それは、啓蒙思想家たちが書き散らかした理念に基づくというよりも、天候、凶作、そしてパリとベルサイユの地理学と人口学によって偶発的に生じたものであった。バスチーユ監獄を襲って囚人たちを解放し武器を奪取した者たちは、後に「フランス革命」として知られる出来事に参加しているとか、それが王政と貴族政治を打倒することになるなどとは知りうるはずもなかった(ましてやそれを意図していたわけでもなかった)。

実践 日々のアナキズム P164

P166 とことん偶発的であったことは往々にして消し去られ、出来事の参加者の意識は平準化されてしまう。あまりにしばしば、事態のしかるべき展開に関する超人的な知識を押し付けられ、異なった理解や動機のごちゃごちゃ[したリアリティ]は沈黙を強いられる

実践 日々のアナキズム P166

「首尾一貫した物語を創作しようとする自然な衝動」というところと、偶発的な重なり合いが革命すら引き起こすというところが非常に共感でした。「とことん偶発的であったことは往々にして消し去られ、出来事の参加者の意識は平準化されてしまう」VUCAの時代、先行きの見えない時代においては、(もちろん考えに考え抜くことも大事ですが)論理的思考では解けない問題もあると思うんです。まず行動、してから、その行動に関する論理をとから引き出すことだってあると思うんです。 そうした偶発的な行動の一つ一つの積み重ねが大きなうねりとなり、社会を変えていくんだと思っています。


僕らの革命

P168
 革命を街路から博物館や学校の教科書の中へと閉じ込めることに強い関心をもった。革命の過程は歴史的必然の産物として「自然化」され、「プロレタリアートの独裁」を合法化した。(中略)

 革命と社会運動は、一般的には、様々な役者たちを多数寄せ集めて作り上げられている。渦中の行動者たちは、怒りや憤りの入り混じったひどくばらばらな目的をもち、自身の身近な世界を超えた状況についてはほとんど知識をもたず、偶然の巡り合わせ(ちょっとした雨降り、ある噂話、一発の銃声)に左右され、―しかし、様々な出来事が奏でる不協和音のベクトル総和が、後に革命と見なされるものの舞台を作るかもしれないのだ。それらは、レーニンの脚本が言うように、決定された目的のために「部隊」を差し向ける首尾一貫した組織の活動などによるものでない。

実践 日々のアナキズム P168

P172
 歴史の圧縮、すっきりした物語への私たちの欲望、そしてエリートや組織が管理と目標の具体像を投射する必要があるのは、すべて共謀して歴史の因果関係についての偽りのイメージを伝えようとする企みに他ならない。それらは、以下の事実に対して私たちを盲目にしてしまう。 ほとんどの革命は革命結社の働きによるのではなく、自然発生的で即興的な行為(マルキストの語彙では「冒険主義」)の凝結であること、組織化された社会運動はバラバラの異議申し立てやデモの産物であってその起因ではないこと、人間の自由のための偉大なる解放が獲得されたのは秩序だった制度的な手続きによる結果ではなく、無秩序で、予想できず、自然発生的な行動が社会秩序を下から断裂させていった結果であることを。

実践 日々のアナキズム P172

別に僕は革命を起こしたいわけではなくて、革命を学びたいわけでもないけれど、「様々な出来事が奏でる不協和音のベクトル総和が、後に革命と見なされるものの舞台を作るかもしれないのだ」という文言にはただただ共感する訳であって、もともとサイマジョがリリースされる前の段階には「僕らの革命」という名前で草稿されていたそう。

そういうことを考えていたところの集大成として 「不協和音のベクトル総和」 という文言を見出し、ひょっとして秋元康先生は、このジェームズスコットの2012年の原著を読んで欅坂として送り出したのかとすら思ってしまったぐらいでした。 

改めてこのMVを見返すと、そんなにこれだけでは悲壮感はなくて、「すっきりとした物語化」にしていくのはおかしいんじゃないか?という自然な違和感の表出、ただそれだけ、という気がしてならない。

さておき、ずいぶんとながくなってしまったのでこのへんで。

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以上

最後までお付き合いいただいてありがとうございました。この本を読んで、改めて、自主・自律、としてのアナキズム、というところが、僕の考え方として共感できるし、だからブレイディみかこさんに共感し、欅坂に共感したんだな、と棚卸をしていた本となりました。

なんらか共感いただけたのならうれしいです。 また、よろしくお願いいたします。​

 


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