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【休校企画】 今、子どもたちに届けたい平成の日本映画 10選

3月2日(月)から、全国の小学校/中学校/高校の一斉休校が始まります。

卒業式の中止も次々と決まっているようで、その大切な日を奪われてしまった学生たちの気持ちを思うと、とても胸が痛いです。

今回は、僕にできることとして、「今、子どもたちに届けたい平成の日本映画 10選」をまとめました。

友人や先生たちと過ごすことができないのは、とても寂しく悲しいことだと思います。それでも、学生時代の大切な時間を使って、たくさんの「映画」に出会うことにも、僕は同じように深い意義があると思います。

この記事が、そんな出会いが生まれる一つのきっかけになれたら嬉しいです。


【アニメ映画】


『君の名は。』 (2016)

《まだ会ったことのない君を、探している》

君の名は

名だたるクリエイターたちが人生を懸けて「アニメーション」を作る理由。それは、思い描いた理想の世界を、自らの手で形にすることができるからだ。新海誠監督は、こう語っていた。《この世界のことが、好きだと思う》そうだ、だからこそ彼は創作活動を続けるのだ。その純粋な表現姿勢は、やはりどこまでも信頼できる。「アニメ」の存在意義、そして可能性を、心から感じさせてくれる映像作家と、同じ時代に生きられることが誇らしくてたまらない。

そして、今作『君の名は。』が讃えるメッセージに、僕は強く感銘を受けた。それまで新海監督は、「運命」と対峙しながら物語を紡いできた。『ほしのこえ』(2002)では、「運命」の信じ方を。『秒速5センチメートル』(2007)では、「運命」の受け入れ方を。そして、『言の葉の庭』(2013)では、「運命」への静かな抗い方を。絶対的なものとして表される「運命」は、だからこそ神秘的な魅力を放っていたとも言える。しかし、『君の名は。』で描かれた「運命」は、単に受け入れるだけのものではなかった。「会いたい」という気持ちが距離と時間を超えるなら、二人の出会いには新たな価値と理由が生まれ、そして「運命」は変わる。そう、この作品に込められていたのは、「運命は運命を変えられる」という力強い「肯定」のメッセージであった。僕は、その輝かしい確信に触れた時、気づいたらボロボロと涙をこぼしていた。

もちろん、僕だけではない。こうした全く新しい形の恋愛映画が、現代の日本において強く求められていたことは、天文学的な観客動員数が証明している。今から観直しても、今作のメッセージは決して色褪せてはいない。



『未来のミライ』 (2018)

《ボクは未来に出会った。》

未来のミライ

細田守監督は『おおかみこどもの雨と雪』(2012)の制作にあたり、自らの創作活動の拠点として、アニメーション制作スタジオ「スタジオ地図」を立ち上げた。彼が自身のスタジオに「地図」と名付けたのは、表現の可能性が無限に広がるフロンティアへ飛び出していく覚悟の表れであるという。誰も踏み入れたことのない大陸を見つけ、真っ白な大地に新しい地図を描く。「スタジオ地図」が届けてくれる作品はどれも、そんな気概に溢れた未知の冒険活劇だ。『時をかける少女』(2006)、『サマーウォーズ』(2009)もそう。『おおかみこどもの雨と雪』も『バケモノの子』(2015)もそうだった。いつしか、3年に一度やってくるようになった「細田守の夏」。そして、平成最後の夏に届けられたのが、『未来のミライ』だ。

主人公のくんちゃんは、4歳にして自らのアイデンティティをシビアに問われることになる。しかし、自分の輪郭を確かめながら、次の居場所を探さなければならないのは、決してくんちゃんだけではない。小学生になっても、中学生、高校生、大学生になっても、社会人になっても、そしていつか、誰かのパートナーとなり、誰かの親となっても、自らのアイデンティティを見つける旅は、決して終わることはない。そう、全ては「過程」なのだ。母が母になる前、父が父になる前、兄が、妹が、それぞれの役割を自覚する前の、まだ何者でもない彼、彼女たちが懸命に歩む「過程」を、この映画はそっと見守り、優しく肯定してくれる。そして、その「過程」こそが「希望」であるということを、この映画は輝かしい確信をもって伝えてくれる。過去も、今も、未来も、全ては壮大な物語の「過程」である、という絶対的な真理。それをたった98分の「日常」と「ファンタジー」を通して描き切り、最後には、その物語が内包する無限の可能性を途方もないスケール感をもって伝えてくれる。とにかく、圧巻の映画体験であることは間違いない。

今作が、第91回アカデミー賞において、長編アニメーション映画賞にノミネートされたことが、日本に生きるアニメーション映画ファンとして、心から誇らしい気持ちになる。



『この世界の片隅に』 (2016)

《昭和20年、広島・呉。わたしは ここで 生きている。》

この世界の片隅に

「平成」の時代において、本来あるべき戦争映画の姿勢とメッセージを、最も鮮烈に打ち出した一作。僕は、この作品を観て号泣してしまった。そしてすぐに、そんな自分を恥じた。なぜなら、この映画の登場人物たちは、どんな悲しみや困難に襲われようとも、当たり前のように笑顔を輝かせ続けていたからだ。僕たちは、教科書をめくって、年表を遡りながら「戦争」を学んだつもりでいた。もちろん、その年表には市井の人々の生活は刻まれてはいない。しかし、その時代に、彼ら・彼女らのかけがえのない日常は、逞しく続いていたのだ。もう、生半可な気持ちで「可哀想」などと同情することはできない。

物語の終盤、すずは感情を剥き出しにしてこう叫んだ。そして僕は、この一言に、魂が震えるような感覚を覚えた。《最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね! 今ここはまだ五人おるのに! まだ左手も両足も残ってるのに!》この作品は、国家レベルの「大きな物語」として戦争を捉え続けてきた現代人へ向けた渾身のメッセージ、そして、痛切な批評である。懸命に「小さな物語」を紡ぐ彼ら・彼女らの声は、「大きな物語」に回収されてはいけない。決して、服してはいけないのだ。生活者からの批評。その本質は、戦争から70年以上が経った今も変わりはしない。むしろ、その鋭さを増し続けているともいえる。

そして、一度は打ち切られそうになった今作の製作が進み、片渕須直監督の想いが形となったのは、クラウドファンディングにより3,900万円の資金が集まったからだ。日本の映画ビジネスの常識が、インターネットの力によって一瞬にして崩れ去った。そして、未来の映画製作の正しさが証明された。クリエイターは、自らの想いを実現することができる。そしてそれは、観客が心の底からその作品を観てみたいと望むからこそ、だ。この美しい流れが、「次の時代」に続いていくことを願う。



『かぐや姫の物語』 (2013)

《姫の犯した罪と罰。》

かぐや姫

『火垂るの墓』(1988)、『おもひでぽろぽろ』(1991)、『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994)、そして『かぐや姫の物語』。この国に、高畑勲という稀代のクリエイターがいたことを、僕は微力ながら「次の時代」へと伝えていきたい。これほどまでに繊細で、同じだけ豪快で、果てしなくエモーショナルなアニメーション作品が、この先、創られることがあるのだろうか。日本映画界の宝として、この作品が愛され続けていくことを願う。



『千と千尋の神隠し』 (2001)

《トンネルのむこうは、不思議の町でした。》

千と千尋

まさに、現代の「神話」。観客動員数 2,350万人、興行収入 308億円、その破格の記録は、日本の映画ビジネス史に、未だ燦然と輝き続けている。そして、宮崎駿という巨大な才能が、ついに全世界に向けて開花した今作によって、「日本映画」の在り方は決定的に変わった。

日本の民話に基づく「神話性」と、「万物の全てに神が宿る」という日本古来の神道の思想をベースにした本作は、善悪という二元論を超越した、全く新しいファンタジーとして、世界を震撼させた。論理では語り切れない、それでも人類が根源的に抱えている得体の知れない「何か」が、今作には克明に描いている。カオナシとは、一体何であったのだろうか。その答えは極めて曖昧なものなのかもしれないが、同時に、誰しもの心の中にカオナシは宿っていることを思わせるのだから恐ろしい。文化的背景/宗教的背景の違いを超えて、あらゆる人間に、未知なる興奮と畏怖を与える今作は、唯一無二のオリジナリティでもって海外からも絶大なる評価を得た。その意味で、平成の日本カルチャー史における一つの金字塔を打ち立てた作品であると断言できる。

そして、「一人の少女の精神世界を巡る旅」として、圧倒的なエンターテイメント作品に昇華されていることこそが、今作のもう一つの素晴らしさである。まだ何者でもない千尋。名前を奪われ、アイデンティティを模索しながら、労働とその対価を通して自らの存在意義を獲得していく。まさに「人生」そのものともいえる彼女の物語は、眩くも尊い普遍性を秘めていた。それが過程であっても未完であっても関係はない。今作に、「人生」を導かれ、救われ、許された人は、きっと少なくないはずだ。そしてついには、千尋は、己の信念を貫き、輝かしい創造性を爆発させ、感動的な「生命」のカタルシスに達する。あらゆるものがあって、同時に何もない、不透明で不完全で不確かな未来を、僕たちはどう生きるべきか。宮崎駿は、そう問うた。それはまさに、全ての現代人にとっての果たしてなき命題なのかもしれない。

『もののけ姫』(1997)、そして『千と千尋の神隠し』で、一つの頂点を極めた宮崎駿は、それでも創作を止めなかった。『ハウルの動く城』(2004)、『崖の上のポニョ』(2008)、『風立ちぬ』(2013)。そして現在、引退宣言を取り下げてまで、彼が新たに制作に着手している映画が、『君たちはどう生きるか』である。令和初となる待望の次回作が、「次の時代」の指針となることは間違いないだろう。



【実写映画】


『ちはやふる -結び-』 (2018)

《絶対に忘れないーー。今、この瞬間が私たちの全て。最後の戦い、ここに完結。》

ちはやふる

あらゆる青春映画は撮られた尽くしてしまった。長い映画史を振り返って、時には、そう諦めたくなることもあるかもしれない。それでも、この映画の作り手たちは、「青春映画の王道をアップデートする」という果てしなきテーマへ挑戦した。その姿はまるで、映画作りを通して過ぎ去ってしまった「青春」を取り戻そうとしているかのようである。そして俳優たちは、自分たちのたった一度の「青春」を、この映画に全て懸けた。

その輝かしい日々はいつか終わる。だからこそ、全ての一瞬一瞬が切なく、尊い。魂は震え、汗と涙は、確かな意義をもって輝く。そして、悩み、迷い、足掻きながらも前進する少年少女たちの選択を、大人たちは力強く肯定する。ここまで真正面から「青春」に向き合った日本映画は、あまりにも稀有だろう。

最後に、これは理屈を超えたことではあるが、広瀬すずの演技が本当に素晴らしい。「次の時代」の日本映画界を牽引する彼女の「青春」をドキュメントとして残したという意味でも、このシリーズの価値は大きいと思う。平成時代における青春映画の金字塔として、今作が、いつまでも愛されていくことを信じたい。



『桐島、部活やめるってよ』 (2012)

《全員、他人事じゃない。》

桐島

決して、単なる青春映画などではない。これは、試金石だ。今作が投げかけるのは、極めて普遍的な「生き様」についての考察、そして鋭い問題提起に他ならない。物語の舞台となる高校は「世界」の縮図であり、その必然として、この教室には「あなた」の席も用意されている。そう、今作のキャッチコピーが宣告しているように、全ての観客にとって他人事ではないのだ。

僕たちは、問われている。この世界を、この人生を、どう生きるか? これまで過ごしてきた日々に、どれだけの意義があったか? これから選択する未来の価値に、「あなた」は気付いているのか? この映画は、一つの答えへと導くようなことはしない。その意味で、今作の鑑賞後に、途方にくれるような思いをした人は少なくないはずだ。その一方で、この映画を観て、魂を揺さぶられるような体験をした人は、自分の心の中の答えを信じて、堂々と生きていけばいい。

このように、人を選ぶ作品であることは間違いない。それでも、いやだからこそ、今作が驚異のロングヒットをかまし、無数の観客の人生の意味を問い直したことは、日本映画史における奇跡、そして一大事件であると断言する。そして願わくば、この映画が「人生映画」の金字塔として、いくつもの時代を超えて語り継がれていって欲しい。



『リンダ リンダ リンダ』 (2005)

《高校生活 最後の文化祭ーー。ただ、何かを刻みつけたかった。》

リンダリンダリンダ

女子高生4人がバンドを組み、文化祭のステージでザ・ブルーハーツの名曲を演奏する。このストーリーラインを読めば、キラキラと輝く王道の青春ストーリーを想像するかもしれない。しかし、彼女たちの学園生活は、どうしようもなく情けなくて、味気なくて、しょうもない。とにかくうだつの上がらない毎日だ。山下敦弘監督は、そんな「等身大」の青春を、優しい眼差しで肯定した。ダメダメな日常の中に、キラキラとした感情が秘められていることを示した今作は、数え切れないほど多くの観客の人生を彩り、照らし出したはずだ。そう、リアリズムの中にこそ、フィクションの可能性が宿るのだ。

また、「オフビート」という雰囲気(もしくは、気分)を、低予算の言い訳などではなく、確固たる信念を持って表現手法に落とし込んだのは、彼の偉大な功績の一つだと思う。そして、その表現は、『もらとりあむタマ子』(2013)で一つの到達点を迎える。どれだけ時代が変わっていったとしても、山下監督の作品は、いつまでも僕たちの心を温かく包み込んでくれるはずだ。



『溺れるナイフ』 (2016)

《一生ぶん、恋をした。》

溺れるナイフ

平成元年生まれの女性監督、山戸結希。日本映画界は、すぐにその新時代の才能を発見した。彼女は、当時たった26歳にして、初の長編メジャー作品『溺れるナイフ』の監督を担う。

破裂しそうな恋心と、疾走する青い衝動。そして、流れゆく時間や手に余る不条理に、決して抗えはしない無力感。あまりにも生々しく、フラジャイルで、だからこそ輝かしい青春のドキュメントを刻み付けた今作のヒットによって、彼女は、あらゆる世代の全ての「少女たち」から、絶大なる支持と評価を受けた。少女漫画とのメディアミックスを通して、幾度となく更新を繰り返してきた「ガールミーツボーイ」というジャンルは、ここに一つの到達点を迎えたと言える。



『世界の中心で、愛をさけぶ』 (2004)

《あの頃、僕は世界が溢れるくらい 恋をした。あの時の君の声 今でも僕は 聞くことができる。僕は生き残ってしまった ロミオなんだ。でも、たとえ今 この腕に君を感じなくても 僕は君を生きていく。》

世界の中心で

その後に続く「純愛映画」ムーブメントの、原点にして頂点。この作品のメガヒットを受け、数々のフォロワー作品が生み出され、10代の客層をも巻き込みながら新しい市場が生まれた。しかし、切ない恋愛の「その先」にも、僕たちの生活は続いていくという、諦念さえも含んだ人生観を描き切ったのは、今作だけであるように思う。

そして、行定勲監督の、作家性と大衆性を一つの作品に集約させるバランス感覚は本当に凄まじい。90年代、作家主義が著しく進んだ日本映画界は、ある種の膠着状態に陥っていたといえる。しかし彼は、観客に寄り添う柔軟な姿勢をもってして、日本映画界における表現の風通しを良いものに変えた。だからこそ、今作は必然として、あらゆる層の観客を惹き込んだ「社会現象」となり得たのだ。

日本特有の「切ない」という感情に、映像表現を通して輪郭を与えたことも、今作が成し得た偉業の一つだと思う。


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※本テキストは、「【永久保存版】 僕たちを「次の時代」に導いた平成の邦画30本」の一部を抜粋・再編集したものです。


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