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食べごろの不一致

家から徒歩一分もかからない距離に、トンカツ屋がある。
夫との散歩からの帰り道、せっかくなのでカツ丼弁当を買って帰ることにした。
揚げたてのカツはジュワジュワと陽気な音を立てていて、ぐっと空腹が高まる。
太陽に押し潰されてゾンビのように歩く夫を追い立てるようにして部屋に帰り、いそいそと台所で手を洗った。

が、洗面所で手を洗っているはずの夫がなかなか戻ってこない。
カリリと揚がった薄めのカツは、ご飯の上で今や遅しとうねり狂っている。

この食べごろを、逃してなるものか。

そっと蓋を持ち上げて、まず一口。
まだ夫は、食卓に帰らない。

ほほう。
さてはあいつ、大だな……?

そう確信して、優しい気持ちになる。
戻ってきたときにカツ丼が手つかずだったら向こうも待たせたことを気にするだろうから、先にちょっと食べておこう。

そんな親切心でもう2、3切れカツを飲み込んだころ、ジャーっと激しい水の音がした。
これは間違いない、シャワーの音だ。
優しい気持ちが、消し飛んだ。

なぜよりにもよって、今?

揚げたてのカツを放置してシャワーを浴びたくなる気持ちが、まったく理解できなかった。
まさか「ちょっと行ってくるわ」と消えた先が、洗面所でもトイレでもなくシャワーだったなんて。
付き合いたてだったら、一口だけ食べてずっと彼が戻るのを待っていたかもしれない。

なんだあいつ。

私の夫への好感度が、3下がった。
これは「風呂場の足ふきマットとお気に入りのワンピースを一緒に洗濯した」とか「トイレットペーパーを使いきっておきながら、新しいものを設置しておかなかった」に匹敵する重罪である。
楽しかった散歩から一転、とんでもねえタイミングでシャワーを浴びやがった夫にむかっ腹を立てながら、私は黙々とカツ丼を食べ進めた。

カツはサクサクカリカリで、今この食べごろを逃したら弁当に払った金額の半分は損してしまうのではないかと思われるほど食感がよかった。
このカツが最高瞬間美味を記録している今のうちに食べないなんて、カツ屋が知ったら嘆き悲しむことだろう。

私のカツ丼が残すところあと半分といったタイミングで、全裸の夫がリビングに現れた。
いまさら、カツ丼とご対面である。

「待ちきれなくて先食べてる」と米を頬張ったまま言うと、彼は「もう冷めてる?」と尋ねた。
「冷めてるよ」と冷たく言うと、「よかったぁ」と彼は頬を緩めた。
そして左右から息を吹きかけてから慎重にカツを一口かじって、「ちょうどいい温度だ」と喜びに鼻の穴を膨らませた。
やんごとなき面構えでほくほくとカツ丼を食す夫に「なんで先にシャワー浴びたの?揚げたての方がおいしくない?」と聞くと、「だって揚げたてだと、お口の皮が剥けちゃうじゃない」と彼は言った。

お口の皮の一枚や二枚、惜しがってんじゃないよ!
けっ、これだからプリンセスは!

「ていうかシャワーに行くならシャワーに行くってはっきり言ってよ」となじると、彼は「えぇ?こんな汗だくで帰ってきたら、一刻も早くきれいな身体になりたいじゃない」と頬に手を当てた。

「なんなの、あなたは!」
カチンときて声をとがらせると、
「あなたの、夫☆」
と飄々と返ってきた。

……なんだか、真面目に怒っているのがばかばかしくなってきた。

ムキになって食べごろを主張したせいで、なんだか私がやたら不潔で食い意地が張っている人間みたいになってしまった。
たしかに私は、人一倍食べごろに厳しい。

マクドナルドでポテトをテイクアウトしたら、歩きながらポテトをつまむし。
スーパーで買ったパピコをちうちう吸いながら帰ることもあるし。
麺類は、食卓に出すや否や啜りにかかりたいし。
家に帰るのを待てずに、帰路の途中の公園で焼き立てパンに齧りつくこともあるし。

揚げたて、冷やしたて、茹でたて、焼きたて。
熱い方がおいしいものは熱いうちに、冷たい方がおいしいものは冷たいうちに、アルデンテ推奨は、アルデンテのうちに。

……食べごろに厳しいというより、提供されてから食べるまでの時間に厳しいといった方が正確なのかもしれない。
夫にとっての食べごろは、「料理の温度がいい感じに落ち着いて、口に優しい状態」だからだ。
私の食べごろと、彼の食べごろはちょっとズレているのだ。

価値観の不一致、金銭感覚の不一致、性の不一致。
さまざまな「不一致」が夫婦を脅かしているのを日頃、目にする。
私たちが「食べごろの不一致」に脅かされるとは思ってないけれど、我が家のプリンセスにはもうちょっとお口を鍛えてもらいたいものである。

夫自身も、自分の口の繊細さを憂いている。まれに私がおいしいものを作ると(たいていは焼いた肉)「食べたいよう食べたいよう」とそわそわしながら皿の下と皿の周囲を保冷材で囲んで冷やして恐る恐る食べている。
別に悪意があるわけじゃないのに、イソップ童話の「鶴に平皿で料理を出す意地悪な狐」みたいな立場になってしまって悲しくなる。
彼のお口が丈夫だったら、こんなに手間のかかった冷やし方をしなくても済むのに。
同じタイミングで、おいしいものをおいしがることができるのに。

お口を鍛えるには、どうしたらいいのだろう。
子どものころ、祖母の家で出されるお茶が特別に熱く感じた。
私だけ飲むのが遅くて、遊びに行きたくてウズウズしている従姉たちを待たせてしまうのが嫌だった。
遅れまいと口の中を小さく火傷しながらお茶を飲んだ日々が、私の口を鍛えていたのかもしれない。

これから毎日熱いお茶を出して「飲み終わるまでは遊んじゃだめよ」と試練を与えたら、夫のお口は今より丈夫になるだろうか。
いや、これこそ意地悪な狐みたいな仕打ちかもしれない。

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