推し、(血と成り)燃ゆ
「推し、燃ゆ」を読了しました。
何かに突き動かされるように購入し、そのままミスドでちょうどいい濃さのコーヒーを頼んで、おかわりせずに読み終えました。
私自身にも推しがいて、その推し方はこの本の主人公に少し似ている気がしてました。物語の中盤までは。
だから途中、Twitterに書きました。
「推し、燃ゆ 8割私で死んじゃう」
ところが私はそれをツイートすることはなく、下書きに留めておきました。それは私にも読解力の欠片が存在したからなのでしょう。無意識にこの物語の重さが体に纏わりついていたのです。
この物語と自分の歴史が全て重なるなんてことはありませんでした。主人公がうっとうしく思ったこの重い肉体、頑張って携えてきたからかもしれません。何か少しのきっかけで背骨だけで生きる未来もあるかもしれないですが。
「推す」とは、「解釈する」ことだった主人公。そこが重なりました。私も推しに自分の脳の働きを全て使ってしまう時があります。そうすれば、得られる快感であっという間に時は過ぎます。この物語のスピード感はそこにあるんじゃないでしょうか。推しの一挙一動に意味を与える行為は、生きていく上で煩わしい時間を溶かしてくれます。時間を推しに使っていくことが私たちの生存戦略なのです。
では、その推しが今このミスドに現れたとしましょう。私の向かいに座ったとして、直接関係が繋がったとして、それは快感なのでしょうか。
推しの実体と、その推しを推すことは似て否なるものなのです。
つい最近、推しがWeb会員限定のサイトで私の投稿へ回答をくれるという奇跡が起こりました。実際、推しと数文字繋がっただけで私の心臓は鳴り止みませんでした。しかし、その血が流れる感覚は、あの快感とはまた違ったものだったのです。推しの実体は私の血と成りました。
さて、この文章をなんだか気持ち悪いな、と思って読んだ方は正常です。なんの違和感もなく、己の背骨と肉をもってこれからもまっすぐ生きていくことを許されています。
対して、少しでも分かると思って読んだ方、推しを推すことは自らの生存戦略という自覚を持つのです。時には推しを血に成して、頑張ってその背骨と肉を燃やし続けてください。ただそれだけです。
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