こどもの一人旅
こどもが出かけるときは、できるだけひとりきりで行動させない。
それは現代では当たり前のようだけれど、やはり今どきのことであって、以前は全然そうでなかった。遊びに行くのも習い事に通うのも、いつもこどもどうしつるんで、あるいは一人で、勝手にうろついているのが普通だった。こどもだけでちょっとした旅をする、ということもそう珍しくはなかったと思う。
遠くに住む祖父母や親戚のもとを訪ねるのに、空港まで親が付き添って、その後こどもだけ飛行機に乗って、着いた空港に祖父母が迎えに待っている、という一人旅は現代でもありそうだ。途中で間違えて降りることはないし(あったら大変)、CAさんの目も届いているだろう。しかし鉄道や船でそのような一人旅は今でもあるのだろうか。
常吉がこどもだったのは80年代前半。当時は奈良に住んでいて、祖父母は淡路島にいた。まだ明石海峡はおろか鳴門海峡にも橋が架かってなくて、淡路は正真正銘の島だった。だから船でしか行かれない。フェリーも高速旅客船も盛況で、いくつも航路があった。
電車をいくつか乗り換えて港まで行って、そこから船で島へ渡るというのは、小学校3、4年生あたりにはやや高度な旅だったが、付き添ってゆく時間を惜しんだ両親は、一人だけで淡路まで行けるよう、常吉を仕込んだ。乗り物好きで地図も好きだった常吉はすいすいと経路を覚え、長い休みにはいつも一人で、または二つ下の弟を連れて、こどもだけで淡路に行く、というのが恒例になっていた。
奈良から近鉄電車で難波に出て、長い乗り換え通路を歩いて南海電車に乗り、みさき公園駅で多奈川線に乗り換えて深日港駅で降りる。大阪府の南部、和歌山との県境も近いあたりで、家から2時間ほどかかった。
深日港駅から、釣具屋などが並ぶ海辺らしい道を2分ほど歩くと桟橋が見えてくる。ここから高速船に乗り30分の航海で淡路島の洲本港に着いた。洲本港には祖父が車で迎えに来てくれていた。
5年生ぐらいになればすっかり慣れて、鶴橋駅から国鉄環状線に乗り換えて新今宮駅で南海電車に乗る、という別ルートも覚え(このほうが乗り換えの歩きがぐっと少ないのだ)、こどもだけの旅でも不安を抱くことはほとんどなくなった。
ただし高速船は木の葉のようによく揺れた。紀淡海峡は案外波が高い。酔わずに洲本までたどりつけるかどうか、そこが最大の難関であった。酔い止めをのむとよく効いたが、到着しても気付かず眠りこんでいて、あやうくまた深日港に戻されそうになったこともある。
6年生ぐらいのころであったか。日暮れの早い季節で、夕方なのにすっかり暗くなった深日港に一人やってきた常吉は、初めての事態に遭遇する。
「高速船は高波のため欠航いたします」
ネットのない時代、こうした大事なことが現地に来て初めてわかる、ということは珍しくなかった。しかも貼り紙一枚だけの、しごくあっさりした欠航通告である。待合所のドアは施錠され室内は真っ暗で、ハイハイ欠航ですよ、帰って帰って、と手ひどく突き放された感がいっそう募った。まるでたばこ屋の臨時休業ぐらいの気軽さだが、それにしたって、欠航とは困るじゃないか。常吉はまた2時間かけて奈良に戻ることを考えて、ちょっと気が遠くなった。
ところで、深日-洲本間にはカーフェリーも運行されていた。車とその乗員専用のフェリーで、徒歩客は乗船できない航路だったから、それまで縁がなかった。船が大きい分多少波に強いから、今夜も運行している。これに乗ったら淡路に行ける。
普通に考えれば、旅客船が欠航なら並行フェリーは徒歩客の振替輸送をするはずである。しかしさっきの貼り紙一枚にそんな案内はなかった。そして当時の常吉の辞書に「振替輸送」という言葉はもちろんない。
ここのフェリーは車でしか乗れない。だから、適当な車に頼んで乗せてもらってフェリーにもぐりこむしかない、と常吉は考えた。
フェリー乗船待ちの車列に近寄ると、淡路島内のとある村の名を冠した会社のトラックが目についた。すごく遠い親戚がいて、その地域には一度だけ行ったことがある。法事か何かだった気がするが、いい感じの田舎で楽しく過ごした。そんなことを思い出しなんとなく確信を得た常吉は、腕をいっぱいに伸ばして高いところにある窓をとんとんとたたいてみた。運転手のおっちゃんが顔を出す。訳を話すとおっちゃんはあっさり「ええよ。乗り」とだけ言った。
とりあえず公衆電話に走り、事情を母親に話すと、当然ながら難色を示した。「大丈夫なんかそれ。いいから今日は帰ってきいや」と言う。常吉にはいったん帰宅という選択肢はすでにないので、ごちゃごちゃ反論すると母親もついに折れた。「ほんならおじいちゃんにフェリー乗り場に迎えに行ってもらうよう電話しとくわ。運転手さんにちゃんとお礼言うねんで」
それでまたトラックに走って戻り、びっくりするぐらい高いところにある助手席によじ登った。常吉はトラックに乗るのは初めてであった。
しばらく待つと、車列がフェリーに向かって進み始めた。この間、運転手のおっちゃんはほとんど口をきかなかった。洲本に着いたら迎えが来ているのでそこで常吉を下ろす、ということだけ確認したら、世間話みたいなことは一切しないで黙っている。よほど機嫌が悪いのかと常吉は少しハラハラしたが、どうやらそういうわけでもなさそうで、もしかすると仕事で疲れていたのかもしれない。車両甲板に駐車しエンジンを切るなり、おっちゃんはごそごそとキャビン後部の仮眠ベッドに移動した。
「わしはここで寝てっさかいな。なんぞあったらあかんから、車から出んとここにおれよ」
それだけ言うと、おっちゃんはしゅっとベッドのカーテンを閉めてしまった。
常吉は船内を探検する気満々だったから、車外に出るなという言いつけにひどくがっかりした。しかし文句を言える筋合いもなく、はいと答えてあとは助手席にちんとおさまっているより他になかった。周りの車の屋根が見下ろせる眺めはいくらか新鮮でもあったが、2分で飽きた。暇をつぶすものは何もない。車の列の前方には、フェリーのランプドアが立ちはだかり視界をさえぎっている。1時間後、洲本港でこのドアが開くはずだが、とてつもなく遠い未来に思えて常吉は思わずため息をついた。おっちゃんはおかまいなしにカーテンの向こうで眠っているようである。
体感上では3時間ほど、しかし実際には定刻通り1時間の航海で、フェリーは洲本炬口港に着いた。その直前にぬっと起き出してきたおっちゃんは、常吉の姿を確認すると小さくうなずいて、それからエンジンをかけた。周りの車も次々にエンジンをかけ、船のエンジンの地響きみたいな音とともに騒々しい中、やっと前方のランプドアがゆっくり開き始めた。待ちに待ったとはこのことである。トラックが動き出し常吉はやれやれという思いでいっぱいであったが、上陸したとたんに路傍に祖父の姿を見つけて叫んだ。
「あっ、おじいちゃんや!」
運転手は素早くトラックを脇に寄せて停車した。祖父ははためから見てもおろおろした様子で駆け寄ってきて、常吉のことは後回しにして運転手のおっちゃんにさかんに頭を下げた。おっちゃんは「いやいやちょっと乗せたっただけやから…」と恐縮するが、それでも祖父は熱心に礼を述べ、後日お礼の品を送ったりした、とも聞いた。
しかし常吉はその時、おっちゃんにきちんと礼を言っただだろうか。一生懸命思い出すのだが、どうもそのような記憶がない。それどころか、運転手のおっちゃんがどれぐらいの年齢で、どんな顔つきだったかすら、まったく憶えていないのである。
*
それから10年ぐらいが過ぎて、常吉は札幌に住んでいた。
奈良と札幌の行き来は飛行機か長距離フェリーをよく利用したが、東京に寄って友人に会ったりすることも度々あって、このような時は鉄道に乗ることも多かった。東京と北海道を結ぶ鉄道はけっこう便利だったのだ。
もう青函トンネルができていて、寝台特急「北斗星」が何本も走っていた。上野から札幌まで、乗り換えなしで寝たまま行けるという最高に便利な列車だが、それなりに高くはついた。そこで安くあげるべく、急行「八甲田」に乗って青森まで行き、次に函館までは「海峡」という名の快速列車、函館からはまた特急か急行に乗って札幌へ、およそ20時間以上かかるルートを常吉はよく利用した。
「八甲田」は、寝台はなく座席だけの夜行急行で、リクライニングとは名ばかりの、ごく浅くしか倒れないベッコベコのシートで一晩、約12時間かけて青森まで乗り通すタフな列車であった。それでも比較的安く北東北に行ける手段として人気があり、また北国ゆき夜行列車独特の風情もあって愛されていた。常吉もそれが何やら楽しくて、新幹線には乗らず、「八甲田」を愛用していたのである。
休み期間中はよく混むので、臨時便が増発された。これに常吉は乗ったわけだが、意外なことにその日車内はがらがらで、余裕で二人席を独占することができた。すいているだけで長旅はがぜん楽ちんである。安心してビール缶を開け発車を待っているところに、老夫婦がすっと近寄ってきた。小学3年生ぐらいの少女がくっついている。じいさんが常吉に問うた。
「どちらまで行かれますか」
「青森まで、それでその先札幌まで行きます」
「そうですか、じつは孫娘がこれから一人で一戸まで帰るんですが。着くのが朝早いので、この子が寝坊しないようにちょっと見ててやってほしいのです。一戸駅にはこの子の両親が迎えに来ます」
そうじいさんが話し、ばあさんと一緒に頭を下げた。少女は黙って突っ立っている。
別にお安いご用だけど、女の子だし、女性客に頼んだほうがいいのでは、と思って常吉はあたりを見回したが、数少ない乗客のなかに女性はひとりもいないようである。常吉が快諾すると、老夫婦はいかにも安心したようすで、孫娘を2列ほど離れた席に座らせて、いろいろ言い聞かせたり、名残を惜しんだりしてからホームに降りていった。
女児を夜行列車に一人で乗せるなど、現代ではあり得ないだろう。そして平成初期の当時からしても、なかなか大胆だったという気がする。常吉はお世話役を安請け合いしたけれど、男子学生と小学女児のふたり連れで長距離列車に乗っているなど、現代なら間違いなく通報ものだし、この当時でも不審に思われる可能性はおおいにあっただろう。しかしそんな懸念はひとつもしないで、すんなりお世話役を受け入れたのは一種の夜行列車マジックであったようにも思う。
ちょっと散歩にでも行こうか、と誘うと少女はおとなしくついてきた。いちばん後ろの車両のデッキまで行き、後方に流れ去る暗い線路を眺める。少女は線路の両側にずらりと立ち並んでどこまでも尽きないマンションや雑居ビルの群れをしげしげと眺め「こんな高いビルはうちの街にはひとつもない」という内容を岩手の言葉でぽつりともらした。
そんな感じで終始おとなしくしていた少女であるが、席に戻り向かい合わせに座っていると、だんだんと普段のペースを取り戻したようだった。たいへんにおしゃべり好きらしく、ほうっておくといつまでしゃべっている。ご機嫌でよかった、と常吉は安心するが、こどもトークの常で、話はとっちらかってつかみどころがない。しかも共通語に寄せて話そう、という気はゼロらしく普段どおりに方言バリバリである。一生懸命聞いても、半分ぐらいしか理解できなかった。何がおかしいのかよくわからないが、少女はうれしそうにけらけらと笑っている。それで、常吉はまあいいかと思った。
大人みたいに酒を飲んでだらだら起きていることはない。話し疲れたのか少女はわりに早い時間に自席に戻り寝てしまった。常吉もなんとなく気が抜けて、いつもより早めに眠りに落ちた。夜中に二度ほど目が覚めて、いちおう少女の様子を確認してみると、二人席の座面に上半身をすっぽりおさめて、脚を豪快にひじ掛けの上に投げ出し熟睡のようである。堂々たる寝姿は夜行列車の達人と呼ぶにふさわしく、常吉はおおいに感心した。
次に目を覚ますと窓の外は明るくいいお天気で、さわやかな空の下、広々とした田んぼが後ろに流れ去ってゆく。少女はもうすでに起きていて、昨夜のおしゃべりぶりとは一転してすこしぼんやりとしていた。だけどここで起きていれば降りそこねることはないだろう。常吉は安心して車窓を眺めつつ、もしご両親と話すことができたら、いい子にしてましたよ、おかげでぼくも楽しかったです、と伝えたいものだと考えた。
一戸駅が近づいてきた。荷物をまとめ、ふたりで忘れ物がないか確認してから、連れ立ってデッキに向かい、扉の前に待機した。「八甲田」は一戸駅にすべりこむ。少女は熱心にホーム上を眺め、迎えに来た親の姿を見つけて叫んだ。
「あ!父さんいた!」
その位置からだいぶ通り過ぎたところで列車は停まり、扉が開く。少女はゴムまりのように外に飛び出し、一目散に両親の元に走った。続いて常吉がホームに降りてみると、再会を喜びあう親子の姿が遠くに見える。停車時間はわずかだから、それだけ見届けてまた車内に戻った。
「八甲田」は再び走り出し、たんたんと県境を超えて青森に入った。時々電気機関車がぴぃと汽笛を鳴らす。涼しげに晴れた空が広く見える。
常吉はさきほどの一戸駅でのことを思い返している。見事なまでに、少女は常吉の方を一度も振り返ることなく、ばいばいの一言もなく走り去った。夜行列車の友として、すこしは別れを惜しんでみたかったから残念な気がする。
気にかけてくれたおとなにちっとも謝意を表さなかったというのは、こどもだったころの常吉も全く同じだ。だから自分のことをまるきり棚に上げての勝手な感慨であった。
けれども考えてみれば、こどもというものは周りの人々から配慮も親切もたくさんもらって当たり前、で生きているのだ。そのたびに礼儀正しくお礼を言うのもいいけれど、そうしている時点でもう、こどもの領域から出て行きつつあるということなのだろう。なるほど「感謝のこころ」なるものは年齢におおよそ比例しているのだな、とすっかりおっさんになった常吉は思う。