アニメ、ゲームなどの年代ごとの「はやり路線」と、最近の「新海誠」監督の一連の映画作品の独特な特徴(東日本大震災後の社会世相の「非日常状態から、最終的には、小さい1点の普通の日常を見つける」)と、「コロナ5類移行」後の特徴の違いについて

現在、自分は、「画像生成AIで出てきた画像を見て、何か思いついた背景設定を書く」というのと、「テーブルトークRPG」のゲームマスターの手法を混ぜて、それが、どんどん溜まっていけば、何か1つ位、「何かラノベ的なお話」が作れるだろうという感じのような事をやっている最中なのですが、
・書いている本人は、「弱いラッキースケベ辺りが入るギャグ路線異世界転生もの」という現在主流のパターンで書いているつもりなのに、「書き上がったものを読んでみると、ただただ恐ろしいだけの話」になっている。
という問題が生じている。(SFホラーになったという事)

何で、書いている本人の頭の中のイメージと、書き終わった内容が全然違うものになっているのか?という現在の問題を解決するために、最近、「ああ!こうすればいいのか!」というものを見つけたので、「クリエイター」にとっては面白い話と思ったので書く事にした。

最近のアニメなどの傾向

アニメ、ゲームなどは、年代ごとに大幅に「はやり路線」というものが変わっています。(年代ごとの「はやり路線」の特徴は、もっと大量にあるが自分が詳しく当時の社会情勢も知っている部分を書くと、次のようになる)

<年代ごとの「はやり路線」>

・<1960年代から1970年代の日本(「スポ根」=「スポーツ」+「根性」)>

『サインはV』、『アタックNo.1』、『エースをねらえ!』などの時代。
この世代は、「戦中の軍事教練」の影響もあって、「スパルタ教育」、「鬼コーチ」が普通だった時代だったので、現在では、むしろ「パワハラ」で普通に訴えられる事を学校の先生が現実でもしていた時代でした。
日本の「高度経済成長期」にあたり、現実社会でも、「頑張れ、踏ん張れ」の時代背景。
「スポーツ」は、「根性を鍛えるための道具」だった時代で、自分は昭和の世代なので、自分の小学校、中学校時代辺りまでは、学校の運動部といえば、そういう雰囲気だった。
学校、裁判所、警察内の尋問室、空港などの外国人入管施設など、現在でも、「密室」になっている箇所は、戦中の当時の「軍事教練」の慣習が残ったままになっている悪い箇所が、日本では、まだ数多く残っている。

・<1970年~1980年代頃「ギャグ路線」、「ヒーローもの」、「ロボットもの」、「ハレンチもの」など大量にできる年代>

「団塊ジュニア世代」が、子供から青年期だった時代にあたり、とにかく、「大量の子供がいる世代」なので、いろいろな路線が爆発的に誕生するようになった時代です。
「団塊世代」というのが、昭和の戦中、戦後直後の世代なので、とにかく兵隊数が足りないので、どんどん子供を産めという国策をやった世代なので、「団塊世代」は、「6人~8人」という子供を持つ世帯が多かった。
この人数の多い、「団塊世代」が親になった後に産まれてきた世代が、「団塊ジュニア世代」で、「親と子供の両方の人数が多いので、何を作っても、製品は飛ぶように売れるという、超高度経済成長期に入り、すぐ次に、「バブル経済」の時期に入った」
こういう時代背景だったので、
・数合わせで、とにかく適当に作った「ネタ」作品でも何でも売れた。
ので、現在とは違って、
・自由過ぎる作風、何でも有りの実験作品をクリエイターが作れる環境があった。
自分の子供の時代の世代は、ここの世代にあたるので、最近の「息苦しいコンプライアンス地獄で何も作れない環境にあるクリエイター社会」というものには反対している。
「実験的思考」ができるだけの余力が無いと、クリエイターはアイデアすら出せなくなると思う。
名作の「初代」作品群は、大体、この時期にみんな作られている。
結局、自分自身の人生の中で見た作品の中で、心に残っている作品は、「資本主義の売れる路線作品」ではなくて、「自由過ぎる作風、何でも有りの実験作品をクリエイターが作れる環境があった」方の、「クリエイターに自由な発想が可能だった(『うる星やつら』とか、『超兄貴』とか)」時期に作られた作品でした。
「資本主義の売れる路線作品」というのは、クリエイターの制作会議の時に、マーケティングやら経営やらの人達が、「路線変更」など、かなり口を出して、「決まったパターン化した作品しか作れなくなる」から作品の命の火が消えたような、「つまらない作品」ばかりになってしまった。
マーケティングの人から見ると、「安全牌を切った」つもりが、「ありきたりの量産型を作っただけ」になるので、何も心に残らない失敗作になってしまいやすく、この近辺の時期の「サンライズロボットアニメ」なんかが、完全に、不発のスランプの時期に入ってしまった。(どちらかというと「ノルマ」と「数合わせ」だけに作らされていた時代)
自分は、リアルタイムで当時の「サンライズロボットアニメ」不発の時期を見ていた世代だったので、よく知っている。
子供達の期待があって、「次の新しいロボットアニメは何か」みたいなのが先にあって、新しいアイデアを出さないといけないのに、クリエイター達は、ノルマをこなすだけで精一杯だった。(資本主義のむなしい宿命)

・<1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月まで「バブル経済期」>

「バブル経済期」という、現在の日本とは違って、桁違いに富んだ国民の時期があった。
この時期に、日本は、「テレビゲーム」、「家電」、「国産コンピューター全盛期」という時期に入って、
・「秋葉原」は、「家電とテレビゲームの町」になっていた。
・「AV(オーディオ、ビジュアル)家電」の充実もあって、「OVA」という「テレビアニメでは無い、オリジナルセル版アニメ」を大量に作れるだけの余裕があった。
・「国産コンピューター全盛期」に入ったので、「X1,MZシリーズ,FM-7,PC-8801,PC-9801,X68000,FM TOWNS」といった「国産コンピューター」が爆発的に売れて、特に、「PC-9801がオフィスコンピューターとして正式採用する企業が多かった」事もあって、家庭でも、「PC-9801とワープロ、表計算ソフト」の組み合わせで購入する父親が増えた事で、「大人路線ゲーム」の市場が急拡大して、「エロゲ」ブームとなった。
また、「国産コンピューター」ではないが、「MSX」規格という安価なパソコンを、「子供向けのコンピューター教育」として購入する世帯がかなりの数いた。
自分も、「MSX1」、「MSX2+」を持っていた世代。
この時期には、「団塊ジュニア世代」が、ちょうど、アルバイトや仕事に就ける年代になってきたので、
・自分の稼いだお金で、好きなゲーム、アニメ、高級オーディオマニアなどをするという、「オタク」路線が発生した。
自分が大学生になった時期がちょうど、「DOS/V規格が入ってきて、国産コンピューターが終焉になりだす兆候が出始めた時期」だったので、大きく値崩れしていた「PC-9801互換機」の「PC-386S(EPSON)(5インチフロッピーディスク)」というやつが秋葉原の店頭で新品で投げ売りされていた「29800円」位だったやつを買って、当時持っていたので(今は大きすぎるブラウン管ディプレイが邪魔で捨ててしまったが)、ギリギリ「MSX」世代だった自分は、「MS-DOS」の知識を得る事ができたが、基本的に、「ゲームを動かすためのMS-DOSの知識」しか知らない。
この日本の「バブル経済期」の時期のアニメ、ゲームの「はやり路線」は、
・「ラブコメ」=「ラブコメディ」
・「ボーイミーツガール(Boy meets girl)」もの

という、現在も主流の路線で、「少年が少女と出会う」所から物語が大きく動き出して、「共に冒険していく少女」という実際の人生でも経験する「恋愛」とも少し違う、「恋愛1歩手前」位から、場合によっては、「恋愛が開始する」辺りまでを描いた物語の路線で、「ファイナルファンタジー」なんかが、この路線になっている。
・「ハーレムラブコメ」路線
当時、初期のコンピューターでは、「メモリが高価過ぎてたくさん積めない」時代だったのが、だんだん、「大容量メモリ」を扱えるゲーム機、パソコンの時代を迎えて、「今までに制作不可能だった大量分岐シナリオ構築」ができるようになって、ゲーム制作の手法の方が、『ときめきメモリアル』なんかのように、「複数に分岐してターゲットの1人の女性を攻略しエンディングを迎えると、主人公はリセットされて最初から開始する」ような、シナリオライターへの依頼が増えた時代という事もあって、大量の女性が登場するようになっていった。
結果的に、アニメなどの方では、ゲームのように「フラグ」を使ってシナリオ分岐できないので、「ハーレムラブコメ」路線が増えていった。

・1991年頃「バブル経済崩壊」

・1999年「ノストラダムスの大予言」
辺りがあって、「世紀末」路線もあったのだが、現実には、
・「団塊ジュニア世代」が、ちょうど、アルバイトや仕事に就ける年代になってきたので、自分の稼いだお金で、好きなゲーム、アニメ、高級オーディオマニアなどをするという、「オタク」路線が発生した。
というやつは1度発生すると止まらないので、アニメ、ゲームはむしろ、「コンピューター性能がどんどん上がった」事で、ゲームするユーザー側も、クリエイター側も、どんどん制作は進んだ。
ユーザーがお金を使うので、「萌え」路線も増えていった。「バブル経済崩壊」など、「破滅的な現実」から目を背ける「現実逃避」と「癒やし」にお金が使われたからだと思われる。
ただ、「1970年代」、「1980年代」、「1990年代」、「1995年頃」とかで、アニメやゲームの作画のクセの特徴が大幅に変わっていく特徴は出ている。
この辺りの時期には、ユーザー側に、「ゆとり教育」の世代も登場した事で、「日常」系アニメという、「何も起こらない、ただの日常を延々と語る」路線や、「ゆるふわ」系なんかも増えてきた。

<次からが、今回、自分が書きたいメインテーマに関係する内容>

・2011年(平成23年)3月11日東日本大震災発生

・2019年11月~12月頃辺りから、新型コロナウイルス発生と、全世界パンデミック発生

この辺りの時期に、「新海誠」監督の一連の映画作品の独特な特徴に、多くの人々が興味を惹かれるという現象が発生した。
2016年『君の名は。』
2019年7月19日『天気の子』
2022年11月11日『すずめの戸締まり』

(「新海誠」監督の一連の映画作品の独特な特徴)

「新海誠」監督の一連の映画作品の独特な特徴としては、
・「非日常状態から、最終的には、小さい1点の普通の日常を見つける」
というような、共通した世界感があって、これが、
・「東日本大震災発生」、「新型コロナウイルス発生と、全世界パンデミック発生」を経験した、現代の世代の心や気持ちと一致するので、共感を得やすい。
という特徴がどうもあるようです。

「新海誠」監督の作品の場合には、
・「いきなり主人公が非日常世界に放り込まれる」
という特徴があるが、これは、「天災的な人間の力ではどうしようもない非日常空間」で、似た最近の傾向に、「異世界転生」ものという路線があるが、そちらの方は、「異世界転生をした後の世界は、主人公にとっては、"非日常"ではあるが、ただ単に、文化が違う場所に、いきなり放り込まれただけで、行った先の異世界でも、"日常"が続いている」という大きな違いがある。
この「異世界転生」もの路線が増えた背景には、
・「東日本大震災などの天災」、「911テロ以降の難民急増」など、「いきなり自分が非日常世界に放り込まれる」経験を現実にする機会が増えた社会背景が当時あった。
「新しい日常になじんでいく」というのを、震災関連の心理学で、「レジリエンス」=「(心理学では)心の復元能力」という。

また、ゲームでは、「ナラティブ」という新しい路線が加わったりして、
・『FAR Lone Sails ファー ローン セイルズ』なんかの場合には、「破滅し終えた世界から、すでに壊れてしまっている日常の欠片を探す」冒険になっているなど、人間の精神性が、そういう方向性へ向かっている最近の特徴がある。
・2020年1月『void tRrLM(); //ボイド・テラリウム』(世界が完全に崩壊し終わった後の世界感で、1人残された衰弱しきった「菌糸に侵された状態で眠る少女トリコ(片目から菌糸がすでに出てしまっており、どう見ても助からない)」を見つけたロボットがお世話するゲーム。「文明が滅び、有毒な菌類に汚染された過酷な世界」で外界はすでに人間が生存不可能な汚染された環境)
みたいな、同様の路線ゲーム、アニメが増えていくという、かなり特徴的な最近の傾向がある。

・<2023年(令和5年)5月8日、日本での新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置付けが5類感染症になる>

https://www.mhlw.go.jp/stf/corona5rui.html

・2024年3月22日『(映画)デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』
・2024年4月期テレビアニメ『終末トレインどこへいく?』

それで、「2023年5月日本での新型コロナウイルス感染症が5類移行」になった今の時期には、また少し違った路線の『(映画)デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』、『終末トレインどこへいく?』というアニメをやっている。

「新海誠」監督の一連の映画作品の独特な特徴としては、
・「非日常状態から、最終的には、小さい1点の普通の日常を見つける」

という特徴だったが、
・「コロナ5類移行」の今の時期には、『(映画)デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』、『終末トレインどこへいく?』のように、「破滅的な非日常世界のただ中に居ながらにして、普通の「ゆるふわ」な日常生活のまま描かれる」という風に変わってきている。

それで、自分は、それを見て、
・「ああ!今の自分が書いている何かラノベ的なやつが、書いている本人の頭の中のイメージと、書き終わった内容が全然違うものになっていて、"何か恐ろしいだけの小説"になっていて、軌道修正不可能っぽいな」と感じていたやつを、そういう風にすれば、「何か恐ろしいだけのホラーSF小説」の中に、「ゆるふわ」を混ぜられるのか?と、ようやく道筋が見えたというわけです。

こんな感じで、「クリエイターが自然な発想で書いていくもの」も、「ユーザー自身が、今のご時世の社会環境の中で心の中に感じている出来事」も、その当時に起きている社会環境で、大きく変わっていくものなので、「自分自身が感じていないものは、クリエイターも作れない」し、自然発生的にそうなっていく、という事が、今まで、長々と「はやり路線と当時の社会世相」を見てきて、ようやくわかってきた。
自分自身は、最近の、「資本主義的に利益を出せないものは作品として価値が無い」、「資本主義が原因で作風や作品の内容を歪められる」という法律的に間違った風潮には賛同できないので、自分の世代では、「団塊ジュニア世代」なので、
・自由過ぎる作風、何でも有りの実験作品をクリエイターが作れる環境があった。
という環境で育った世代なので、とりあえず好きなように作ってみる予定です。
何で、今の自分が書いている何かラノベ的なやつが、書いている本人の頭の中のイメージと、書き終わった内容が全然違うものになっていて、"何か恐ろしいだけの小説"になっていくのかがわからないが、どうも、中の人が辞典の校正をしている辞典学者なので、「書きたい、どうしても外せない論理が堅苦しい」部分が中心になっているからのようです。

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