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幸せについて

月にひとつくらいは記事を書こうと思っているのに気づけばもう月末。転職の準備はそれなりに大変だけど今のところ想定した以上ではない。他部署の人たちにいろいろ聞かれることも最近は一段落。冗談めかしつつも多くの人が引き止めてくれたり残念がってくれたりするのがうれしい。今の職場は本当にいい人たちが多くて、人に関して言えばこれ以上の職場はないだろうと思う。辞めることを後悔はしないけど自分もみんなと会えなくなるのはさみしい。辞めたあとも顔を出す機会があるといいなと思う。

リップサービスも含めてだろうけど、退職するってことで改めて、職場の人たちからの自分に対するよい評価を聞くことが増えた。自分は基本的に他者評価に無頓着というか、どう思われているかということにほとんど関心がないのであまり気にしたことがなかったけど、それでも当然よく思われている方がうれしいので、こんなことを言うのもなんだけど、退職も悪くないなと思ったりした。
自己肯定感という言葉はあまり好きではないけど、その自己肯定感とやらがたぶん自分はものすごく高いので、よい評価はもちろんうれしいけど、別にあえてよい評価を得るために努力をしようとは思わない。自分が自分を評価できていればよいから、他者評価は必要ない。そもそも自己は肯定したり否定したりするような存在ではない。肯定も否定も他者を評価するときに使うものだ。自分は単に自分の幸せのためにあればよい。自己愛という言葉もそう。愛とは他者にむけられるべきもの。自分は他者とは別次元の存在であって比較対象にすらならない。

といいつつ、じゃあ自分は誰の評価も気にしていないのだろうか、と自問自答してみたら、この世でただひとり、奥さんにはよく思われたいと思ってることに気づいて、ちょっと笑ってしまった。子どもたちにはどう思われてても別にいいのに、奥さんにはよく思われたいらしい。いや、むしろ、奥さんに評価してもらえているからこそ、それ以外の他者の評価が気にならないのかもしれない。そう考えると今の自分の価値観の根底には奥さんの存在があるわけで、何もえらそうなことは言えないな。


そして職場でのお客さんとの別れは現在進行系で続いている。少なく見積もって200人は担当しているので最低でも200人、ご家族や施設の職員さん等も含めるとそれ以上の別れを、少しずつ、毎日のように繰り返している。転職先は今の勤務地から高速道路を使っても1時間ほどかかる距離にあり、中には新しい勤務先まで来たいと言ってくれる方もいるけど、ほとんどのお客さんとは、大げさに言えば今生のお別れということになる。今の職場に20年近くもいると本当に多くの人と関わりを持ったんだなと感慨深い。通算でいえば1000人を超えているかもしれない。職場を含め、関わった人が全員来てくれるなら、LIQUIDROOMでワンマンをしてもソールドアウトできるかも。何もみせられるものはありませんが。
お客さんたちもだいたいみなさん残念がってくれるし、なかには泣いて別れを惜しんでくれる方もいる。お客さんたちは来る必要があるから病院に来るわけで、自分に会いに来てくれているなどと自惚れるつもりはないけど、それでも、中には遠くからわざわざ足を運んでくれる方もいるなかで、そこにいるのが他ならぬ自分であることに多少なりとも意味はあったのだろうし、少なからぬ時間や労力、お金を使って来てくれることに対して、自分も襟を正して向き合ってきたつもりではある。

よい医者とは、すなわち、病気を治してくれる医者である。医療を提供することを生業としている以上、その理想に少しでも近づこうと努力することは必要だし、それを怠ってはいけない。しかし、一方で、人間である以上、常に完璧な選択をすることはできないし、現代の医療ではどうすることもできないケースも存在する。そもそも、大前提として、人は必ず死ぬのだ。むしろどうにもできないことのほうが多い。ただの人間が、すべての人を助けようなんておこがましい。
よい医者になろうと努力することはプロとして必要な姿勢だけど、実際、よい医者になることは難しい。そして、そこだけを目指すのがはたして「よい医者」なのだろうか、と思ったりもする。そもそも、長生きすることはそれだけで幸せなのだろうか。前にも書いたけど、生きていること、それ自体に意味があるわけではなくて、生きている、その時間で何をするか、どう過ごすか、そこに意味が生まれるのだと思う。生きていること、それ自体はただの手段であり、目的ではない。
これも前に書いたことだけど、だからこそ、正解よりも納得が必要なんだと思う。もちろん正解があるならそれにこしたことはないかもしれない、でも、ほとんどの場合、正解がわからないなかで選択しなければならないから、結果がどうあれ、これでよかった、もしくは、仕方がなかった、そう納得できるような、そのプロセスが必要。と思う。
だから、よい医者であろうとする以前に「いい人」でありたい、と考えるようになった。常によい医者であることは不可能だけど、いい人であろうとすることは、それに比べれば遥かに簡単だ。もちろん、価値観は人それぞれだから、全員にとっていい人にはなれないけど、それでも、多くの人には気持ちは通じる。相手の気持ちを汲んだり、共感したり、いっしょに喜んだり悲しんだり怒ったり笑ったりしながら、治療についてもいっしょに悩みながらその都度相談して決めていく、その積み重ねこそが、正解でなくても納得につながるんだと思っている。そして、誰かに対していい人であろうとすることは全く自分の心に背かないから自分にもストレスがかからないし、それが仕事だから感謝してもらう筋合いもないのに、多くの場合、感謝してもらえる。感謝してもらいたくてやっているわけではないけど、やっていることが誰かの幸せや納得につながっている、その結果が感謝だから、それはやっぱりとてもうれしい。好かれたくてやっているわけでも、感謝してもらいたくてやっているわけでもなく、自分自身の考える「いい人」になりたいから、そうしようと心がけている。心に背かない生き方がいちばんストレスがたまらない。


人生は結果ではなく過程に意味があるから、その過程で幸せな時間を過ごすことが人生に意味をもたせる、というのが自分の持論だけど、最近、結果にも意味があるかもしれない、ということを考えた。結果というか、人生のゴール、つまり死の直前に。そこで持ち物検査があるのかもしれない。持ち物とは当然、物理的なものではない。思い出とか、経験、そして内面的な成長だ。今までの人生を振り返って、自分の歩んできた道に満足できるかどうか、そして、死に対してどれだけ向き合えて、受け入れられているか。
今まで何度も書いているけど、ソクラテスはその弟子プラトンとの対話のなかで、哲学を「幸福への道」と説き、その幸福への道の哲学とは何かとの問いに、「死の予行演習」と答えたそうだ。死の予行演習とは、いつか必ず来る自分の死とどう向き合い、それを受け入れるか、ということだと思う。死はそれ自体が不幸ではない。必然である。だから、本当は、死から目を背けずに向き合うことこそ、人生の意味について向き合うことだし、幸福への道なのだと思う。これも前に書いたことだが、「100日後に死ぬワニ」が多くの人にインパクトを与えたのは、ワニくんがあと何十日後かには死んでしまうという視点を持つことで、何気ない彼の日常に特別な意味があると感じさせたからだろう。自分が何日後、何ヶ月後、何年後に死ぬのか、それはわからないけど、いつか必ず死ぬことだけは決まっているのだから、自分の何気ない一日にも、本当は特別な意味があるはずだ。死を意識することで、人生はより意味を持つことになる。死から安易に目を背けることは幸せにはつながらない、と思う。


あと、人生の結果ではなく過程においての意味、幸せな時間を増やすことについて。幸せの定義が人それぞれ、千差万別である以上、自分にとっての幸せの答えは自分のなかにしかない。絶対に他者のなかにはない。他者と比較することは幸せには通じていない。ここで言う幸せとは相対的なものではなく絶対的なもの。自分の中で変わらないもの。あと、できれば自分のなかで完結するもの、他者に依存しないものであることが望ましい。変わらない愛を得たい、と望むと、その幸せは他者に依存することになる。自分の中で完結し、他者に依存しないのは、自分のなかの相手への愛の方。自分にとってとても大切な存在がある、ということは、それ自体がとても幸せなことだ。相手からの見返りは必要ない。あったらうれしいけど。
もっていない幸せを求めるより、今ある幸せに目を向ける、気づいていなかった幸せに気づく、その方が大切。もちろん、幸せを求めて努力する、それもとても大切なことだけど、実は、結果ではなくその過程にこそ意味がある。武道館でライブをすることを目標にがんばって、結果、武道館にたどり着かなかったとしても、その日々にはとても大切な意味があったと言ってよいし、幸せな日々だったと思ってほしい。叶わない夢の方が多いけど、かなわなかったことにだってちゃんと意味があるし、むしろそちらの方が得るものは大きいのかもしれない。幸せの青い鳥は最初から青かったわけではなかった。いろんな経験が、それまで気づかなかった幸せに気づかせてくれることもある。そして、チルチルとミチルが、さんざん苦労して探していた幸せの青い鳥を、あっさり他人にあげてしまうことにもきっと意味があるのだ。結果的に武道館でライブをしたかどうかに意味があるのではなくて、そこを目指して努力した日々のなかにこそ、幸せがあるんだよ。きっと。


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