青い鳥は最初あまり青くなかったんだね

先日考えたこと。


もちろん、メーテルリンクの童話劇「青い鳥」の話。

noteを書くにあたって、飛ばし読みだけど、Kindle Unlimitedにあったのを2冊読んでみた。

下の児童書の方が圧倒的に読みやすいし、表現を少しやさしくしているくらいで内容は改変されていないので、下がおすすめ。


自分があえて読み返してみようと思った最大の理由は、

「幸せの青い鳥は、最初から青かったのに気づかなかったのか?それとも、旅から帰ってきたら青くなっていたのか?」というのを確認したかったから。

ネタバレすると、兄妹の飼っていたキジバトは、最初はそれほど青くなかった。そのため、隣のおばさんの姿をした仙女に「青い鳥」を探しに行くように言われて、想い出の国や夜の御殿、森、幸福の花園、墓地、未来の王国を冒険するが、どこにも本当の青い鳥は見つからない。しかし、夢から覚めたあとで、飼っていた鳥が今までよりも青いことに気づき、その鳥をおばさんにあげる、というお話だった。

ちなみに、言いたいことの本筋とそれるからさらっとにするけど、最後、その青い鳥を、おばさんの(幸せになりたい病の)娘があやまって逃がしてしまうところも示唆に富んでいる。苦労しないで得たものは失いやすい、とか、幸せに通じてないってことかな、とか。苦労して見つけた青い鳥を、あっさりとおばさんの娘にあげちゃうのも、結果そのものではなく過程が幸せ、つまり、青い鳥じゃなくて青い鳥を探す旅、それ自体が幸せって意味かな、とか…

大人になって改めて読むといろんな気づきがある。とても良い機会だった。


自分の認識としては、この話は「足るを知る」ことが大切だ、ということを言っている物語だと思っていて、それはまあそうなんだけど、自分としては、「最初から青い鳥は自分の家にいたのに、それに気づかなかったんだ」「だから、今ある幸せに目を向けることが大事なんだ」という話だと思っていたので、最初はそんなに青くなかったんだ、と知って、少し驚いた。

と同時に、なぜ、最初はそんなに青くなかった鳥が、旅から帰ってきた(夢から覚めた)ら青くなっていたのか、そこに気づかないと、解釈としては足りなかったな、ということに気づいた。


兄妹は、旅の中で、幸せな思い出に後ろ髪をひかれても前に進み、恐ろしいことからも逃げずに挑戦し、さまざまなものを見て、感じ、経験する。その体験があったから、帰ってきた世界が今までよりも輝いて見えたし、当たり前すぎて気づかなかった幸せにも気付くことができた。その旅があったからこそ、それほど青くなかった鳥が、幸せの青い鳥になったわけだ。


「足るを知る」は、幸せになるうえでとても大切な認知だ。自分の持っているものに目を向けて、それがあることを幸せだと感じられないと、手に入れた瞬間にそれは「すでに持っているもの」になってしまって、幸せの対象ではなくなってしまう。そうすると、次のほしいものを手に入れるまで幸せになれないということになる。幸せを手に入れるよりも、持っている幸せを認識する方がずっと簡単で大切だ。

ただ、一方で、幸せを追い求める行為が無意味か、というと、決してそんなことはなくて、むしろ、幸せを手に入れるためにした努力とか、うまくいかないもどかしさとか、手に入らない悲しさとか、そういうすべての経験があるからこそ、それをする前には気づけなかった、自分の持っている幸せに気づくことができる。その経験がなければ、鳥が青くなることもなかったかもしれないのだ。


さらに言えば、自分の夢、目標のために、一生懸命努力したこととか、悩んだり泣いたり傷ついたりしたこととか、その経験や時間そのもの、それ自体が実は幸せなのだ。夢が叶って幸せなのは当然だけど、たとえ叶わなくたって、夢に向かって進んでいくこと自体が目的であり、幸せなんだと思う。

ゲームってクリアするために一生懸命プレイするわけだけど、本当の目的はクリアすることじゃなくって、ゲームをして楽しい時間を過ごすことであるはず。だから、クリアする直前で、無駄な寄り道をしたくなるんだと思う。クリアしたらこの楽しい時間が終わってしまうから。

前にnoteにも書いたし、ツイートもした通り、人生のゴールにはクリア報酬もなければ待っている人もいなくて、あるのはただ「死」のみ。だから、ひとは何のために生きているか、と問われたとき、ゴールそのものが目的ではないのは明白だ。つまり、人生の意味は結果ではなく過程にあるはず。

幸せの定義は人それぞれなんだけど、人生の意味が結果でなく過程にあるのなら、幸せというものもきっと、結果ではなく過程の中にあるのだ。一生懸命、自分のすべてをささげて、オリンピックで金メダルと獲得したとして、その幸せはきっと一瞬なんじゃないかと思う。だって、人生はそこからもまだ続くんだから。次のオリンピックを目指すならまた死ぬ気で努力する必要があるだろうし、競技は引退してまた別の道に進んだとしたって、それはまた違った目標に対するチャレンジに他ならない。だから、つらさも、もどかしさも、すべてひっくるめて、チャレンジしている過程そのものが、本当は幸せなんだと思う。

そして、たとえ結果が出ていなくて、焦りやもどかしさ、つらさや苛立ちを抱えて涙していたとしても、夢に向かってチャレンジしている今、この瞬間が、かけがえのない幸せな時間なんだ、っていう認識を持っていたい。それが、現状維持の、言い訳の「足るを知る」でない、一歩進んだ「足るを知る」なんだよ。きっと。

チャレンジすることはリスクを伴う。かけた努力や時間が無駄骨になってしまうかもしれない、それは恐ろしいことだ。だから、チャレンジせずに、「現状だって悪くないよね」っていう、現状維持の、悪く言えば後ろ向きの「足るを知る」で満足する、そういう選択をする人も多い。というか、現実にはそっちの人の方が多いと思う。チルチルが「青い鳥を探すの大変だよな…いま家にいるこの鳥だって、まあ青いっちゃ青いから、これでもそこそこ幸せだからいいかな…」みたいなことを言って、仙女を無視して寝てしまったら、お話にはならないけど、それを誰も責められない気はする。

恥ずかしながら自分は完全にそっちのタイプなので、リスクをとってチャレンジしている人たちのことを、本当に心から尊敬している。またまたアイドルの話になってしまって申し訳ないけど、自分の敬愛する推しのみなさんは、夢に向かって実際にアイドルとして踏み出し、いつもたゆまぬ努力をしている、それだけでもう本当にこの上なく尊いのですよ…ヲタクからしたら、売れてるとか売れてないとかそんなの全く関係なく、その決意と行動と過程だけで、充分すぎるほど推す理由をいただいています…

努力した分だけ、うまくいかないもどかしさに涙した分だけ、目に見えないものをたくさん得ているし、結果はどうあれ、ふりかえったときに、「この旅も幸せだったな」って納得できる。きっとそうなんだと思う。

今年、全員卒業して現体制終了となった「ヤなことそっとミュート」のラストライブを配信で観たんだけど、そのメンバーの表情が、本当に一点の曇りもないくらい晴れやかな、心から満足した表情で、それが何より印象的だったんだけど、きっと、いままでずーっと全力で頑張ってきて、後悔なくやりきったと胸を張れるからこその、あの表情なんだろうな、と思って胸がいっぱいになった。さみしくてずっと泣きっぱなしで自分の気持ちが全然追いつかなかったけど、思えば、卒業公演のときのねむきゅんも同じ表情をしていたな、と後で気づいたり。


「人生の価値は終わり方だろうから」。

以前にも書いた、ヨルシカの大好きな歌詞だけど、人生の最後に、自分もあの表情ができるように、自分の心に反しない、信念を曲げない生き方をしていかなきゃいけない。

大好きな推しに見合う自分でいたいからね。

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