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人生を幸福に仕上げるコツはウインナーコーヒーにあるのかもしれない 《会社員》


「こんな簡単なこともできないのか」

会社で言われる度に落ち込んでいた。
私には、"簡単なこと"ができない。

・・・

およそ10年前——

特に栄えてはいないが、田舎とは言えないような町。ほどほどに人々が笑い、青ざめて見える。涙を忘れたかった日々。風に流され、空き缶が不気味に音を立てながら転がっている。

駅前の混雑も落ち着き、会社員たちが概ね出勤しきった午前10時半頃、私はゆらゆらと町を歩いていた。

太陽があまりに目にしみる。

私はくたびれたスーツを身にまとっていた。"まとう"なんて、上品な言葉ではない。何度も踏まれた落ち葉を被っているような感じだ。

ゆらゆら歩きながらも、私が向かう先は決まっていた。いつもの喫茶店だ。



いつもの喫茶店——

これだけ聞くと甘美かもしれない。
私にとっては、ただの"逃げ場"だった。

新卒で入った職場で居場所を失い、出勤する際に乗った電車内で涙が止まらなくなる時があった。その度私は上司に連絡し、会社を休んでいた。

ただ、"居場所を失った"と思っていたのは、私だけだったのかもしれない——



このまま家に帰っても、どうせひとりだ。

だったら誰かと話せるような場所、遊び場へ、と思えるほど社交的でもない。そもそもそんな気概があれば、通勤電車で号泣する人間になっていない。

私はそんな時、決まっていつもの喫茶店に逃げ込んだのだ。


ここはいい。誰も私のことを知らないから。

こうして会社に行けなかった日や休日、私は足繁く通った。店の外を歩いている時には全く感じなかったのに、扉を1ミリでも開けると広がる喫茶店の香りが好きだった。お酒が弱く、思えば当時私が嗜める飲み物はコーヒーくらいだったのだと思う。


「いらっしゃいませ」

聞こえたような、聞こえなかったような。

それくらい静かな店だった。いや、私が利用していた時間帯がひっそりとしていただけかもしれない。

無表情の店員さんが、私の前に水をことんと置く。そのままどこかへ行ってしまった。

私はどんな人に見えているのだろう。そんなことばかり考えていたように思う。ハツラツとした表情をし、磨かれた靴に、出来立てのようなスーツを身にまとっていれば、こんな時間に喫茶店に入っても、成績の良い営業マンや、ちょっとした隙間時間を利用して仕事をする敏腕エンジニアにも見えるのかもしれない。


いつも通り、私はメニュー表を開いた。

とはいえ、どうせ頼むものは決まっている。一番安い、シンプルなホットコーヒーだ。

店員さんが水を持ってきてくれたタイミングで頼めばいいものの、私は一呼吸置いてしまう。遠回りな性格は今もあまり変わっていないかもしれない。

私は唾を飲み込み、ふっとメニュー表から顔をあげる。すると奥の方から、静かに店員さんが寄ってきてくれた。いつも無表情の店員さん。私は毎度何かを恐れるようにして背中を丸くしてしまう。

「お伺いします」

「ホットコーヒーで」

「かしこまりました」


たったこれだけの会話。もう何度もしたはずが、いつも緊張した。脇から、つーっと汗が流れる。

すぐに運ばれてくるホットコーヒー。私はそれを目の前にして、パソコンをかたかたと叩いたり、誰かとスマホで連絡を取り合ったりなどしない。なぜなら私は逃げていたから。

くいっと勢いをつけたら飲みきれるようなカップ一杯のコーヒーを、私は小一時間かけて飲んでいた。


・・・



いつもの喫茶店に行った翌日、私はなんとか出勤することができた。

「おはようございます」

入社当初はわりと大きな声で挨拶をしていたはずが、だんだんと声が細くなっていた。全員に ぎろりと睨みつけられているような視線を感じる。いくつかの部署の島(席)があり、そこを縫うように歩いて行った先に私の席があった。

私含め、4人で構成された島。

私の職種はざっくり言うとメーカーの営業だった。

その島に着いて、私はもう一度「おはようございます」と言う。主任は「体調どう?」と優しく声をかけてくれた。こんなにも仕事のできない、簡単な仕事もできない私に対してどうして、といつも思っていた。どうしようもない自分が惨めで、そうはいっても強くなれない自分に嫌気もさしていた。他の2人の先輩とも会話し、今日のお互いの仕事内容を確認する。その後、メールを返信したり事務作業をする。新卒でも、色々とひとりで仕事を任されていた。

他の島、他部署に行けば、私はよく怒号を浴びた。冷やかに笑われることもあった。「こんな簡単なこともできないのか」と。それでも報告することがあり、連絡する必要があるから行かなければならなかった。

会社員なのだから、こんなことくらいみんな経験する。落ち込んだり、苦しくなってしまう自分は脆弱なのだと思った。

事務作業や連絡などを行った後、私は外へ出る準備をする。得意先のところに行ったり、新たな営業先へ行ったりもしていた。うまくできない私は、そこでもよく怒られたり、失望されたりした。自分ではしっかりできるイメージがあるし、きちんと準備しているつもりだが、実際の出来はいつも見るも無残だった。

私への教育が行き届いていないわけでもなく、仕事のやり方は常に私のいる島で指導があった。それなのにできない自分が情けなかった。本当に情けなかった。


そうしてある日の夜、他部署の人たちとの合同で飲み会があった。だいたい2、30人くらいの規模だったと思う。

幹事は私だった。人生初めての幹事だ。

学生時代あまり飲みに行ったりするわけでもなく、そもそも友人も多くなかった私にとっては未知の領域だった。そしてその飲み会の日、私と同じ島の人たちは別件の仕事で、どうしても参加することが難しかった。なんとも心細かったのを記憶している。

それでもどうにか会社の近くの居酒屋をネットで探して予約をした。値段も見て、料理の内容も吟味した。飲み放題にするのか、どんなコースにするのか。課長やリーダーの食の好みがどうとか、歩いて5分以上のところは嫌だとか、そんなの全部叶えられるはずがない。でも決めなければいけない。

飲み会当日の前に、予約した居酒屋にひとりで私は足を運んだりもした。本当にちゃんとしているところか、少なくとも自分が納得できるところかを見るために。

とにかく心配だった。怒られることも怖かった。何をやっても怒られたり、嗤われるのはわかっていたけれど、自分の中でやれるところまでやってみたかった。

そもそも幹事程度のことで、どうしてこんなにもあたふたしているのだと、また自分の胸の中が哀しさでいっぱいになっていた。そうして、飲み会当日の夜——


私は皆を会社から店まで引き連れる。

大人だというのに、どうして皆あっちに行ったりそっちに行ったりするのだ。会社にスマホを忘れただの、あっちの店が美味そうだの、のんきな人たちばかりだ。そんな人たちを誘導し、必死な私を見て、また嗤われた。なんだこの人生、と思った。

店に着き、なんとか全員席に座ってもらった後、店員さんと今夜の営業時間などを最終確認したりする。とにかく確認だ。



その後全員の最初の飲み物を聞く。皆好き勝手喋るものだ。

「俺生!」「私レモンサワーがいい!」「私は帰りが車なので」等々。もう勝手にしてくれと思いながらも、「まず生何人ですか!!!」と、少し語気を強めながらも穏やかな顔を保ったまま私は注文を取り切る。というかこれ店員さんの仕事じゃんと思っていたけれど、私の体は勝手に動いていた。


飲み物が運ばれてきた後、乾杯の音頭を部長が取った。その前に私がひと笑いふられたのだが、かなりスベったのを覚えているだけで、どんなことを言ったか記憶がごっそり消えている。あまりの衝撃に脳の海馬が破壊されたのかもしれない。



なんやかんや盛り上がりながら飲み会は進行した。

「仕事ができないんだから、酒くらい飲め。飯も食え」

カシスオレンジ一杯で顔が真っ赤になる私が、ビールを2、3杯飲み、とにかく出された料理を平らげた。周りは笑っていた。ずっと、必死だった——


・・・


飲み会も終わり、数日が経った頃。

なんとか私はいつものように仕事をしていた。つらく、涙が止まらない日々があっても、耐え続けた。

いつも通りメール確認や事務作業をした後、私は外へ出た。また営業だ。色々とその日も外回りを終え会社に戻ろうと思った、矢先だった。私の社用携帯が鳴る。

「どういうことですか!」

得意先の人からだった。

その時色々と説明されたが、相手のあまりの怒りに内容が聞き取れない。とにかく「今すぐ向かいます」と言って私は車を走らせる。

現場に着き、状況を確認した。

詳細は避けるが、簡潔に記すならば、私とは部署の違う先輩がミスをし、得意先に多大なる迷惑をかけてしまったのだ。

私がその得意先での主な担当を受け持っていたので、私の携帯が鳴り、呼び出されたという形だ。



「どうしてくれるんですか!!」

私は、自分のせいではなかったが、とにかく頭を下げた。申し訳ございません、申し訳ございません、と。自分のせいとか、誰かのせいとか、そんなことを考える余裕もなかった。もっといえば、自分の担当しているところなのだから、先輩のミスに気づけなかった私のミスでもあるのだ。

この謝罪は、およそ3時間くらい続いていたと思う。

今後こういったことが二度とないようにという話を何度もし、その場を私は後にした。会社へ戻る車の中、涙は出なかった。苦しくて、つらくて。そんなものはきっと何周も回ると涙は出なくなるのだと思った。

定時の19時はとっくに過ぎていた。


「戻りました」

そう誰にも聞こえない声でつぶやく。社内は暗かった。しかし先の方を見ると、ぼんやりと光が見えた。私の島のデスクライトがついていたのだ。私はゆらゆらと漂流する。辿りついた島。そこにいた主任は私の目を見て、柔らかい声で言う——




「よう頑張ったな」


目から、ぶわりと水滴がこぼれた。

他の2人の先輩も、なぜか満足げに腕を組んでいた。

どうして、どうしてそんなに見てくれる。

得意先で謝罪している間、会社に連絡もできなかった。主任も先輩たちも、どうすることもできなかったようだ。

謝罪が始まる前に連絡はしていたが、何が起きていて、どうなっているか、いつ帰ってこれるのか知らなかったはずが、私の島の人たちは待っていてくれた。私を教育する責任があるから単に残ってくれたのかもしれない。ただ事実待っていてくれたのだ。こんな私を。


「申し訳ございませんでした」

私は深々と頭を下げた。苦しくて、つらい、とは違う。私を見てくれている人がいた。私の居場所は、ここにちゃんとあった。失敗ばかりで居場所を失ったと思って、申し訳ございませんと、心の中で想った。


「謝る必要ない」
「だってお前のせいじゃないだろ」
「真面目なお前は、きっと謝り続けたんだろう」
「ミスしたあいつがお前に謝りに来るべきなのに先帰りやがったぞ」

私の島の3人は、皆笑っていた。朗らかで、優しくて。そうして主任がまた口を開く。



「そしたら今日、飲みに行くか」


私はすぐに"飲み会"を想像した。あの飲み会。私が必死で惨めだった飲み会。怖くて、私は反射的に断ろうとしてしまった。ただその瞬間、主任はまた続ける。

「お前はコーヒー好きだろう?喫茶店に行くことがあるって言ってたじゃないか。飲もう、コーヒー。俺たちを連れてってくれよ」



・・・


特に栄えてはいないが、田舎とは言えないような町。人々が笑い、にこやかに見える。涙を抱きしめた日。風に流され、空き缶が小気味よく音を奏でている。

3人は、私に自然と歩幅を合わせてくれた。「楽しみだな」「連れてきてくれてありがとう」と道中も話しかけてくれた。



「ここです」

そう言って私は背筋を伸ばし、先に店に入った。後ろから続けて、3人が楽しそうに入ってくる空気があった。



「いらっしゃいませ」

いつもの無表情の店員さんがいた。だけれど、少しだけ笑みが見える。

夜遅くにもその店員さんがいるとは思わなかったが、なんだか私には安心感があった。その時、誰も自分を知らない空間が好きだったことは忘れていた。


水が、その日は4つ運ばれてくる。たったそれだけで嬉しかった。

店員さんの方に目をやると、いつもとは違う会話が始まった。

「今日は会社の人と一緒なんですね」
「あ、はい。店員さんはこの時間まで働いているんですか?」
「今日は急に出れなくなった人がいて、シフト変わったんです」
「そうなんですね」
「でも、、お客さんが見れてよかった」


店員さんは笑っていた。少し口角が上がっていただけかもしれないが、間違いない。あれは笑顔だった。

名刺を渡しあったこともないのに、私たちの会話は弾んだ。だっていつも見てるんだから当たり前だろうと言わんばかりに。

私はひとりで来ていた時と同じように、まずメニュー表を開く。「お前はいつもどれを飲んでるんだ?」と主任が言った。私は背中を丸くしながら、ホットコーヒーです」と答える。するとまた主任は言った。


「今日はさ、ちょっと贅沢してみろ」

これなんかどうだ?とメニュー表を指さされる。そこには"ウインナーコーヒー"の文字があった。恥ずかしながら当時、ウインナーコーヒーが何かわからず、「ウインナーがコーヒーに入ってるんですか?」と私は尋ねた。主任は優しく教えてくれた。どうやらコーヒーの上にクリームが乗っているものをいうらしい。

私は言われるがままにそれに決め、皆も同じにしてくれた。とはいえコーヒーを飲む前に、腹が減ったからまずは飯を頼もうと言って、ナポリタンやオムライス、カレーなどを注文した。

この飲み会改め、喫茶店の会は本当に楽しかった。

私は守られていた。会社に。人に。
だから自然と言葉が出た。


「守ってくださり、ありがとうございます」

そう言うと3人はまた優しく笑っていた。そうして主任が柔らかく口を開く。


「お前も、会社を守っているんだぞ」


また私は瞳を滲ませてしまった。笑みも溢れる。ナポリタンもオムライスもカレーも、皆で分け合って食べた。

そして、食後に運ばれてくる——


「お待たせしました。ウインナーコーヒーでございます」

いつの間にか無表情では完全になくなっていた店員さん。それを見て私は食事をするだけではない、何か特別なプレゼントをいただいた気分になった。


艶々の、綺麗なクリームだった。

ゆっくりと口につけ、少しだけ飲み込む。

「うまいだろ」と3人とも顔が言っていた。だから私は、「うまいです」と応えていた。

・・・


時間も遅くなり、店を出た。
私たちはまた歩幅を合わせる。

帰り道。駅に向かう途中、主任は話してくれた。

「ちょっとでいいんだ。ちょっと自分にご褒美与えてみろ。気分変えてみろ。簡単じゃないか。世の中はお前が想像しているよりも、ずっと幸福なんだ」



私は、簡単なこともできなかった。

「こんな簡単なこともできないのか」とよく叱られた。ただ主任は"別の面から簡単なこと"を教えてくれた。


「頑張っているんだから、自分をもう少し褒めろ。コーヒーにクリームを乗せるように」


もちろん、喫茶店側はただ単にクリームを上に乗せているわけでないだろう。簡単なことではない。コーヒーとの絶妙なバランスを考え、製作しているに違いない。ただ私たち客は、200円ほどいつもより多く払えばそれを"簡単に"受け取れる。その贅沢に感謝するんだ。その贅沢で、また頑張るんだ、と。そういうことを主任は加えて話してくれた。そしてまた続ける。


「仕事での"簡単なこと" が仮にできなかったとして、お前がそれをいつかできるようになった時、周りは賞賛し、感謝してくれるんだ。そんなものなんだサラリーマンは。その積み重ねだよ」


簡単に見えること。少しの贅沢には、きっと多くの人の努力が詰まっている。それが層を作り、世の中は広がっているのかもしれない。

2人の先輩は、私を間に入れ、肩を組んでくれた。

「人間は歩くだけで十分なのに、スキップができるんだぞ。すごいよな」

歩く、走るはわかるぞ。なんだよスキップって、と。


そして後ろから主任がささやく。

「ずっと下向いて歩く必要はない。たまにはスキップしてみたらどうだ。簡単なことだろう」






現在の私は、また別の会社に勤め、変わらず「会社員」をやっている。報告や連絡、相談をきちんと行い、マナーもまだまだ不完全ながら身についてきた。店の予約、幹事などお手の物。そして、全ての仕事、簡単な仕事に誇りを持っている。後輩に対して、ちょっとした声かけをできるようにもなった。

簡単なことのようで、難しいことは世の中にたくさんあるだろう。それをなんとか形にし、さも当たり前かのように世の中は流れている。

現在の私は会社員として生きながら、苦労しつつも幸福を覚え、携えている。

およそ10年前、私は精神が完全に壊れそうなほど疲弊した。美しく締めるつもりは毛頭ないが、あの頃の経験は今でも活きている。あってもいい苦労と、なくていい苦労もわかってきた。

当時、私のいた会社。島が教えてくれた。

簡単なことで世の中は変わる。ひとりの人生が変わる。

簡単なことに、誇りを持つべきだ。



今日、喫茶店に行こうか。

人生を幸福に仕上げるコツは、ウインナーコーヒーにあるのかもしれない。


詩旅つむぎ

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