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シチリアの旅をふりかえってみる。


シチリアなしのイタリアというものは、われわれの心中に何らの表象をも作らない。シチリアにこそすべてに対する鍵があるのだ。                          『イタリア紀行(中)』ゲーテ / 相良守峯訳


十年ほど前の夏、シチリアを旅した。

なんの予備知識もなかった私と夫を、シチリア出身の友人ナンドが案内してくれた。ナンドは高速道路をぶっとばし、時間が許すかぎり多くの観光地をまわり、ガイド本片手に細やかな解説をしてくれた。
まぎれもなくスーパーガイドだった。

それなのに、だ。
私はというと、悲しいかな、多くの時間を空腹と闘っていた。

旅をする人にはわかってもらえるかもしれないけれど、行きたい場所を優先したら、時間帯によっては適当な食事ですまさざるをえないこともある。行きたい場所においしいものがあるとはかぎらないし、特においしいものは観光地から少し離れたところにあることが多い。どちらかを選ぶことは、どちらかをあきらめることになる。

でも、ナンドはちがった。
彼はどちらにも妥協しなかった。

おいしいお菓子屋さんがあれば朝食後すぐにでも入るし、おいしいお店に行くためならば、昼食が2時をすぎてもかまうことはなかった。

私たちのために、移動時間から観光時間、昼食の場所まで、細かく計画を立ててくれていたのだろう。

そのやさしさをひしひしと感じながらも、普段と違う食事時間に「はらが、へった……」と低電力モードで朦朧としながらついていった記憶しかない自分が、今でも本当に情けない。

ナンドの説明の半分も理解できていなかったであろうシチリア。
かのゲーテが魅了されて、2年間も滞在したシチリア。

そんなシチリアの一部をもういちど、写真とともに味わってみたい。



***

ナポリからシチリアまでは、電車で8時間ほどかかる。
その道中もっとも楽しみだったのが、電車ごとフェリーに乗りこむことだった。

港の駅に着くと電車はスピードを落とし、ゆっくりとフェリーのなかに吸い込まれていく。感動もつかの間、まわりの乗客はつぎつぎとデッキへ。あわてて荷物をまとめて電車を降りた。

フェリー電車


船のデッキより。
線路とフェリーが連結している。

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メッシーナ海峡の風を感じること30分ほど。
対岸に着くと、電車はまた線路のうえに戻り、何ごともなかったかのように淡々と走り出した。


***

夕方遅く、ようやくカターニア駅に到着し、ナンドと合流。
それからエトナ山麓のニコロージという小さな町へ。

今日はちょうど、町のお祭りの日なんだとか。
行ってみよう、となる。

町の広場にある教会には、たくさんの人。
花火もあがって、にぎやか。

二ころーじ


広場にはさまざまな工芸品が展示されていた。

シチリア伝統の中世騎士の人形劇、PUPI(プーピ)。
時代劇もやっていた。『時代劇』が、なんかかっこいい。

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ハンドペイントの荷車、カレット・シチリアーノ。
18世紀ごろ貴族のためにつくられたもの。
今はお祭りの時などに飾るらしい。

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エトナ山の溶岩でつくられた顔。顔? 神?

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広場をぶらりとしていたら、ナンドたちの親戚や友人があれよあれよと集まってきて、20人くらいで飲み始める。同窓会のような空間。
混ぜてもらうも、長旅のせいで夢うつつ。

帰ったのは夜中の1時。
イタリア人の夕食は、遅くて長いと知った夜。
いま思えば、カラフルでしあわせな夜。


***

それから、観光地をめぐる日々。
まずは『走れメロス』の舞台でもあるシラク―サへ。

シラク―サのギリシャ劇場は、シチリアいち大きなギリシャ劇場。
石灰岩をくりぬいてできているからか、あたりいちめん白すぎて、サングラスをしていても目が開けられないほどだった。

シラク―サ


ギリシャ神話の、アレトゥーサの泉。
パピルスが自生している。パ、パピルス!

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エトナ山は、いまも活発な活火山。
一歩一歩、足裏に緊張がはしる。

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溶岩に咲く花。

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過去の噴火で、うまった小屋。

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ギリシャ神話の一場面。
怪物テュポンが、ゼウスにエトナ山を投げつけられて封じられ、山は火を噴くようになったという一説のもの。スケールがちがう。

エトナ山



タオルミーナ。
ギリシャ劇場の全体像。
少なくとも私たちが行った時は、リアルに舞台や演劇がおこなわれていたらしい。
ギリシャ時代の建物と、現代の音響機器が融合した、不思議な風景。


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帰ってからゲーテの『イタリア紀行(中)』を読んでみた。

それによると、古典世界にめざめたゲーテは、シチリアに残るギリシャ時代の痕跡を『オデュッセイア』を読みながら未完の悲劇『ナウジカア』を構想しつつ、熱心にたどったらしい。

正直なところ、ゲーテについては不勉強すぎて、名前をあげるのもはばかられるのだけど、本のなかにこのタオルミーナのギリシャ劇場の描写があったので、写真と照らし合わせてみた。

見渡せばエトナ山脈の山瀬は全部眼界におさまり、左方にはカタニア、否シラクサまでも伸びている海岸線が見え、この広大渺茫たる一幅の絵の尽きるところに、煙を吐くエトナの巨姿が見えるが、温和な大気がこの山を実際よりも遠くかつ和らげて見せるので、その姿は決して恐ろしくはない。
『イタリア紀行(中)』 ゲーテ p198


”煙を吐くエトナ”。

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”カターニア、否シラクサまでも伸びている海岸線”。

タオルミーナ劇場


ああ、まさしく。
ゲーテもこの景色を見たのだなあ。
この風景に”温和な大気”を感じたのだなあ。

ただそれだけ。それだけなんだけど。



***

だれかが味わった風景を自分も見たくなるのは、どうしてなんだろう。

過去の著名人や、この世を去った家族などが、ずっと前に見た景色。
ずれた時間軸でも、もういちど、自分も見てみたいと強く願ってしまう。

実際に見たからといって、特別な何かがわきだしてくるわけじゃない。
どんな気持ちになったんだろうとか、何を考えていたんだろうとか、ただ想像することしかできない。それも正解かどうかはわからない。

でもいつまでもじわじわと、心にとどまりつづける風景になる。


生きていると、気を抜けば孤独になるからだろうか。

孤独な自分と何かを細々と結びつけながら、うっすらとした自己満足のつながりをかさねて、不確かなものにうんうんとうなずきながらも迷いながら、ふらふらと蛇行をつづけていく。

少なくとも私の『生きる』は、こんなイメージなのかもしれない。

だれかの見た景色を自分も見たいと熱望しながら、いざ眺めるとふむふむと腑抜けた笑いを顔に浮かべて、わかったようなわからないような、何とも知れない気持ちになる。でもそれでも、かすかな接点を持てたと思えることで、自分のなかでは大きな満足を得られていたりもする。

ゲーテの見た景色を思いかえしながら、ふと、そんなことを考えた。



***

おまけの、食欲解放編です。

まずは、アランチーニ
おにぎりに、チーズやらハムやらを入れて揚げたシチリア名物。
カタチは地域ごとにちがうのだそう。すっごくおいしい。
幾度となく私の空腹を救ってくれました。

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カンノーリを買おうと入ったお菓子屋さんで思わず息をのんだ、フルッタ・マルトラーナ。くだもののようなこれらは全部、マジパン(アーモンドの粉と砂糖)でできたもの。
オレンジにかぶりつきながら、その糖分でエトナ山を登った記憶。

お菓子

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グラニータ
シチリアの暑い夏に定番の朝食なんだとか。ブリオッシュをつけて食べる。

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アイスの味は30種類くらいあって、シチリアっ子は自分のお気に入りの組み合わせがあるのだそう。

私たちも、味をふたつ選ぶことに。
夫が『カシス』と『コーヒー』を選ぶと、皆いっせいにギョッとする。
「だれもやったことないけど……。やってみたらいいよ」
個人の意思を否定しない、やさしさ。
でも、シチリアっ子がやったことないって、どうなん……。
注文したら、店員さんもギョッとして二度聞き。

案の定、でてきたグラニータは、食べられないほど難しい味でした。

選択の自由も責任も、自分にゆだねられている(あまりにかわいそうだったので、私のピスタチオとバニラを半分あげた)。


***

長々とまとまりませんが、私の感じたシチリアの一部をほんの少しでもおすそ分けできていたらうれしいなと思います。
お読みいただき、ありがとうございます!

おわり。





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